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Bluebird : キミとボクの詩 1

重たいとなじられても、怯む事なく前に進みたい。
だってこれが、ねぇ、ぼくらに残された最期の、たった一つの愛の伝え方だから……。

「スーちゃん起きてぇ!遅刻しちゃうよ!」
朝九時、いつも通りに寝室で目を覚ましたハルは、ベッドから抜け出すと隣りで寝息を立てる相方のスーに声を掛ける。
もう幾度となく繰り返されてきた日課だ。
「んぁ……もう朝か、あとちょっとだけ。」
寝ぼけ眼を擦りながら相方に返事をすると、スーは布団を被ってもう一度寝る体勢に入る。
「もう!朝寝坊は駄目なんだかんね!起きないと知らないんだから!」
怒ったハルは、スーの大きな背中を揺り動かしながら頬を膨らます。
「しょうがねぇな、起きるとすっか。」
さすがのスーも観念したのか、渋々といった表情でのっそりとベッドから起き上がると、まだ不機嫌そうな表情を湛える相方ハルの頬に、軽くキスをした。
「相変わらず朝弱いねぇ。」
すっかり機嫌を直したハルは、目の前のスーの頭をそっと撫でながら、しみじみと呟く。
「おう、任しとけ!」
何故だか自信たっぷりな表情で、スーはそれに胸を張って応じた。
「褒めてないからっ!」
呆れたハルはすかさず突っ込みを入れる。
いつもと変わらない、二人の朝のやり取りである。

「朝ご飯どうする?トーストとハムエッグで良ければすぐに作るよ。」
スーツへと着替えるスーに、ハルはネクタイを渡しながら声を掛ける。
「今日はいいぞ、銀行との約束の時間があるからよ……腹は減ってるけどな。」
人よりも大きなお腹を摩りながら照れ笑いするスー。
そんなスーの笑顔に滅法弱いハルもまた、笑顔になる。
「そっか……じゃ、スーちゃん気を付けてね、いってらっしゃーい。」
そうして、銀行へと出掛ける支度を終えたスーを、玄関先で見送るハル。
持っていた鞄を手渡すと、ハルはスーにキスをして、手を振った。
「おう、ちゃんとケツ洗って待ってろな。」
スーはそう言ってハルの頭を撫でながら、イタズラな笑顔を浮かべる。
「スーちゃんの馬鹿ぁ!」
まだ十六歳になったばかりのハルは、恥ずかしさに顔を真っ赤にしながら、家を後にするスーの後ろ姿に声を浴びせた。

「もういいよ、出ておいで。」
ドアを閉め、鍵を掛けるとハルは、誰も居ないはずの廊下に向かって声を掛ける。
「ハルくん、おはよーう!」
すると突然、ハルと同い年の青年の幽霊が、ハルの前に姿を現した。
その幽霊の名は、ミル。
スーの幼なじみであり、恋人でもあったのだが、五年前、ちょうど今のハルと同じ十六歳の時に、信号無視のトラックにはねられて死亡。
以来、幽霊としてスーの家に密かに住み着いていた。
一年前にこの家にやって来たハルとは、出会った当初こそ仲が悪かったものの、すぐに意気投合。
以来、幽霊であるミルも入れて3人での同棲生活が続いている。
とは言っても、この家の主であるスーは、ミルの幽霊がすぐ傍にいる事を、まだ知らないのだが……。

「いつも隠れてもらってばかりでごめんねぇ、ミルくん。」
実はスーは怖がりで、幽霊が大の苦手だった。
その為に、スーが家にいる間はミルには隠れていてもらう必要があったのだ。

「いいのいいの気にしない、ぼくだってハルくんとおんなじで、スーちゃんの傍にいられて幸せなんだからさ……ところで今夜、するんだ?」
「みたいだねー。」
「じゃー、ぼくも張り切っちゃおうかなー」
実のところ、ハルはウケであったが、スーはタチというよりはリバであり、ミルはどちらかというとタチなのであった。
その為、夜、ハルがスーに責められている間に、ミルはよく気付かれないようにスーにちょっかいを出していた。

「いいけど、あんまりやり過ぎないようにね。」
「うん、分かってるよ。」
ハルがたしなめるようにミルに注意をすると、ミルは舌をペロンと出して、笑いながら返事をする。

「ぼく、お腹空いちゃったからご飯食べるね、ミルくんはテレビでも見てて。」
「はーい。」
ミルは幽霊なので食事は摂らない。摂れないと言ってもいい。
だが、美味しい物を見ると自分も食べたくなってしまう。
だからハルが食事をしている間は、その姿を見なくても済むように、別の空間で時間を潰すのが、暗黙の了解となっていた。
この家はスーの父親が建てた非宿泊型のゲストハウスであり、そのため延べ床面積の割に居室が少ない一方で、パーティーリビングとフォーマルダイニング、そしてメインのキッチンの他に、プライベートリビング、更にはプライベートダイニングキッチンまでもが存在している。
もちろんそれぞれの空間は完全に独立しており、ハルが食事をしている間ミルは、寛げるプライベートリビングで時間を潰す事が多かった。

「テレビ、何見よっかなー。」
早速プライベートリビングへと足を運び、大型のソファに腰を下ろしたミルは、すぐ近くのサイドテーブルの上のタッチパネルのリモコンに手を伸ばすと、スイッチを入れてチャンネルを忙しなく変え始めた。
「んぁー、アニメでいいや、それにしても暇だなぁー。」
この家ではCS放送を受信しているので、複数のアニメ専門チャンネルの中から好きなチャンネルを、いつでも好きな時に見る事が出来る。
「お、ケ○○軍曹だ、しかも2話連続、やったね!」
アニマ◎クスでケ○○軍曹を放送しているのを知ったミルは、すかさずチャンネルをそこに合わせた。

一方のハルは、キッチンで朝食の支度をしている。
棚からフライパンを取り出し、ガスコンロのゴトクの上にのせる。
サラダオイルを垂らして点火、頃合を見計らってハムと卵を落とす。
ガラス製の蓋をして、待っている間にトーストも焼く。
簡単なサラダも作って、朝食の完成だ。
元来器用な方ではなかったハルであるが、毎日スーに料理を作っているせいかさすがにもう手馴れたもので、ハムエッグは黄身がちょうど半熟で食べ頃という出来映え。
「いただきまーす。」
誰もいないプライベートダイニングでラウンジチェアーに腰掛け、律儀に手を合わせて挨拶を済ませると、ハルはバターをたっぷり塗ったデニッシュパンのトーストにかじりつく。
「そうだ、あれがあったんだっけ。」
冷蔵庫の中に頂き物の苺のコンフィチュールがあったのを思い出したハルは、それを持って来ると瓶の蓋を開け、スプーンでたっぷりと掬ってパンの上にのせた。
「んーんっ、美味しーい!」
あっという間に三枚のデニッシュパンを平らげたハルは、次にハムエッグをふた口で完食し、続いてサラダに手を付ける。

ハルには、俗に言う三角食べの習慣がなかった。
近くにある物から手を付ける、といった感じ。
ハルは幼い頃に両親から虐待を受けた事が原因で、親戚の間を転々とたらい回しにされて育てられて来た為に、躾らしい躾をされた事が無く、また不登校児でもあった為に、三角食べなど教わった事もなかったのだ。
やがて中学をどうにか卒業した後友達だったシズクの家に転がり込んでいたハルは、身体を売る事でどうにか生計を立てていたが、ある晩新宿二丁目で、たまたま遊びに来ていたスーと知り合い、程なくして同棲生活を始めるのだった。
しかしそこでもスーはスーで、恋人には甘い上に、そういった事柄には無頓着であったので、結局ハルの食べ方の癖が直る事はなかったのである。
だが、ハルはスーと出会った頃には、食前の挨拶もせずに食事を始めるようなところがあったので、その頃から比べると長足の進歩を遂げていたのもまた事実である。

さて、そもそも今年で二十四歳にもなる資産家のスーが、危険を冒してまで当時まだ十五歳だったハルと付き合おうとした理由であるが、それは言うまでもなく一目惚れであった。
両親はおろか、最愛の恋人ミルにまで先立たれてしまい、スーはずっと失意のどん底にあった。
そんな時に、ミルの面影を感じさせる幼い顔つき、そして丸々と太った体型のハルと中通りで出会い、スーは無我夢中で声を掛けていたのだ。
一方のハルは、スーの提案で西口のシティホテルに泊まる事になったのだが、年齢については頑なに十八歳で通すつもりだった。
事実、ハルの言う事を信じ切っていたスーは、同棲生活を始めるまでの間ずっと、実年齢よりも更に幼く見えるハルの年齢を、十八歳だと思っていたのだ。
こうして運命の出会いを果たした二人であったが、まだ若いスーと、現在通信制高校に通う身である為に半ば専業主婦のような暮らしをしているハルが、経済的に苦労する事なく生活出来ているのには、もちろん理由がある。

著名な資産家の家に生まれ育ったスーであったが、二十歳の時に両親を飛行機事故で亡くしており、兄弟もいなかったため、天涯孤独の身であった。
そんなスーにとっての唯一の救いは、父の遺産により働かずとも食べていける状況にあった事だろう。
今住んでいる家も、父が遺産として遺してくれたものだ。
父親の会社の後は継がなかったため、遺された幾つかの不動産の経営による不労所得のみで生活する身である。

「今日はよろしくっす!」
新たな土地信託の件で、かねてより取引先となっている信託銀行に自分から出向いたスーは、担当者に挨拶を済ませると、ソファに腰掛けた。
スーの性格からか、話し合いの最中に雑談に花が咲き、話題は新・M◎cB○○kへと向かった。
「ご自宅ではM◎cをお使いと伺っておりますが、先日発表されました新しいM◎cB○○k、ご購入のご予定などはございますか?」
それを聞いたスーは考えた。
『ハルのやつ、俺がいない間は退屈だろうし、iPh○neで我慢してるけど自分のパソコンだってそろそろ欲しいよな……帰りに買って、プレゼントしてやるか。』
ハルの喜ぶ顔を想像して、銀行の担当者の前だというのににやけてしまうスー。
「どうかなさいましたか?」
銀行の担当者が怪訝そうな顔をして覗き込むので、スーは慌てて返事をし、話を戻すのだった。

その頃ハルは、既に食事を済ませたばかりか後片付けも終えており、ミルとルーフバルコニーで寛いでいた。
「ねぇハルくん、退屈だから一緒に何処かへ出掛けない?」
何時の間にかアウトドア用のフカフカのソファに寝そべって踏ん反り返っているミルは、隣りで腰掛けるハルに眠そうな顔で提案をする。
空は快晴、お出掛け日和だ。
「んぁ、いいけどどこがいいかな……そうだ、スーちゃん丸福堂の大福大好きだったはずだから、一緒に買いに行こー。」
行き先を決めたハルは早速立ち上がって、iPh○neをポケットにしまうと、ミルの手を取り一緒に一階へと向かう。
二人は、水道代節約の為に長い間止められている中庭の滝を左手に望みながら、何処も彼処もトラバーチンで貼られた吹き抜けのエントランスホールへと進む。
ハルは玄関脇のウォークインクローゼットの中から自分の鞄と財布を取り出すと、シューズインクローゼットに入って適当に靴を選び、ミルと仲良く外へと歩き出した。

「いい天気だねー。」
雲一つない青空の下、二人は地下鉄の最寄り駅に向かってのんびりと進んでいく。
二、三分も歩けばもう駅の入口だ。
券売機で切符を買い、ちょうどホームに滑り込んで来た銀座線の電車に乗る。
十二分も乗っていれば、乗り換えなしで目的地の銀座に到着だ。
「ミルくん降りるよ、もうすぐだねー。」
電車を降りた二人は改札を出て、出口の階段を探す。
「えっと、確かこの辺に……。」
「ハルくんあったよ、この階段だよ!」
「あ、そうだねー。」
目的地に近い出口を見つけた二人は、手を繋いで階段を昇る。
地上に出てしまえば、銀座丸福堂はもうすぐだ。

「あ、あのお店だねー、ところで看板に描かれてる鳥は何の鳥かな?」
丸福堂の看板を目にしてミルが、咄嗟に思い付いた疑問を口にする。
「あれ、実はひよこなんだって、どうしてだろうねー。」
ミルの疑問に答えながらハルは、先に店内へと入っていった。
後から続いて店内に入るミル。
他の客の何人かがミルの事をまじまじと見つめるが、二人とももう慣れっこなので気にしない。
ちなみに、ミルは幽霊であるが、その姿を見る事が出来るのは、一部の霊感の強い人間だけである。
そして、ハルはもちろんであるが、スーもまた霊感は強い方であった。

結局、大福を六個だけ買って、二人は丸福堂を後にした。
「スーちゃんが帰って来たら、一緒に三個ずつ食べるんだー。」
「スーちゃんきっと喜ぶねー、ところでハルくん、帰りに青山公園に寄りたいんだけど、いーい?」
「いいけど……あ、そっか!」
二人はこうして帰り道、銀座線を一つ手前で下車して青山公園に寄る事にする。
実は青山公園は、かつてミルがスーに告白された場所。
今日はその記念日だった。

そのため、次の目的地を青山公園に決めた二人は、再び地下鉄に乗り込む。
銀座線の車内。
二人は電車に乗る時にはいつも、隅の方で立つ事にしていた。
時間帯のせいもあってか、車内はそれほど混んではいない。
二人はいつものように、邪魔にならないように車両の隅に移動し、どちらからともなく話し始める。
するとそこへ、明らかに酒に酔った、怪しい風体の男が近寄って来た。
男はふらつく足取りでミルに近付くと、舌打ちをして睨み付ける。
何も言わずに男が去るのを待つミルとハル。
と、次の瞬間、男がミルに向かって拳を振り上げた。
「てめぇ、料金も払ってねぇ癖して一丁前に場所だけは取りやがって、邪魔なんだよ!目障りだから降りろ!」
男はそれだけ言うと、ミルのいる場所を強く蹴り、次にハルを突き飛ばした。
震える手で拳を握り締め、男を睨み付けるハル。
それに気付いた男は、大声で叫んだ。
「てめぇ、俺に喧嘩売ってんのかよ!上等じゃねぇか!」
ちょうどその時、二人を乗せた電車は、次の新橋駅のホームに滑り込んだ。
「降りるよ、ハルくん。」
ドアが開く。
男がハルに掴みかかろうとしたまさにそのタイミングで、ミルはハルの手を引いて電車を降りた。
こうして、銀座駅で電車に乗り込んだ二人は、次の新橋駅で一旦下車、一本電車を待つ事にしたのだった。

「ぼくたち、降りなくても良かったはずだよねぇ!」
行き場をなくした怒りを抱えて、ハルは泣いていた。
「ごめんね、いつもぼくのせいで……。」
居た堪れなくなったミルは消え入りそうな声でそれだけ言うと、俯いてしまう。
「何でミルくんが謝るの?ぼくたち、何も悪い事してないんだよ!」
泣きながら、ハルは憤りを隠さない。
そんなハルに、ミルは言った。
「ぼく、ハルくんに怪我して欲しくなかったんだ……。」
ハルはその瞬間に、自分が身勝手だった事に気付いた。
「ごめんね、ぼく、何だか自分の事ばっかりでさ……ありがとね。」
ミルの優しさに触れて、笑顔を取り戻したハル。
そんなハルの様子が嬉しくて、ミルもまた笑顔になった。

やがてホームに電車が滑り込む。
到着した電車に乗り込んだ二人は、また同じような目に遭ったらどうしようかと気が気でなかったが、それは杞憂だった。

その後、
青山一丁目駅で下車した二人は、目的地の青山公園に向かって歩を進める。
だが、公園が近付くにつれてミルは、こみ上げる感情を抑え切れなくなっていった。
懐かしい思い出が頭をよぎる度にミルの涙腺は緩んでいき、ついに……。
「ミルくん……泣いてるの?」
スーの温もりが恋しくて、もう一度スーに抱き締めてもらいたくて、ミルは何も言わずに涙を流し続ける。
そして……。
「ごめんね、ハルくん……。」
そう言うとミルは、道の真ん中だというのにうずくまってしまった。
普段は我慢強いミルであったが、思い出のつまった場所を目の前にして、人が変わったように泣き続ける。
「ハルくん、ぼく、寂しい……。」
そんなミルに何も出来ずにいたハルだったが、それでも近くにハルがいる事は、ミルにとっては救いとなっていた。

結局、公園の中には入る事なく、二人は青山を後にした。
家までの帰り道、会話もないままにただ時間が過ぎる。
やがて、駅の入口の前まで辿り着いた二人がふと後ろを振り返ると……。
「あっ!見て、青い鳥だよ!」
「あ、ほんとだ!」
二人の頭上には確かに、本来ならばそこにいるはずのない鮮やかな色の、まさに青い鳥が飛んでいたのだ。
ミルは思い出す。
自分たち二人の住むこの世界では、青い鳥には昔から厳しい言い伝えがあった事を。
「青い鳥はね、願い事を何でも叶えてくれるんだ、でもそれには条件があって……。」
そこまで言い終えると、ミルは俯いてしまう。
「え、どんな?」
意外そうな顔で聞き返すハル。
「それはね、お願いをする人が自らの命を差し出さないといけないって事なんだ。」
「え……そうなんだ、青い鳥って幸福の象徴みたいに思ってたのに、がっかりだな……。」
すると今度は、ミルの話に言いしれない悲しみを覚えたハルが俯いてしまう。
「ぼくみたいな幽霊は何を差し出せばいいのかな、なーんてね。」
そんなハルの様子が気がかりだったミルは、努めて明るく振る舞おうとしていた。
「そんな事絶対にしちゃ駄目だよ、ぼく許さないんだから!」
だから、そんな風に本気でハルが怒った事が、その時のミルには意外に思われた。

ともあれ、こうして二人の間には会話が戻り、そこからの帰り道は二人にとって、いつも通りの楽しい時間なのであった。

帰宅後、ハルは遅い昼食を済ませ、ミルは相変わらずアニメを楽しそうに見ていた。
「ねぇミルくん、これから夕食の買い物に出掛けるけど、一緒に来る?」
気が付くと、日は傾いていた。
「もちろん!」
こうして二人は、行きつけの高級スーパーに食材の買い出しに出掛ける事にした。
店内に入るや否や、目的のコーナーへと直行するハル。
「ハルくん待ってぇ!」
ミルも慌てて、その後を付いていく。
ハルはこの時既に、夕食の献立を決めていた。
「今夜はすき焼きにするんだ!」
「わぁ、いいなぁ!ぼくも大好きなのにさ、ちぇっ。」
嬉しそうなハルの表情を見て、珍しく舌打ちをするミル。
だが、この時ばかりはミルへの気遣いも忘れて、ハルは買い物に夢中になる。
人混みをすり抜け、ハルは次々と食材をカゴに入れていく。
「あーあ。」
ミルはすっかり白け顔だ。
そして……。
「このお肉、一キロくださいっ!」
ハルが張り切って指をさした先にあるのは、百グラム三千円の霜降り肉だった。
「すき焼きいいなー、すき焼きいいなー、すき焼きいいなー、すき焼きいいなー……。」
ミルはもう大騒ぎだ。
だがハルはそれをも余裕の表情で無視。
「幸せだなぁ。」
ただそれだけを一人、呟いていた。

結局、この日スーパーで四万円近くを使い込んだハルであったが、もちろんスーは怒らない。
というより、かつてのミルの事も今のハルの事も、スーは一度も怒った事がないのだ。
だから、スーが恋人である自分にはとことん甘い、その事はもちろんハルには分かっていた。
でも、今回の買い物はそれを計算しての事ではない。
ただ単に、ハルには経済観念が皆無だった、それだけの事だった。
本当に幸せな二人である。

だが、スーに出会うまでのハルは、孤独の底にあったと言っていい。
友人と呼べる存在、そして信じられる存在はシズクただ一人、そんな日々でさえ、ハルのこれまでの道のりの中では、とても幸せな方だったのだ。
振り返ると、いろいろな事があった。
幼い頃には両親に殴られる事、蹴られる事は日常茶飯事、親戚に引き取られた後はそうした事はなくなったが、都合により幾つもの親戚の家庭を転々とする間、心を閉ざしていたハルにとって、心休まる日々とはついに無縁のままであった。
また、小学校に上がった頃には、ハルはそこで壮絶ないじめを経験する事になる。
用を足す為にトイレの個室に入れば、上からバケツで水をかけられ、教室では皆の前で服を脱がされ、給食の時間には消しゴムのかすや床に落ちたごみを無理矢理に食べさせられた。
もちろん、殴られる事や蹴られる事はそこでも日常茶飯事だった。
教師たちは見て見ぬ振り。
ハルは保護者になってくれている親戚の人間に必死にSOSを発したが、親戚はハルを無理矢理にでも学校に行かせようと、躍起になるばかり。
そんな孤立無援の状態が長く続いた。
そうした絶望的な状況に多少なりとも変化が訪れるのは、ハルが小学校二年になってからの事。
きっかけは、ハルの二度の自殺未遂だった。
教室の窓から飛び降りようとする事、二度。
一度目は教師に止められて事なきを得たが、二度目は本当に落下してしまう。
奇跡的に骨折だけで済んだが、それ以降ずっと、ハルは不登校になる。
それでも、ハルが心に負った傷は、簡単には癒えなかったのだった。

さて、そんなハルがシズクと出会ったのは中学校に入学したての頃。
不登校児だったハルが当時学校の代わりとして通っていた、とあるフリースクールで知り合ったのがきっかけだった。
実はシズクはハルに恋心を抱いており、そうした事からハルに近付いたのであるが、劣等感の強いシズクは自分から告白する事はなかった。
ただ、シズクはハルにとても優しく、その点がハルに心を開かせた要因となったのは、紛れもない事実である。

夕食の下準備をしながら、ハルはシズクに電話を掛ける。
「もしもし、今夜すき焼きにするんだけど、よかったら来ない?」
「うーん、風邪引いちゃってさ、また今度にするよ。」
ハルがシズクを夕食に誘うのはこれが初めてではなかったが、実はスーと付き合い始めてからは断わられてばかりだった。
シズクなりの気の遣い方だとハルは思っていたが、疎遠になったような気もして、少し寂しさを感じていた。

一方、その頃スーは、表参道の◎pple St○reでハルへのプレゼントを購入していた。
「あ、こいつの黒の一番高いやつください。」
持ち運びしやすいようにと、当初の思惑通りにM◎cB○○kを購入したスー。
そこには、ハルがM◎cB○○kを持ち出して積極的に外に出掛けてくれれば、というスーなりの願いが込められていた。

帰り道、スーの頭上にも鮮やかな青い鳥が現れた。
「俺は、あんな鳥の世話になんかならねぇーぞ!」
スーはそう、心に誓うのだった。

「お帰りなさーい!その箱、また何か買って来たの?」
「おう、プレゼントだぞ!向こうで一緒に開けるか?」
興味津々といった様子のハルに、スーはラッピングされたM◎cB○○kの箱を手渡す。
「えっ、ぼくに!?何だろう?」
「それは開けてからのお楽しみだぞ。」
「早く開けよー、ありがとねー。」
早くも嬉しそうなハルに背中を押されながら、スーもまた嬉しそうだ。

六十畳程もあるパーティーリビングに入り、並んで大きなソファに腰掛けた二人。
いよいよ対面の時間だ。
「うわぁ!M◎cだ!」
箱を見て、ハルが思わず叫ぶ。
「スーちゃん、これ、ほんとにいいの!?」
興奮したハルの目は、既に潤みかけている。
「おう、大事に使えよ。」
スーはそんなハルが愛おしくて、頭をゆっくりと何度も撫でた。
と、ふと気が付くとミルが物陰から一部始終を覗いていた。
恨めしそうなミルの顔を見て、思わず苦笑するハル。
「お、どうした?」
「いや、何でもないよっ!」
万が一にもミルの存在に気付かれてはならないと、慌ててその場を取り繕うハルであった。

「じゃー、開けるよっ!」
箱を開け、次々と中身を取り出すハル。
隣りで見守るスーも興味津々の様子だ。
「おー、うっすいなー。」
取り出された本体を見て、スーは驚きの声を上げた。
「軽くてちっちゃい!これなら持ち運べるねー。」
本体を持ち上げ、眺め回しながら、ハルはとても嬉しそうだ。
「よしよし……大事に使うんだぞ。」
スーがそう言うと、
「ホントに薄いねー、ぼく嬉しくてさ……。」
ハルは、そう言って泣き出してしまった。

「で、こいつをセットアップする前にまずは晩飯だぞ、腹減った。」
スーが笑いながら自分のお腹を摩るので、ハルは胸を張る。
「今日はすき焼きだよ!」
「お、やった!」
軽くガッツポーズを作って嬉しそうなスー。
食いしん坊の面目躍如だ。

結局二人は、わざわざプライベートダイニングに行くのも面倒なので、少しだけ場所を移動して、同じリビング内の別のテーブルで食事を摂る事にした。
テーブルの上に卓上用のカセットコンロを置くハル。
フォーマルダイニング脇にあるメインのキッチンから鍋や食材を真鍮製のワゴンで一式運び出すと、それらをテーブルの上に並べて準備し始めた。
程無くしてカセットコンロを点火、そして……。
「さ、食べるよー。」
「おう!いただきまーす、っと。」
白葱、白菜、春菊、椎茸、えのき茸、下茹でした白滝、焼き豆腐、そして霜降り肉がテーブルの上にズラリと並ぶ。
牛脂をひき、肉を入れると、食欲をそそる音が辺りに響いた。
「スーちゃんまだだよ、先にお刺身食べてて。」
ハルが笑いながら制止するが、そんなのは肉を目の前にしたスーにとっては何処吹く風だ。
「おぉ!んまいぞ!」
「もーう、せっかちなんだから。」
みるみる内に肉が減っていくのにもめげずに、ハルは割り下を注ぎ、他の具材を入れていく。
「さぁ、これでやっとすき焼きらしくなったかな。」
「どうでもいいぞ、お前さんも早く食えー。」
「あいよ。」
こうして一キロの霜降り肉は、あっという間に二人の胃袋の中へと収まってしまったのだった。
「締めはうどんだよー。」
「おう、どんどん入れろー。」
「そんなにないよー、食べ過ぎは体に良くないんだから。」
「今更言う事か?」
スーに笑われて、ハルは顔を赤くする。
後ろでは、ミルが恨めしそうな顔をしてそっと様子を伺っていた。
すき焼きと聞いては、黙って隠れている訳にはいかない。
ミルも大好きなのだ。
「いいもん、今度いぢわるしてやるもん。」
そう呟いていつもの隠れ場所へと戻るミルは、心なしか寂しそうだった。

こうして、夕食を終えた二人は再び先程のテーブルへと移動して、いよいよM◎cB○○kのセットアップに取り掛かる。
「さ、起動の時間だぞ。」
「わぁ、楽しみだ!」
早速、電源を入れる。
「おぉ!意外と早えぞ!」
SSDを採用している為、起動は高速だ。
感心するスー。
その横でハルは、初めて見るセットアップ時の画面に、興味津々といった様子だった。
「この空いてるとこに入力してけばいいんだね。」
「おう、tabキーを押せば次の項目にジャンプ出来るぞ。」
ステップバイステップ形式のセットアップアシスタントに、慣れない手付きで文字を入力していくハル。
そんなハルを見つめるスーの表情は、この上なく優しいものだった。

セットアップを一通り終えたハルは、昼間買って来た丸福堂の大福が戸棚の中にしまってあったのを思い出す。
「スーちゃん、大福食べる?丸福堂のやつだよ!」
「お、買って来てくれたのか?偉いぞ、早速食うか!」
丸福堂の大福があると聞いてスーは、ハルの頭をよしよしといった感じで撫でる。
今のハルなら、もしも尻尾があったとしたら、喜びながら左右に振っていた事だろう。

ハルは箱から出した大福を、お揃いのお皿に仲良く三個ずつのせる。
「しっかし、んまいな」
「ほんとだねー」
お茶を片手に、ほっこりとした一時である。

と、その時。
スーのiPh○neが友人からの着信を知らせる。
そのまま話し込むスー。
埒が明かないといった感じだ。
その様子を見て、ハルの顔色が少しだけ曇った。
「すまねぇな、今からマサヤの家に行ってくるからよ、留守番頼むな。彼女に振られて荒れてるんだ、ちょっくらなだめてくる。」
次の瞬間にスーの口から漏れたのは、ハルにとっては予想通りの言葉だった。
「りょーかいっ、いってらっしゃーい!」
心の中に燻る不満を打ち消すように、曇りのない笑顔でハルはスーを送り出す。

「あーあ。」
スーのいなくなったパーティーリビングで、ハルは独り溜め息を吐く。
何時の間にかその隣りに座るミルは、ハルの手を握って、無言で励まそうとしていた。
そんな中、ハルが口を開く。
「ねぇ、ミルくん。」
「んぁ、どうしたー?」
「さっきはごめんね……ぼく、ミルくんの気持ちも考えないで、調子に乗ってたかも。」
「だよねー!でもいいや、スーちゃん幸せそうだったし。」
そうしみじみと呟くミルの瞳が、何処か諦観の色を帯びていたのを、ハルは見逃さなかった。
「見てたんだ……そうだよね、ほんとにごめんね。」
ミルを気遣って、心からの謝罪の言葉を口にするハル。
「へーきへーき、ごちそーさまでしたっ!って感じだったけどねー。」
それでも気丈に振る舞うミルは、微笑みながらハルの頭をポンポンと軽く叩いた。
「全然気にしてないから、元気出してー。」
だが、元気さを装ってはいてもそれがミルの強がりだという事は、ハルには分かっていた。
そして、次の瞬間。
「今日はミルくんの……。」
記念日だったのに、そう言いかけてハルは口をつぐんだ。
ミルの表情が変わった、それも口をつぐんだ理由の一つではあった。
だがそれ以上に、言ってはいけない、そんな気がしたのだ。
多分、それは正解だったろう。
もしもハルがこの時、言いかけた言葉の続きを話していたなら、ミルの硝子の心は、砕け散っていたに違いないのだから。

結局、少し早いおやすみの挨拶を交わしてから、二人はパーティーリビングを後にした。
クイーンサイズのベッドが二台並ぶ誰もいない主寝室で、スーの帰りを待つハル。
買ってもらったばかりのM◎cB○○kを弄りながら、ハルは考え事をしていた。
「もしもスーちゃんと出逢ってなかったら、今頃ぼくはどうしてたんだろうな」
ベッドに寝そべりながら、ハルは独り呟いた。
と、気が付くと嵌め殺しの大きな窓の向こう側に、女の人の幽霊が立っていた。
ハルには、それが誰だかすぐに分かった。
「どうか二人、いつまでも仲良くね。あの子は弱虫だから、あなたがいなくなってしまったら、きっと壊れてしまう……。」
それだけをハルに伝えると、女の人の幽霊、即ちスーの母親の幽霊は、消え去ってしまった。
「分かったよ、スーのお母さん。約束するから、安心しててね!」
ハルがそう呟きながらその思いを固く心に誓ったのを知ってか知らずか、スーの母親の幽霊は、この時確かに笑っていた。

それから程なくして、スーはマサヤの家から戻って来た。
「お帰り、早かったねー!」
目を輝かせてスーを迎え入れるハル。
「おう!さ、Hの時間だぞ。」
スーは笑いながらそう言うと、ハルの体を思い切り抱き締めた。
「待って、部屋でしよ……。」
「そうすっか。」
スーは体重の重いハルをお姫様抱っこで寝室へと連れていく。
「重くない?」
「腰にくるな。」
「無理しなくていいよ。」
「いや、あとちょっと。」
そうして、主寝室に移動した二人は、いよいよ一つになる。
待ちに待った時間の到来だ。

二時間後……。
二人はベッドに並んで、裸で寝転がっていた。
ミルが最中に姿を現さなかったのが、ハルには気掛かりだった。
一方のスーは、ぼんやりと天井を見つめていた。
掛け時計の秒針が正確なリズムを刻む中、先にハルが口を開く。
「ねぇスーちゃん、もしもぼくが死んじゃったら、スーちゃんはどうする?」
ふと頭を過ぎった事だった。
「俺、そん時はもしかしたら、後を追っちまうかもしんねぇ……。」
急に真面目な顔付きに変わったスーが、ハルの問いに答える。
「そんな事しちゃー、駄目なんだからね。」
諭すようにハルが言うと、スーは初めて、ハルに対して怒りを見せた。
「おめぇがずっと傍にいてくれりゃ、済む話だろうが!先に死んだりしたら、俺、おめぇの事絶対に許さないからな!」
ハルの胸の中で、スーは声を上げて泣いていた。
初めて見るスーの泣き顔にハルは戸惑いながらも、同時にスーの深い愛情をも感じており、この時ハルは幸せだった。

翌日、スーは朝から寝室に篭って、身体を休めていた。
体調が優れないのだ。
「いてて……昨日頑張ったせいで、腰が痛くて敵わねぇ。」
「えー何それ、恥ずかしいじゃんねぇー。」
「冗談だぞ、でもちっと怠いな……熱あるかもしんねぇ。」
心配になったハルは、スーの額に手を当ててみる。
「ほんとだ、大変!今アイスノ○と冷◎ピタ持って来るね!」
「おう、すまねぇな。」
慌ててキッチンへと走り、鎮座するサイドバイサイドのG◎社製冷蔵庫の中を物色するハル。
古い型であるために省エネとは無縁の、スーとハルの二人では持て余す大きさの冷蔵庫だ。
ここでアイスノ○を手に取ったハルは、スーの事が心配で仕方ない事もあって、更に走る。
「確かこの辺に……あった!」
廊下のプロメモリ○製革張りチェストの中から冷◎ピタを取り出して、小走りで寝室へと戻るハルは、何故だかこの時、不吉な予感を感じていた。
スーが風邪を引くなど、滅多にない事だったのだ。
「はい、スーちゃん……早く風邪治してね。」
「おう。それにしても、今日はマサヤと三人で飯を食う約束してたのによ、すっぽかす事になっちまって、奴には申し訳ない事しちまったな。」
気落ちしたスーが珍しく溜め息を吐くので、ハルは余計に心配になる。
「それもそうだけど、今は自分の身体の心配だよ。」
「おう、そうだな。今夜も、んまいもん頼むぞ!」
「食欲だけはあるんだもんねぇ、スーちゃんはほんとに食いしん坊だなぁ。」
「おめぇに言われたくねぇぞ。」
その瞬間、それまでの重たい空気を吹き飛ばすかのような二人の笑い声が、寝室中に響いた。
後ろの方では、物陰からミルがこっそり、心配そうな顔付きで二人の様子を覗いている。
窓の外に目を移すと、鮮やかな青い鳥が二羽、小さなライトコートに植わった木の枝の先に留まって、中の二人をじっと見つめている。
そんな朝……。
一見平和な光景の中にも、凶事の前兆は紛れ込んでいた。
これから自分たちにどんな運命が降り掛かるか、二人はまだ知る由もない。

「でも良かったねー、明日と明後日は元からお休みだから、ゆっくり出来るもんね。」
「そうだな、早く治ったら俺様の運転するベントレ◎で、一緒に遠出するんだぞ。」
父親の所有していた三台の超高級大型外車の内二台を、維持費が掛かり過ぎるとの理由で売り払ったスーの今の愛車は、青のベントレ◎・アズールだ。
内装は白一色。
雰囲気で選んだオープン・ベントレ◎は、明るい色が、スーの好みとマッチしていた。
「いいねー、楽しみだ!」
二人は、スーの風邪が治った後の話で、早くも盛り上がる。
二人の元気そうな様子に安心したミルは、そっと寝室を後にした。

実はミルも、今回のスーの風邪には不吉な予感を感じていた。
それだけに、二人の元気そうな様子を見て、心底ホッとしたのだった。

夕方、再び熱を計ったスーは、熱がすっかり下がっている事に驚いていた。
「あんなにあったのにな……俺様すげぇ!」
「さっすがスーちゃん!体の丈夫さなら誰にも負けないもんね!」
「おし、明日は出掛けるぞ!何処にすっかな。」
「ぼく、海が見たい!」
「決まりだな、伊豆なんかどうだ?」
その瞬間、南側の嵌め殺しの窓を激しく叩く音が聞こえた。
「あれ、何だろね。」
ハルが振り向いて窓の方を確かめるも、何も見えない。
「どーでもいーぞ、俺は寝るんだ!」
スーは布団を被って震え出す。
「あはは、スーちゃん怖がりだなぁ。」
その時、ハルは笑って済ませてしまった。
窓の外では、怖がるスーの為に姿を見せる事の出来ない、スーの母親の幽霊が、そわそわと焦りを隠さなかった。
そんなスーの母親に、ミルが近付く。
「どうしました?」
「大変なの……長くなるけど、全部話すわね。」
そう言うと、スーの母親は深呼吸を一つして、ミルと向き合った。
「あの子の父親、私の夫は亡くなる前にある男とトラブルになっていたの。夫の経営していたファンドが持っていた株を手放したせいで、当時株価が暴落した会社があってね。その会社の財務担当の取締役との間でいろいろあったの。」
スーの母親はミルの目を見つめて、その柔らかな両肩を掴んだ。
スーの母親は更に続ける。
「その取締役だった男は会社の株価急落と業績悪化の責任を取って辞任したんだけど、辞めた後に家を訪ねて来てね。夫と口論になって、やがて揉み合いになって。」
「で、どうなったんですか?」
大きく息を一つ吸ってから、ミルがスーの母親に尋ねる。
「男が突き飛ばした衝撃で夫は転倒、脚の骨を折ってしまったわ。男は逮捕され、その家庭は経済的に行き詰まってしまった。それでね……男の息子はお金の掛かる医学部への進学を諦めなければならなくなったの。だから夫と血の繋がりがあって豊かな暮らしをしている私の息子とその恋人のハルくんには、恨みがあるのね。」
スーの母親は、そこまで言い終えると一つ溜め息を吐いた。
たまらずミルは、話の続きを聞こうとスーの母親に詰め寄る。
「それで?どうしたの!?」
「方法までは分からないけど、どうやら彼、少しおかしくなっちゃったみたいで、息子とハルくんの二人を殺そうとしているみたいなの。」
「えっ!?どうしよぅ!たいへーん!」
話を聞き終えたミルは、慌ててパニックを起こしてしまう。
「落ち着いて!今の私たちにも、まだ出来る事はあるわ!私たちが盾になって、二人を守るのよ!」
その瞬間、ミルの目付きが明らかに変化した。
今、覚悟と決意の色を帯びたその目には、あの青い鳥の姿がしっかりと映っている。
「おばさん、ぼく誓うよ!何があっても絶対、スーちゃんとハルくんを守ってみせるって!」
「ありがとう……ただ、男には霊感がないから私たちの姿は目に見えない。そしてその為に私たちから男に触れる事も出来ない。だから私たちに出来るのは、二人に危険を知らせる事だけ……。」
「分かったよ、ぼくハルくんに知らせて来る!」
だが次の瞬間、無情にも二人の絶命を知らせる悲鳴が、辺り一帯に轟いた。
「うわあぁーっ!」

「スーちゃん!?ハルくん!?」
悲鳴を聞いた二人は急ぎ現場へと駆け付けた。
だが、時既に遅かった。
犯行を犯した男は逃走し、後には果物ナイフでめった刺しにされた二人の遺体が残されていた。
「スーちゃあぁーん!!!ハルくぅーん、あぁぁー……。」
二人の遺体を見たスーの母親は狂った様に泣き叫ぶ。
だが、ミルは違った。
むしろ、より冷静さを増した様だった。
ある覚悟を胸の内に秘めて、ミルはスーの母親に叫んだ。
「おばさん、ぼく、行って来る!!ぼく、おばさんとの約束守るよ!!」
ミルは走り去った。
一刻も早く、あの青い鳥に会う為に。
一人残されたスーの母親は、絶望からただ泣き続けるばかりだった。

ミルは泣かなかった。
そして、走った。
自分でも驚くほどに、脚が良く動いた。
やがてしばらく走り続けていると、ミルの肩に一羽の青い鳥が留まった。
ミルは叫んだ。
「助けてください!!!ぼく何でもしますから、スーちゃんとハルくんを生き還らせてください!!!」
ミルにとっては、まさに渾身の、心からの叫びだった。
ミルの想いに応えるように、しかし冷徹に、青い鳥は静かに答える。
「いいだろう。キミとスーのお母さん、そしてシズクくんの三人がこの世界と永遠の別れを告げ、無になるというのであれば、私はあの二人を生き還らせるだろう。いいかい、スーのお母さん、そしてシズクくんを説得するのは、きみに残された最期の仕事だよ。」
その時初めてミルは、シズクがハルの事を想い続けている事を知った。
「シズクくん、ごめん!でも、ぼく、決めたから!約束ちゃんと守るから!!」
こうしてミルは再び、走り出した。
息を切らしてミルが最初に向かったのは、スーの母親のところだった。
「おばさん……お話しがあります。」
ミルはそう言って、相変わらず泣き崩れたままのスーの母親の背中に向かって、静かに話し掛ける。
スーの母親が振り向くと、そこにはミルの、いつになく意思の強い、真っ直ぐな目があった。
ただ無言で、スーの母親の目をじっと見つめ続けるミル。
そうして、長い沈黙の後に口を開いたスーの母親の目には、母親としての最期の覚悟が、しっかりと宿っていたのだった。
「まだ私にも出来る事があるのね……そうなのね!!!」
立ち上がってミルの柔らかな両肩を掴み、最期の確認をするスーの母親だったが、答えなど期待してはいなかった。
何故なら、頷きさえなくても確かに、ミルの目は全てを語っていたから。
そして長きに渡った沈黙を破って、ミルは残された残酷な事実を告げる為に、再び口を開く。
「ぼくらに残された最期の仕事は、まだ生きているシズクくんを、彼を説得する事です……いいですね?」
「………………分かったわ。」
全てを理解したスーの母親は、いつになく強い覚悟を内に秘めながら、ミルの問いに静かに答えた。

この時もやはり、ミルは泣かなかった。
ミルは決めていた。
あの人にもう一度逢うまでは、絶対に泣かないと。
だから、何があっても絶対に泣かなかった。

やがて二人は走り出した。
最期の鍵を握る、シズクの元へ。

運命の瞬間は刻一刻と近付いていた。
シズクの家の前で、深呼吸をする二人。
「いよいよね。」
「えぇ。」
互いに目を見合わせた後に、二人は目の前の鉄の扉をノックする。
やがてゆっくりと扉が開くと、中からのっそりとシズクが顔を覗かせた。
「ハルくんが今日、亡くなりました。その事で、お話しがあります。」
幸いにも霊感の強い方だったシズクは二人の目を見る事が出来、それにより全ての事情を悟る。
「俺にもまだ……出来る事が、あるんだな?」
確かめるようにシズクが尋ねると、二人は泣かずに、ただじっとシズクの目を見つめた。
「分かったよ………。俺、あいつを、助ける!」
それだけで、たったそれだけのやり取りで、まだ生きているシズクもまた、最期の覚悟を決めたのだった。
長い沈黙が、三人を支配する。
そして………。

青い鳥の元へと到着した三人は、黙って、渾身の想いを込めて、目の前の青い鳥をじっと見つめた。
「………………決めたのか?」
「はい、ぼくたち、もう決めました。」
ミルは短く、ただそれだけを答えた。
それだけで、自分たちの胸の内の葛藤までも、全て伝え切った。
「そうか………………。分かった。」
青い鳥は羽ばたくと、三人に最期の言葉を掛けた。
「何か、言い残す事は、ないか?」

すると突然、シズクが叫んだ。
「あるよ!!!俺、最期にあいつに、告白したい!!!」
そうして、全ての願いを受け入れた青い鳥は、三人の元を去っていく。
スーとハルの二人を生き還らせる為に、去っていく。
その姿は抜けるような青空と一体となって、さながら一枚の絵画のようであった。

やがて、司法解剖の最中だった二人の遺体は、澄み切った青い光に包まれる。
周囲の人間が驚く中、二人はついに生き還る。
三人の想いを、愛を乗せて……。
「あれ、俺………………。生きてる!?」
スーが目を覚ます。
程なくして、ハルも目を覚ました。
その枕元に、今にも消え去りそうな三人が現れる。
次々に言葉を掛ける三人。
「俺、お前の事ずっと、愛してたから!幸せになれよ、ハル。」
「二人とも、生き還ってくれて、本当にありがとう……。二人で、幸せになるのよ!」
「スーちゃん、ぼく、スーちゃんの事守ったよ……だから忘れないでね……。そして、幸せになってね、ね!」
ようやく役目を果たした三人は、泣いていた。
そして、室内だというのに、スーの頭上では、あの鮮やかな青い鳥が飛び回っている。
全てを悟ったスーは、涙を流している事も忘れて、ただ叫んでいた。
「ミルーーーーーーっ!!!」

翌日……。
主寝室に面した小さなライトコートで、スーとハルの二人は並んで空を見上げていた。
沢山の青い鳥が囀りながら舞う澄み渡った青空に、白い雲が僅かに溶け込んでいる様は、時間が経つのも忘れさせてくれる程に美しく、その光景は犯人が逮捕されて事件が解決した今もまだ落ち込む二人を励ますのに、十分な力を持っていた。
「おめぇ、寒くないか?待ってろな、今上着持って来っからよ。」
まだ春の訪れには少し早い季節。
寒がりなスーは、二人分の上着を取りに、全身を震わせながらウォークインクローゼットへと駆け出す。
「ん、あんがとね。」
「うぅ、さみぃなぁ。」
程なくして、見るからに暖かそうな上着を着て戻って来たスーは、手に抱えたもう一着の上着を、ハルに手渡した。
「あ、スーちゃん、手、あったかーい。」
そんなスーの大きな掌に、自分の小さな手を重ね合わせたハルは、そこで感じられる鼓動、温もりから、自分がまだ生かされているという事実を実感していた。
「なぁハル……。俺たち、ずっとミルたちに守られてたんだな……あいつらの頑張りがなければ、俺たちは今だってここにはいないんだもんな。」
「そうだね。人が生きていくのって、そういう事なんだよ、きっと。」
「貰った命だからよ、これからはあいつらの分まで大切にして生きねぇとな!」
「うん……。それがぼくらに出来る、せめてもの罪滅ぼしだもんね。」
手を繋いだ二人は、それぞれの中で、この命を決して無駄にはしないと、固く心に誓っていた。

何処までも広がる青空の下で、スーとハルの二人は、これから先もずっと、愛し合って生きていく。
そんな二人の新たな門出を祝福するかのように、青い鳥たちはいつになく可憐な歌声を、空中に響かせ続けるのだった。
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