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Bluebird : Meets Fallen Angel THE FINAL

もう一度、もう一度だけ。
立ち上がろう、這い上がろう、また笑おう……そう思えた。
特に何があったという訳でもない。
俺はいつの頃からか、いつでもどん底にいた。
冷たく凍り付きそうな孤独の中を這い蹲って掻き分けて、いつでも肩で息をするように必死になって。
何時の間にか幸せの感覚なんて忘れてしまっていた。
幸せなんて、そんな遥か遠い昔の記憶を手繰り寄せて無駄な憧れを抱く程、俺はもう無邪気な少年ではなかった。
いつでも悲鳴を上げていた。
SOSは発していた。
それでも、誰も助けてはくれなかった。
友達なんていなかった。
学校の先生も会社の上司も、俺にとっては所詮は敵でしかなかった。
親兄弟からは見捨てられていた。
何時の間にか心が正常に働かなくなっていた。
毎日、身体が鉛のように重かった。
満足に動く事さえもままならなくなっていた。
死にたかった。
ただ、死にたかった。
だから何度も死のうとした。
自分もみんなも、喜ぶと思った。
けれど、死ねなかった。
生き残ってしまった。
程なくして、仕事を首になった。
拠り所のなかった俺はたちまち、追い詰められた。
俺は無残な容姿でしかもゲイだったから、女たちのヒモになる事さえも叶わなかった。
この歳では、生活保護さえももらえるかどうか分からない。
しかも自分には、絶縁状態にある親兄弟に扶養確認の連絡が行く事など、到底看過出来そうになかった。
路頭に迷うか、もう一度死ぬか。
選択の時が近付いていたのだ。
刻一刻と、容赦なく。

そんなある日の事だった。
俺は本当に久々に、外の空気を吸う事にした。
買い置きのインスタントラーメンがなくなったので、買い出しに行くのだ。
もう格好などどうでもいい。
平日の昼間、今年で二十五にもなる働き盛りの男が、ジャージ姿で無精髭を生やして、フラつく足取りでスーパーへと向かうのだ。
端から見ればまさに、廃人だった。
店内に入る前に、残金を確認する。
1,291円。失業保険も切れ、もう銀行の口座の残高も僅かでしかない。
“俺はもうすぐ餓死するのだろうか?せめてその前にもう一度、首でも吊ってみようか”そんな事が頭をよぎる。
余計な物を買わないようにするために、カゴを手に取るとインスタントラーメンの売り場に直行する。
売り場で最も安い5食198円のパッケージを次々とカゴに放り込む。
会計を済ませ、僅かばかりの小銭を空に程近い財布の中に押し込めると、俺は振り返りもせずにスーパーを後にした。
家までの帰り道。
身体が重くて、正直しんどかった。
途中、バス停の古ぼけて色褪せたベンチに腰掛けると、一息吐く。
体力がだいぶ落ちたらしい。
「力仕事なんてもう、夢のまた夢だな。大した経歴も学歴もスキルもない癖に、困ったな。」
かつて力仕事をどうにかこなしていた事もあった俺は、ボサボサの頭を抱えて深く深く溜め息を吐く。
その時だった。

「ヤスくーん!久しぶり、どうしたのその格好!?」
振り向くと、そこには若い男が立っていた。
すぐに誰だか分かった。
俺は、恥ずかしかった。
「ヤスくん、そんな冴えない顔してちゃ駄目だって!仮にもぼくの元彼氏なんだから、しっかりしてもらわないと!ほら、立って!」
男の名はユウタ。そう、ユウタ自身がそう言う通り、彼は俺の元彼氏だ。
俺が人生の中で心を許した相手は二人居るが、その内の一人だ。
ユウタはいつでも眩しかった。
眩し過ぎて、見ているこっちの心がいつでも痛かった。
付き合っていた当時、俺はユウタへの嫉妬心を持て余して、困っていた。
片時も離れず側に居たかったが、互いに仕事を持ち一人暮らしをしていたため、それは叶わぬ夢だった。
そんな俺でさえも、ユウタは笑って受け入れてくれていた。
「ぼく、ヤスくんにだったら幾ら縛られたって構わないよ!」
そう言って笑うユウタの顔が、思い出すと今でも眩しい。
それでも。
そんな健気なユウタを目の当たりにして、俺が苦しかった。
俺の心が痛んだ。
だから俺から、別れを告げた。
あの日、ユウタは泣いていた。
けれど、ユウタはわがままを言わなかった。
代わりに最後まで、いつでも情けなかった俺の事を気遣っていた。
あれから、そういえば二年が経っていたのだ。
俺と同い年のユウタは、別れた時よりも更に色気を増して魅力的になっていた。
「ねぇ、家どこ?どうせ散らかってるんでしょ?今日会社休みでさ、暇なんだ。夕方まで時間あるから、片付け手伝ってあげる。」
流石に顔を見るのは恥ずかしくて、もみあげの辺りをぼんやりと眺めていると、ユウタは声を上げて俺の手を引っ張った。
「いいよ、悪いよ……。」
恥ずかしさと申し訳なさから、俺はユウタの申し出を一度は断る。
だが、ユウタは退かなかった。
「いいから、案内して!」
俺は気が乗らなかった。
もう片付けさえもまともに出来なくなっていたから、部屋の惨状は見るに堪えないものがあった。
それでも、目の前のユウタの気迫に押されて、俺は無言で奴を部屋まで案内する事にした。
途中、一言も会話はなかった。
前を歩くのが苦手な俺としては、ユウタがちゃんと付いてきてくれているかどうかが心配で、途中何度も後ろを振り返りそうになった。
けれど、その度に首を振って自分に言い聞かせた。
“もうユウタは俺の彼氏じゃない”ってね。
そう、俺なんかに奴を縛り付けておく資格など最初からないのだ。
行きたければ、何処へでも好きな所に行けばいい。
今だってそうだ、そうすればいいんだ……。

アパートの扉の前。
まだユウタは、俺のすぐ後ろに居るようだった。
もちろん、どうせ部屋の中を覗いたら嫌気が差して帰るに違いない、そう思っていた。
しかしどうにも、落ち着かない。
この後の展開を考えると、どうしても憂鬱になる。
背中を、冷たい嫌な汗が流れ落ちる。
「どうしたの?早く開けてよ。」
まごついていると、後ろからユウタの声が飛んできた。
その声に特に怒気は感じなかったが、それでも今の俺には少し効いた。
意を決して扉を開ける。
「汚いぞ。」
そう言って、俺は歯を食い縛る。
次の瞬間だった。
「ねぇ、何この部屋!?ヤスくんもしかして、良くTVでやってる“片付けられない女”になっちゃった?」
見るとユウタは笑っていた。
その笑顔に邪気がないのを確かめた俺は、その場に泣き崩れた。
俺はやはり、取り返しの付かない事をしていた。
俺は、自分が悔しかった。
「さ、一緒に部屋片付けよ?泣かないで、立って。手、貸すからさ。」
ユウタはそんな無残な俺に手を差し伸べてくれた。
“しっかりしなきゃ!”
どうにかそう言い聞かせた俺は、目の前の柔らかくて温かな手を取ると、ゆっくりとその場を立ち上がって中に入り、扉を閉めた。

それから五時間。
部屋があらかた片付いて、俺は一息吐いていた。
ユウタはまだ細かなゴミを集めている。
本当は手伝いたかったが、体力の落ちた俺にはこれ以上はもう無理だった。
下を向き、居場所をなくした居た堪れない心を持て余して俺は、ただこの時が過ぎ去るのを必死に待っている。
情けない。
「はい、コーヒー。この部屋食べ物とか何にもないけど、食事はちゃんと食べないと駄目だよ。少し痩せたみたいだし、インスタントラーメンばっかりじゃ身体壊しちゃうよ。連絡先、メモに書いておいたから、また連絡して。ぼくこの後用事があるから帰るね、じゃ!」
慌てて顔を上げると、目の前には、温かなコーヒー。
そうして、ユウタは笑顔で去って行った。
送ろうとする俺を片手で制して、何処か淋しげな眼差しを俺なんかに向けて。

ユウタの居なくなった部屋は、すっかり片付いてしまっていて、ガランとしていた。
何だか居心地が悪かったが、せっかくユウタが片付けてくれたのだから、もう散らかしてはいけないような。
そんな気がしていた。
板張りの天井を眺める。
それは次第に歪み出し、やがて視界から完全に消え去る。
気が付くと俺は、少し痩せたとはいえまだ緩み切った自分の身体を抱きかかえて、震えながら嗚咽を漏らしていた。
それはきっと、情けない、恥ずかしい姿だった。
だが、それでも今の俺には関係なかった。
俺は一心不乱に泣き続けた。
そうして、日が落ち夜が更けていく。
俺は何時の間にか寝てしまっていた。

明くる日の、朝。
誰もいない独りぼっちの、いつも通りの朝。
いつもよりもだいぶ早くに目を覚ますと、普段死ぬ程寝起きの悪い筈の俺は、何処か清々しい気持ちを抱えて、煎餅布団の上に座り込んでいた。
もう一度、もう一度だけ。
立ち上がろう、這い上がろう、また笑おう……そう思えた。
特に何があったという訳でもない。
ユウタが戻ってくる訳ではない。
そんな夢みたいな事は、もちろん有り得ない。
けれど、それでもほんの数時間奴と同じ空気を吸っただけで、“またやり直せる、きっと何度でもやり直せる”、そんな気持ちになれた。
俺はどうやら、再び奴の魔法に掛かったみたいだ。
出会った日に最初に奴が俺に向かって掛けたそれよりは流石に、多少は穏やかな効き目だったかもしれない。
けれど、それでも……。
もう死ぬかもしれない、そんな予感を日々切迫したものとして感じていた俺にとっては、これから先死なずに生きていく上で必要にして十分な効き目の魔法だった。

くたびれたカーテンの隙間から差し込む朝日が眩しかった。
時計を確認すると、まだ6時だった。
本当に久々に、生きた心地のする朝だった。

7時になり、重い腰をようやく持ち上げると、俺は朝食の支度を始めた。
昨日、ユウタには食事について心配されたが、今は金がない。
だから今朝もいつも通りのインスタントラーメン。
卵さえも切らしていて、本当に何もない。
蛇口を捻り、昨日ユウタが洗ってくれた片手鍋に水を適当に注ぐ。
次にそれをコンロに載せ、火にかける。
沸騰したら麺を入れ、丼を用意する。
気が付くと、いつもよりも心なしか身体が軽かった。
動き出しはいつも最悪だが、いざ動き出してしまえば、意外とどうにかなるものだ。
改めてそれを実感する。
丼に粉末スープを入れ、麺が煮えるのを待つ。
「よし、煮えたな。」
片手鍋の中の麺をお湯ごと丼に注ぐと、俺は煎餅布団の側にそれを置き、その場にゆっくりと腰を下ろした。
この部屋にはテーブルはないから、食事はいつも床に直置きである。
二年前、ユウタと別れた後。
逃げるようにここへ引っ越してきた時には、以前の部屋で使っていたテーブルが置いてあった。
けれど、狭いから邪魔になるので、程なくして処分してしまったのだ。
以来、この部屋にあるのは型落ちのノートパソコンと小さなTV、それに冷蔵庫と電子レンジ位のものだった。
洗濯機でさえも置き場がなくて引っ越しの際に処分してしまったから、ここには本当に何もない。
ましてや昨日までゴミの山で足の踏み場もなく散らかっていたこの部屋は、今は紙切れ一つ落ちておらず、まさにがらんどうだ。
「さ、伸びない内に食べるか……。」
俺は買い溜めしておいた100膳100円の割り箸を袋から取り出して片手で割ると、もう片方の手で丼を持ち上げ、麺を啜った。
ひたすら麺を啜る。
無言の食事。
別に旨くもない。
けれど、もう慣れている。
だからどうって事はない。

「ご馳走様」
誰も居ない小さな部屋に、俺の沈んだ声が響く。
何時の間にか、気分は憂鬱だった。
けれど、こんな鬱屈とした気分を吹き飛ばしたくて、珍しく俺は用事もないのに外に出てみようと思った。
「公園にでも行ってみるか……。」
俺は重い腰をのっそりと持ち上げると、半月振り位に風呂場を覗く。
恐る恐るだったが、特に代わり映えのする所はなくて、ホッとする。
次の瞬間、意を決してその場で服を脱ぎ捨てると、俺はひんやりとするモザイクタイルの床にゆっくりと足を踏み入れた。
旧式の風呂釜のレバーをガチガチと回して、覗き窓でちゃんと火が点くのを確かめながら点火作業を行う。
久々なのでぎこちない。
そして……。
「うぁぁー!」
迸るお湯が、すっかり汚れ切った身体中に降り注いだ。
そのまましばらくの間、温かなお湯の心地良さに身を委ねる。
そうしている内に何だか眠くなってきたので、俺は慌てて身体を洗う事にする。
まず最初に、たまたま目に付いたので、縮み切ったあそこの皮をゆっくりと剥いていくと、恥垢がたっぷりと溜まっていて俺に溜め息を吐かせた。
俺のあそこは勃っても剥けないし、男の人にHをしてもらう際にも必ず「触られると痛いから剥かないで」と頼んでいた。
これでも一応、真性ではなく、仮性の包茎ではあったのだが……。
先っぽがどうにも敏感過ぎて、見た目からして未だに子供のそれのような自分のあそこを、俺は正直いつでも持て余していた。
だから俺のあそこの先っぽが皮の中から顔を出すのは、シャワーを浴びる時だけだ。
俺は軽く息を吸い込むと、表面にしっかりとこびり付いた大量の恥垢を、長い時間を掛けてそうっと洗い落としていく……。
……そうしてしばらく経って、俺のあそこはようやく綺麗になった。
その後も特に意味はなくても、次にシャワーを浴びようと思えるのがいつになるかも分からなかったから、俺は隅々まで丹念に身体を洗っていった。

やがて身体中を綺麗にし終えた俺は、バスタオルで水気を拭き取って風呂場を出ると、適当に服を探す。
どうにか綺麗そうな下着とジャージを見付けると、俺はその場で早速着替えた。
鍵を持ち、戸締まりをしてのそのそと公園に向かう。
空を見上げると、本当に雲一つない。
風は若干追い風で、気持ちが少し軽くなる。
「ふぅ……。相変わらずここは誰も居ないな。」
俺は所々塗装の剥げ落ちた木製のベンチにゆっくりと腰を下ろした。
ここは、猫の額程の広さの、小さな公園。
住宅街の中にひっそりと、まるで息を潜めているかのように目立たなく存在している。
噴水も砂場も滑り台もなく、水飲み場もない。
ただ木が何本か植わり、その根元にベンチが二つ、設置してあるだけ。
それだけの公園だ。
だから、人はあまり寄り付かない。
俺はここが好きだ。
引っ越してきてから、時々利用している。
「そろそろ、通勤・通学の時間なんだな……。」
公園の外を、ランドセル姿の小学生や背広姿のサラリーマンが通り過ぎていく。
まだ社会に打ち棄てられていない、希望の残された人々が、それぞれに悩みを抱えながら闘いの場へと赴く様を、俺はその外側から他人事のように眺めている。
趣味の悪い事ではあるが、もう慣れっこだ。
俺は溜め息を一つ吐くと、ぼんやりと空を見上げながら昔の事を思い出す。
……俺、暇なんだな。

俺は幼い頃から、両親との折り合いが悪かった。
そもそも物心付く前に実の母親は俺を見捨てて家を飛び出していたので、俺が知っている“母親”との間には血は繋がっておらず、彼女とは単なる義理の親子の関係であるに過ぎない。
その義理の母親には連れ子が居て、両親はそちらばかりを可愛がっていた。
当然俺には居場所というものがなく、所詮両親にとってのストレス解消の捌け口でしかなかった俺は、家の中ではいつも歯を食い縛って、無言で下を向いていた。
幼い頃から両親の手によって度々暴行を受けていた俺は、その苦痛もあってか、自然に笑う事が出来なくなっていたのだ。
いつの頃からか俺の素肌には、痣や小さな生傷が絶えなかった。
そうして誰にも愛されないままに成長していった俺は、心の片隅に常に悲しみを、悔しさを、痛みを抱えていた。

やがて学校に行くようになると、気の弱かった俺は格好の苛めのターゲットとなった。
放課後になると同級の連中に着ている服を力任せに破られて、よく困っていたっけ。
帰ると決まって母親が何度も何度も平手打ちをするから、俺はその度に泣きながら土下座をした。
「あんたみたいなろくでなしが居ると、ウチみたいにお金のない家は苦労すんだわ!反省しろ!」
涙も鼻水も垂れ流して全身を震わせながら玄関のタタキに頭を擦り付けていると、大抵は罵声と共に足元に転がっているハイヒールの類が頭を痛打するのだった。
どうにか家に上げてもらえても、そのせいで俺は服を身に付ける事さえも許されず、両親や連れ子の妹の前で全裸になる事を日々常に強要されていた。
最初の内は抵抗していたが、それでは肝心の食事が一切食べさせてもらえない事に気付き、空腹に耐え兼ねて自ら進んで服を脱いだ。
後に分かったのだが、俺はクラインフェルター症候群という奴で、そのせいで年頃を過ぎても陰毛や腋毛が一向に生えてこなかった。
クラインフェルター症候群の症状は人によって様々なのだが、俺の場合これは今でも変わらない。
また、この病気の患者には背が高くほっそりした者が多いとの事だが、俺は幼い頃から肥満体だったし、背も至って普通だ。
筋肉質ではない為か、むしろ子供のような丸っこい身体つきである。
あそこの大きさも元々とても小さかったのだが、いつまで経っても大きくならなくて、俺は他人に指摘されるまでもなく自分の身体が大嫌いだった。
それなのに……。
俺は、中学一年の冬にとある事情で家を飛び出すまでの間、家ではずっと全裸で過ごさざるを得ないでいた。
両親はもちろん、物心のついた妹までもが俺を嘲笑っていたが、養ってもらっている立場ゆえに仕方のない事なのだと、俺は自分に何度も何度も繰り返し言い聞かせ続けていた。
妹はよく割り箸で俺の小さなあそこを摘んでは、携帯で写真を撮って遊んでいた。
友達にメールで送り付けたりネット上に晒したりして、遊んでいたようだ。
俺は恥ずかしくて悔しかったが、それでも無抵抗でいるしかなかった。
妹の機嫌を損ねれば、その日俺には食事はない。
俺は食卓においては残飯整理の役割を担っていたが、その点には特に不満はなかった。
俺はただ、何であっても物を食べさせてもらえる事が、とにかく嬉しかった。
夜になると俺は台所に追いやられる。
俺は自分の部屋さえも与えられていなかったから、狭い台所に煎餅布団を敷いて、毎日そこで眠っていた。
時々ゴキブリが出るのだが、見付けてももちろん声をあげる訳にも音を立てる訳にもいかない。
結局そういう時には諦めて、恐怖の中ただ眠れぬ時をやり過ごすしかなかった。
そうでなくても夏は暑くて眠れないし、冬は底冷えが酷い。
どうにか我慢に我慢を重ねて朝になっても、学校に行けばまたいつものように苛めが待っている。
誰かに助けてもらいたいと願ってはいたが、俺は頭も要領も運動神経もとても悪かったから、どの授業にも全く付いていけなくて、本来救いの手を差し伸べてくれる筈の先生にさえ疎まれ見放されていた。
だから俺に対する苛めは、ことごとくなかった事にされてしまっていた。
結局何処にも居場所がなくて、いつでも息が苦しかった。
俺はそうした日々の中で、生きる気力をどんどん奪われていった。
俺は辛かった。
別に実の母親が恋しいなどと思っていた訳ではない。
何処に行っても同じ事だと、心の片隅でちゃんと分かっていた。
そう。俺は、ただ辛かったのだ。
けれど、何かあっても声を上げて泣けば怒鳴られるから、俺はただ静かに毎晩、己の身体を抱きかかえて丸まって、啜り泣いているしかなかった。
そんな、重苦しい小学校時代が静かに過ぎていった。

やがて中学校に入ると、俺は苛烈さを増していく苛めに耐え兼ねて、不登校になってしまう。
だからといってもちろん、家に居場所がある訳ではない。
小遣いさえもろくに貰っていなかった俺は、下校時刻の頃になるまでの間ずっと、暑い日も寒い日も、くる日もくる日も独りぼっちで街を彷徨い歩いていた。
そんなある日。
それは寒い冬の、クリスマスを直前に控えて街が一際賑わいを見せていた頃の事だった。
幸い自宅は日本一の繁華街である新宿にもどうにか徒歩で行ける位の距離にあったので、俺はよくそこで延々と時間を潰していた。
その日も、東口周辺をとぼとぼと歩いていた。
ふと目の前を、若い男の人が通り過ぎる。
素敵だった。
目が離せなかった。
見る間に身体中が内側から熱くなっていった。
デパートから出てきたその人は、東口とは反対の方向へと歩いていく。
俺は夢中で後を追った。
そうして気が付くと何時の間にか、俺はいわゆる“二丁目”へと足を踏み入れていた。
まだ太陽は頭の天辺にあって、人通りは疎らだ。
それでもそこには、今までに見た事のない雰囲気を持った男の人たちがちらほら。
「あ、ここが二丁目なんだ。」
その事実に気付いた俺は、根拠の乏しい恐怖に圧倒され、眩暈を覚えていた。
それでも息を切らしながら必死になって、先ほどの若い男の人の後を追ってはみるのだが……。
その人が細い道沿いの小さなビルの階段を上っていくのを目の当たりにして、俺は結局諦めざるを得ないのだった。

「ふぅ……。」
言い知れぬ疲れを身体の奥底から感じ取っていた俺は、深く溜め息を吐く。
小さなビルのファサードにもたれかかって、一休み。
そのまま途方に暮れて、邪魔にならないように静かに佇んでいると。
見るからに仕立ての良さそうなロングコートに身を包んだ、白髪で恰幅の良い男性に声を掛けられた。
「坊や、良かったら近くの喫茶店でお茶でも飲まない?」
正直、好みではなかった。
この頃はまだ自覚してはいなかったのだが、俺は細身の年下の子が好みなのだ。
この時の白髪の男性は、そんな俺の好みからはおよそかけ離れていた。
だから素直に断っても良かった。
この時の俺は確かに緊張してはいたが、男性の物腰はとても柔らかく、無理矢理に連れて行かれそうな雰囲気など皆無だったから、断る事も出来た筈だ。
それでも俺はその男性に向かって、黙って頷く。
それも一度ではなく、何度も。
それは多分、目の前の男性がとても優しそうだったから、すぐにでも縋り付きたかったのだと思う。
「坊や、辛そうな目をしているね。悩みがあったら、話してごらん。時間は、たっぷりあるよ。」
男性は、その皺の多い温かな掌を、俺の目の前にそうっと差し出した。
俺はまたもや黙って頷くと、その掌を両手でしっかりと握り締める。
「坊や、そんなに力を込めなくても、私は何処にも行かないよ。私の名はショウジ。よろしくね。」
ショウジさんは、気が付くと俺なんかの目をずっと見つめていて、そしてニコニコと笑ってくれていた。
俺はそれが余りにも嬉しくて、その場でポロポロと涙を零してしまった。
「さぁさぁ、泣かないで。こんな所ではなんだから、少し落ち着いて話が出来る場所に移動しようか。さ、付いてきなさい。」
ショウジさんは俺の手をそっと引くと、ゆっくりと歩き出した。
「坊や、名前は?何て呼べばいいかな?」
喫茶店への道すがら、ショウジさんは引いていた手を離して俺の頭に手を置くと、顔を覗き込みながら名前を尋ねてきた。
「ヤスユキです……。」
俺は消え入りそうな声で大嫌いな己の名前をどうにか告げる。
「そうか、それじゃあ私は今日から坊やの事をヤスくんと呼ぶ事にしよう。ヤスくん、改めてよろしくね。」
ショウジさんはまたも笑っていた。
その笑顔に何故だか申し訳なさを感じた俺は、“こちらこそよろしくお願いします!”と慌てて何度も頭を下げた。
「大丈夫だよ、そんなに緊張しなくて。ところでヤスくん、胸元に小さな痣があるけど、それはどうしたのかな?」
気付かなかった。
言われて初めて気が付いた。
俺はこの時まで、自分の身体に無頓着だった。
その痣は恐らく、昨晩酔った父親に殴られた時のものだろう。
ショウジさんの顔が見る間に曇る。
俺は慌てた。
「あ、これは友達と喧嘩した時に出来た痣で……どうか心配しないでください!」
俺は思い付く言い訳を咄嗟に口にしていた。
けれど、ショウジさんの目は誤魔化せなかった。
「ヤスくん、実は私の自宅が近くにあるんだ。良かったらおいで。大丈夫、君を傷付けるような事はしないから。」
その目は、悲しみに溢れていた。
それはまるで、俺の軋む心の微かな鳴き声を、聞き漏らさずにいてくれたかのようだった。
結局俺は、ショウジさんの捕まえたタクシーに乗って、彼の自宅まで行く事になった。
車内で、俺たちは無言だった。
ショウジさんを怒らせてしまったのではないかと不安になった俺は、堪らずにその丸い顔を覗き込む。
「おぉ、大丈夫だよ。不安にさせてしまったようですまないね。ヤスくん、ごめんね。」
先ほどまで厳しい顔をしていたショウジさんは、またも優しい笑顔を俺なんかに見せてくれた。
俺は心底ホッとしたし、嬉しかった。

やがてタクシーはショウジさんの家の近所まで到着する。
俺は一足先にタクシーを降りると、ショウジさんが支払いを終えるのを待っていた。
「さ、そこの角を曲がってすぐのマンションが私の家だよ。おいで。」
ショウジさんが俺なんかの手を引いてくれる。
俺は慌てて歩幅を合わせる。
僅かな距離を、二人並んで歩く。
それだけで、たったそれだけで、胸が苦しい位にドキドキするようになっていた。
タイプではなかった。
けれどこの時にはもう、俺はショウジさんの事を好きになっていた……。

そこはまだ真新しいマンションの、11階の突き当たり。
内廊下のお洒落な雰囲気に気後れして、俺は緊張から身体を震わせていた。
「さ、上がって。靴は適当に脱ぎ散らかしておいていいよ、どうせ誰も居ないのだから。エアコンを付けっ放しで出てきたから暖かいよ、上着を預かるね。」
一足先に室内に上がったショウジさんが、俺に手を差し伸べる。
「……お邪魔します。」
俺は足で靴を片方ずつ脱ぐと、着ていた上着を脱いで手渡し、そのまま廊下へと足を踏み入れる。
暖かな空気がふわっと頬をくすぐり、次いで冷え切った身体を包み込む。
途端に緊張を解された俺は、時折辺りを見回しながら、そのままショウジさんの後を付いていく。
前方には硝子の嵌め込まれた木の扉が半分程開いていて、中の暖かな空気をこちらまで送り込んでくれている。
ショウジさんの手でその扉が完全に開け放たれると、そこにはリビングとダイニング、そしてキッチンとが一続きになったこぢんまりとした空間が広がっていた。
「先にソファに座っていていいよ。私は飲み物とお菓子を持ってくるね。飲み物はジュースでいいかな。」
ショウジさんはそう言い残すと、パタパタとスリッパの音を立てて、キッチンへと向かった。
俺はその後ろ姿を横目で確認すると、目の前の革張りのソファに恐る恐る腰を下ろした。
深く腰が沈み込む感覚は、生まれて初めて経験するもの。
余りにも座り心地が良くて、暖かなエアコンの風に当たっている内に、疲れていた俺は次第に眠くなってきてしまう。
そうして数分が経過し。
瞼が重たいのを自覚しながら必死に目を開けていると、大きな手作り風のクッキーが何枚も乗った皿と、外国製の瓶入りのジュース、それに背の高いグラスなどが銀色のトレイから次々とテーブルの上に移されていった。
「隣、いいかな。」
ショウジさんは俺のすぐ隣にゆっくりと腰を下ろすと、徐に手を握ってきた。
「ねぇヤスくん、もし嫌じゃなかったら、私に君の裸を見せてくれないかな?少し、気になる事があるんだ。」
ショウジさんは、震える俺の身体をそっと抱き寄せると、手を握ったまま動かない。
「ショウジさんなら、いいよ……。」
少し間を空けて、返事をする俺。
咄嗟に、タメ口を利いてしまっていた。
湧き上がる不安のせいか、この時の俺はショウジさんに甘えてしまっていたのかもしれない。
少し後悔したが、考え込んでいても仕方なかった。
俺は意を決して立ち上がると、その場に次々と服を脱ぎ捨てていった。
「あぁ、可哀想に、可哀想に……。」
あと少しで一糸纏わぬ姿になろうとしていたその時、ショウジさんが俺の身体をそっと抱き締めてくれた。
この時俺は中学一年だったのだが、第二次性徴らしきものがやって来ない為にまだ見た目は小学生の頃のままだった。
体毛も一切生えていない。
そもそもまだ声変わりもしていない。
更に、この頃胸が若干膨らみ出してしまい、元来の太った体型と相俟って女の子のそれのように見えるかもしれなかった。
そんな俺を馬鹿にする妹の落書きが、油性マジックで身体中の至る所に書き散らかしてあって。
洗っても洗ってもなかなか落ちない上に次から次へと書き加えられていくそれらの存在と、両親の手によって全身の至る所に刻み込まれてなかなか消えてくれない痣や小さな傷痕とが、ショウジさんの涙腺をどうやら刺激してしまったみたいで。
ショウジさんは俺なんかの身体を力一杯に抱き締めると、全身を震わせながら声を上げて泣いてくれた。
俺のために、泣いてくれた。
これまでそんな人に出会った事が一度もなかった俺は、それが本当に心から嬉しくて、ただひたすらにショウジさんの大きくて温かな身体を、縋るように撫でさすっていた。
それから、どれ位の時が経っただろうか。
ショウジさんはゆっくりと立ち上がると、下着一枚を身に付けているだけだった俺の身体を抱き上げて、ゆっくりと歩き始める。
「何処へ行くんですか?」
不安になった俺が顔を覗き込みながら尋ねると、ショウジさんは真っ直ぐな眼差しで俺を見つめた。
俺はドキっとした。
目が離せなくて、どんどん胸が高鳴っていく。
そうして俺が高揚する意識を持て余してぼんやりとしている間に、ショウジさんは無言で廊下の木の扉の前まで辿り着く。
片手で器用に木の扉を開けるショウジさん。
そこはショウジさんの寝室だった。
大きな木製のベッドとサイドテーブル、それに机と椅子が、それぞれ一つずつ置かれた小さな部屋。
ショウジさんはその室内にゆっくりと進むと、足元のベッドの上に俺の身体をそうっと下ろして、自分もその横に腰を下ろした。
「正直、まだ早いと思う。でもヤスくんには自分の身体の価値をちゃんと知っておいて欲しいんだ。嫌ならいつでも言うんだよ、大丈夫。無理強いはしないからね。」
ショウジさんは俺の身体をそっと撫でながらそう言うと、そのまま俺のすぐ横に横たわる。
「胸、柔らかくて触り心地がとってもいいね……私は大好きだ。」
ショウジさんの手が優しく俺の胸に伸びる。
それから、俺は夢中だった。
肌と肌が触れ合う心地良さ、そして男として出来損ないだと思っていた自分の身体がもたらしてくれた思いがけない性感に、何時の間にか酔いしれていた。
「可愛いよ、可愛いよ、ヤスくんは本当に可愛いよ。」
そんな風に言われながら全身を、特に胸を執拗に愛撫されていると、ふと家での出来事が頭をよぎって、遂には涙が止め処なく溢れてくる始末で。
結局俺は、嗚咽を漏らしながら正味一時間位は、ショウジさんの愛撫に夢中になっていたと思う。
「さ、そろそろ出してみるかい?」
勃っても皮も剥けない上に恥ずかしい位に小振りな、別の病気を併発しているのではないかと思える位にどうにも発育不全気味な俺のあそこを指先で軽く摘まむと、ショウジさんはそれを上下に動かし始めた。
「あ、あ、あ、あ……。」
なおも空いた手や舌先で胸を優しく愛撫されていると、俺の頭は真っ白になる。
そうして。
「うぅぅーん、うぅーん、うぅぅぅーー。」
俺は全身に力を込めて、生まれて初めての射精の瞬間を迎えた。
今となっては恥ずかしい事だけれど、俺はこの時生まれて初めて、生まれてきて良かったと心から思えた。

……気が付くと、肩で息をしていた。
お腹の上には、透明に程近いさらりとした液体が、ごく少量撒き散らされていた。
「あぁ、やっぱり量は少ないんだね。いいよ、そのままでいいよ。大丈夫だよ。可愛かったよ、ありがとう。」
ショウジさんがキスをしてくれた。
気のせいだったのかもしれないけれど、この時確かに、甘い、甘い味がした。
それから、仰向けに横たわったショウジさんのすぐ隣で。
俺は、自分の身に降りかかったこれまでの出来事について、少しずつ話をしていった。
ショウジさんは、時折黙って頷いたり俺の手を握ったりしながら、とても真剣に話を聞いてくれた。
一通り話を終えると、ショウジさんは立ち上がって俺の手を引いた。
「一緒にシャワー浴びようか?それから、ヤスくんのご両親に会いに行こうと思う。案内してくれるかい?」
俺は、ショウジさんの事は信じてみたいと思ったから、黙って大きく頷いて見せた。
ショウジさんは、俺の顔を覗き込んで笑ってくれた。
優しいけれど強い意志のこもったあの時の笑顔は、今でも忘れられない。
その後、シャワーを浴びている間も、俺はショウジさんに優しく全身を愛撫されて、本当に幸せだった。

シャワーを浴び終えて下着を身に付けた俺は、リビングへと向かうショウジさんの大きな背中を、ぼんやりとただ何となく追い掛けていた。
「そういえば着ていた服って、リビングに脱ぎ散らかしたままだっけ!?」
途中でその事に気付いた俺は、少し肌寒さを感じ始めていたせいもあって、歩く速度を次第に早める。
「はい、ヤスくんの服はこれで全部かな。着替えはゆっくりでいいよ。」
リビングに入ると、一足先に中に入っていたショウジさんが、散らばっていた俺の服を集めてくれていた。
俺は黙って頭を下げると、ソファに腰を下ろしてそれらを身に付ける。
ショウジさんは早くも下着を身に付けている。
いつかショウジさんの裸をもっとじっくり見てみたいと、まだ少しぼんやりとする頭で考えていると。
ショウジさんは何処かへ電話を掛け始めた。
どうやらタクシーを呼んでいるらしい。
まだ飲んでいなかったテーブルの上の瓶入りのジュースが目に付いたので俺はそれをグラスに注ぐと、一気に飲み干した。
続いて皿の上のクッキーを頬張る。
何だか図々しくなってきたものだとまだ子供だった自分が感じられる位には、この時の俺は大胆になっていた。
今から思うと、この時の俺は妙に興奮していた。
もしかしたらショウジさんとここで一緒に暮らせるようになるかもしれないなどと夢想していたのは事実で、それは俺の心を否が応でも持ち上げていた。

タクシーが到着する。
ショウジさんに手を引かれて、俺は温かな部屋を後にする。
刺すような冷気が頬を刺激するけれども、浮かれていたせいか、それも何だか心地良く思えてしまう程だった。
マンションの前には、既に迎えのタクシーが停まっていた。
ショウジさんは、ワニ皮の黒いボストンバッグを持ってタクシーに乗り込んだ。
何が入っているのか気にはなったが、他人でしかない俺がそれを尋ねるのもどうかと思い、結局何も言えなかった。
車内で俺たちは終始無言だったが、ショウジさんは、次第に不安に飲み込まれていく俺の震える拳を、その温かな掌で優しく包み込んでくれていた。
途中、銀行の前でタクシーが停まる。
「ちょっと待っててね。すぐ済むから。」
そう言うとショウジさんは、銀行の入っている建物の中に駆け込んでいった。
俺は、窓の外をジッと眺めながら、ショウジさんの帰りを待っていた。
それからしばらくして、ショウジさんがゆっくりとした足取りで戻ってくるのを確認すると、俺は嬉しくて笑顔を零した。
それは、このままタクシーの車内に置き去りにされたらどうしよう、などといった不安が何度も繰り返し頭をよぎっていたからで、俺はショウジさんの笑顔を見ると涙を零しそうになる。
そんな俺の様子の変化を察してか、ショウジさんはコートのポケットから外国製のチョコレートの小箱を取り出すと、俺に手渡してくれた。
「ありがとう……これ、今ここで食べていいんですか?」
俺は小箱を両手で受け取ると、念のためにショウジさんの顔をそっと覗き込む。
「あぁ、もちろんいいよ。私も一枚貰おうかな。溶けていないといいけど。」
ショウジさんは俺の頭を優しく撫でながら、そう言って笑ってくれた。
片側三車線の大通り。
渋滞気味のその路上をノロノロと走るタクシーの車内で、俺たちはチョコレートの滑らかな食感と鼻に抜ける甘い味に舌鼓を打っていた。
「ショウジさん、このチョコ美味しいです!」
チョコレートを舌の上でゆっくりと転がしながら、俺は思わず顔を綻ばせてしまう。
「落ち込んだりイライラしたり。そんな時は、チョコレートがあったら食べるといいよ。チョコレートを食べると脳内のセロトニンという物質が増えるんだ。セロトニンには気分を調節してくれる働きがあるから、落ち込みやイライラには効く筈だよ。」
ショウジさんは俺の知らなかった豆知識をさらっと披露してみせると、チョコレートを一つ、とても美味しそうに頬張った。
そんな様子が何だか可愛くて、俺は堪らずにショウジさんの掌を握る。
「ねぇ、ショウジさん。それだけ美味しそうにチョコを食べてるって事は、ショウジさんも実はちょっとイライラしてたんでしょ?俺はしてたよ。何時の間にか不安だったもん。」
何時の間にかタメ口で話し掛けていた俺は、思わず声を上げて笑った。
見ると、隣でショウジさんも笑っていた。
そのせいか、これまで感じた事のない穏やかで温かな気持ちが、俺の心を支配していく。
ショウジさんの側にならこのまま居てもいいと、俺は心の底から思っていた。
振り返ってみると、俺はこの時既に生き直し始めていたのだった。

それから少し経って。
タクシーが俺の家の前にゆっくりと滑り込んだ。
いつもよりも少し早く、ショウジさんに連れられて、今俺はここに居る。
それが、何故だか不思議に感じられた。
俺の未来が今からの僅かな時間にかかっているかもしれない、そんな予感のせいか、落ち着いてはいられない気分だった。
拳を握り締めて、大きく息を吸い込む。
そうして俺が緊張しながらタクシーを降りようとすると、ショウジさんはそれをそっと静止した。
「……え?」
俺が戸惑いを隠せないでいると、ショウジさんはその太い指先で俺の頬を笑いながら突っついた。
「疲れたろう?のんびり寝てていいよ。話は私がちゃんとしてくるから。必要な時には呼びにくるから、それまでここで待っているんだよ。約束だよ。」
ショウジさんの優しい笑顔が早くも大好物になっていた俺は、その大好物をまさに目の前にして、すっかり弛緩した気分にさせられてしまったのだった。
ショウジさんがタクシーを降りて俺の家へと向かう後ろ姿を、俺はいつまでも目で追っていた。

静かな車内。
鳥の囀りが聞こえた。
雀だろうか。
ふとガラス越しに上を見上げたら、まだ太陽は空高くに居座り、その空はというと、ツンと澄ましたかのように、青一色だった。
俺は、電線に留まる雀からその向こう側の空へとフォーカスを合わせ直しながら、フワフワと、身体が浮くような気分を存分に味わっていた。
たぶん、別れ際のショウジさんの魔法が効いていたんだと思う。

それから、およそ三十分。
ゆっくりとした足音が近付いてきた。
俺は、急に胃が痛くなるのを感じながらも、笑顔で足音の主、ショウジさんを迎え入れた。
期待と不安が入り混じる中俺は、早速声を上げる。
「話、どうだったの?」
上目遣いで尋ねる俺の声には、微かに震えが混じっていた。
けれども次の瞬間に、その不安は杞憂であった事を俺は悟る。
「大丈夫、大丈夫。」
そう言って、ショウジさんは満面の笑みを浮かべたからだ。
「良かった!俺、これからどうなるの?」
気になっていた事だ。
俺は、虫の良い妄想の類を頭の中で巡らしながら、ショウジさんの次の言葉を待っていた。
「これから、一緒に暮らすんだよ。ご両親から普通養子縁組の許しが出たから、義理の親子になるんだ。もちろん、君が良ければだけどね。」
何と、俺の妄想はその殆どが当たっていたのだ。
ついでに、その妄想によるとボストンバッグの中身は現金だったりするのだけれど、バッグの中身についてはショウジさんの口からは遂に教えて貰える事はなかった。

それから、俺は嬉しい事に、養子縁組成立後に転校する事になった。
実家と、これから俺が暮らす事になるショウジさんの家とでは、学区が異なるためだ。
俺はタクシーの車内でショウジさんからその話を聞かされて、思わず飛び上がりそうな程に喜んだ。
もしかしたらこれで苛められる事なく、中学校を卒業出来るかもしれない。
そう思うと、自然と涙が止まらなくなった。
そうして車内で嗚咽を漏らす俺にショウジさんは何処までも優しくて、俺はこの人にずっと付いていきたいと、この時ハッキリと思い始めた。
俺はシンデレラかもしれないと、この時は本気でそう思っていた。

タクシーが次に滑り込んだのは、デパートの前。
「さ、今日はお祝いだよ。ご馳走たくさん作るからね、遠慮せずに食べるんだよ。」
そんな嬉しい言葉と共にショウジさんが先にタクシーを降りる。
ぼんやりしていたせいで反応が遅れた俺は、慌ててその後を追った。
俺は混み合ったデパートの中を、ショウジさんの背中を追い掛けながら、すり抜けるようにして歩いていく。
地下食料品売り場で。
ショウジさんは高そうな食材やスパイスを次々と手に取っていく。
今までに見た事のないものも多く、俺は期待に胸を膨らませた。

結局、今夜のお祝いの為の食材を山程買い込んで、帰りのタクシーに乗り込む俺たち。
車内では、ショウジさんの手でこれから作られるご馳走についての話題に、花が咲いた。
パエリアにブイヤベース、ヒラメの香草焼き……。
俺にとっては、名前を聞いただけでも涎が溢れ出てくる程のご馳走だ。
横を見れば、ショウジさんの温かで眩しい笑顔。
俺は、生まれて初めて訪れた大きな幸せに戸惑いながらも、喜びのあまり身体中を火照らせていた。
暑いのは決して、暖房の効き過ぎのせいでは無かったという訳だ。

帰宅後、俺はリビングでTVアニメを観ながら寛いでいた。
ショウジさんの家ではCS放送を受信しており、アニメ専門チャンネルも複数観られるのだった。
お陰で退屈する事もなく夕食時まで時間を潰す事が出来た。
「楽しそうだね、そろそろ食事の用意が出来るよ。」
ショウジさんはそう告げると、大きなトレーに載せたオーバル皿を
ダイニングテーブルの真ん中に置く。
今晩のメインディッシュ、パエリアの登場だ。
「ブイヤベースと香草焼きも、今持って来るから待っててね。」
そして程無くして、テーブルの上にはご馳走がズラリと並んだ。
「本当はまだ早いけど、シャンパンも用意したよ。今晩だけ、特別だからね。」
そう言われて、俺のテンションは爆発!
「早く食べようよ、どれも美味しそう!」
「さ、ヤスくん、ようこそ我が家へ。いただきます。」
「いただきまーす!」
その後、食いしん坊二人が精力的に食べたお陰で、ご馳走はあっという間に無くなった。
食事中、俺たちの間には大した会話は無かったが、常に笑顔は絶えなかった。
こうして俺はこの日、ショウジさんの家の一員、家族として迎え入れられたのだった。

それから俺とショウジさんは、毎日一緒だった。
普通養子縁組の許可が下りるのに時間は思いの外掛からず、新しい学校へも通うようになった。
今度の学校では、影は薄かったものの苛められる事はなく、ただの劣等生としての日々を毎日だらだらと過ごしていた。
結局新しい学校でも友達は出来なかったが、それはこの時の俺にとっては大した問題ではなかった。

家では、忙しい仕事の後にもかかわらず、ショウジさんが毎日勉強を教えてくれていた。
「ね、ここ分かんない。」
「どれどれ、ここはこうして、こんな風にして解いてやればいいんだよ!」
「その説明がもう分かんない!全部分かんないから、もう寝る!」
そんな俺の我儘はしょっちゅうだったが、それでもショウジさんは、いつでも根気強く俺に勉強を教えてくれようとしていた。
結局勉強はこれっぽっちも出来るようにはならなかったが、俺にとってはショウジさんの気持ちが温かくて、それもまた幸せな時間だった。

中学時代の前半は、二人でよく温泉旅行に行った。
東伊豆、堂ヶ島、箱根、和倉、秋保……。
俺は旅行の度に舞い上がってしまい、調子に乗ってしまっていた。
お土産をねだり、夜は抱いて欲しいとねだり、行く先々でご馳走に舌鼓を打った。
ショウジさんが見たてる旅館はいつも高級なところばかりで、俺は連れて行ってもらう度に目が眩む思いだった。
中でも、夏休みの秋保での想い出は格別だった。
地元でも随一の高級旅館の露天風呂付きのお部屋に、一週間も滞在したのだ。
一日中、観光もせずにショウジさんの側で庭園の景色を眺める時間は、長閑で至福だった。
その時の想い出は、今も俺の胸の中で輝いている。
それだけ、分不相応で贅沢で、夢のような体験だったのだ。

その後、中学時代も後半になると、俺の受験勉強の事もあって、旅行に行く機会はすっかりなくなってしまった。
それでも、俺にはショウジさんが居た。
だから何も変わらない。
それだけで、心の底から幸せだった。

しかし……。
中学三年の十二月。
出会ってから、ちょうど丸二年。
事態は一変する。
俺はショウジさんの仕事の事は詳しくは聞かされていなかったが、不動産会社を経営しているとだけは聞いていた。
その会社が不渡りを出したのだ。
投資が焦げ付いた、それ位の事しか俺は知らない。
結局、ショウジさんは失踪し、俺は住む家を追われた。
その日、十二月十日。
遡る事ちょうど二年前が、ショウジさんと出逢った記念日だった。
俺は帰る当てもなく、手荷物さえもない状態で、泣きながら路上を彷徨っていた。
別れ際、何も知らなかった俺が最後にショウジさんから聞いた言葉、「諦めるな、お前は、最後の最後まで、生きろ!」あの時理解不能だったそれだけが何度も何度も胸の中でリフレインしては、俺の心を掻き毟った。
気が付くと、俺は交番の程近くで蹲って泣いていた。
「どうしたんだ、君。」
当然の職務質問。
俺は実家の住所を告げた。
この状況だ。
どうせ中学を卒業したら身体でも売って働くのだ。
だったらそれまでの間、住まわせて貰えればそれでいい……。
半ばやけっぱちでそう思っていた。

俺は再び実家に転がり込んだ。
警官に連れられて、何時の間にか建て替えられて新しくなっている実家の前に立つ。
インターホンが押され、母親が姿を現した。
どれだけ嫌悪感剥き出しの表情で現れるのかと思いきや、笑顔だった。
それも、良心からの笑顔ではない。
ざまあみろ、そう顔に書いてあった。
俺を見下す母親の目。
俺は一生、忘れない。
その日から再び、全裸での生活が始まった。
俺は再び不登校になった。
言うまでもなく、一刻も早く実家を飛び出したかった。

そして、春。
皆が高校に進学する春。
成績、出席日数共に最悪だった俺が、母親に売られる春。

俺は母親に言われるがままに、遠い親戚の経営する工場でお世話になる事になった。
三月末、何も知らない俺はナイロン製の安いボストンバッグ一つ片手に、実家を後にした。
実家の鍵は取り上げられたから、その時の雰囲気で、もう戻る事もないと分かっていた。
片道切符を手に親戚の元へと向かう列車に揺られながら、青い空を眺めてはただひたすら、涙が止まらなかった。

それから、実に七年間。
俺は工場で働きながら、社長の性処理奴隷として、日々掃き溜めのように扱われていた。
母方の遠い親戚である社長には、奥さんが居たのだけれど、実はゲイであり、行き場の無い俺は掃き溜めとしてはうってつけだったのだ。
それが証拠に、痛いのが大の苦手だったにもかかわらず、徐々にではあるが、プレイの内容はエスカレートしていくばかりだったのだ。
とはいえ、住まいからして社長の家の納戸であり、生活全てを管理されていたから、覚悟を決めて逃げ出さない限りは、プレイを断る事もままならない状況だった。
工場での仕事も病気の俺にはキツく、コネで入社した事へのやっかみもあって、毎日昼も夜も罵声を浴びていた。
俺は毎日が、苦痛だった。
まるで振り出しに戻ったかのような、苦闘の日々。
俺は、死にたかった。
けれども、臆病で。
ただそれだけの理由で、死ねなかった。
だから悔しかった。
日々、苦闘していた。
逃げ出せば必ず路頭に迷うと洗脳されていたせいで逃げるに逃げられなかった七年間、俺が覚えているのは、空だけは何時でも、誰に対しても青かったという事だけだ。

そんな俺が、再び生き直す事になるのは二十二歳の夏の事。
ちょうど今から三年前の事だ。
プレイでの扱いが暴行の域に達しつつあり、耐えかねて遂に深夜、ボストンバッグ一つ片手に二丁目へと逃げ出したのだ。
給与は僅かばかりの小遣いを除いては全て没収されていたため、所持金は僅か。
学歴も大したスキルもなく、正に路頭に迷ったその時。
俺は一人の男と出逢った。
それが、ユウタだ。
ユウタは、俺と同い年。
十二歳の頃に交通事故に遭い、自らは助かったものの、両親を失った。
以来、親戚の家で暮らしながら勉学に励み、奨学金を貰って有名私立大学に進学、卒業後にベンチャー企業を立ち上げて、現在に至るまで苦闘の日々を送っていた。

出逢った日、俺は今日と同じように一文無しだった。
二丁目の路上で当てもなく時間を潰していたら、ユウタの方から声を掛けられた。
「ねぇ、時間ある?」
そう聞かれたから、俺は黙って頷いた。
「歳、幾つ?」と聞かれて、淡々と答えて、同い年だと分かって、俺の前で何故だかはしゃいで。
そんなユウタは、俺の胸のど真ん中を射抜いた。
けれど、俺の身体はもう傷だらけだ。
度重なる暴行と調教による傷跡が生々しく残っていて、とても見せられないと思った。
俺には、ユウタと付き合う資格などない。
そればかりか、一夜限りの情事だったとしても、どん引きされて終わるだろう。
これ以上話してもお互いに時間の無駄だと悟り、俺は口を開く。
「俺、親戚の性処理道具、掃き溜めだったんだ。もう全身傷だらけでさ。今、無一文で逃げ出して来たところ。だから、俺に声を掛けたって無駄だよ。」
その時、ユウタは、笑った。
邪気のない、天真爛漫な笑顔で、俺を受け入れようとしていた。
そして、「そんなの平気だよ、可愛いじゃん!」そう言って声を上げて笑った。
その姿はまるで、俺に好意を抱いているように見えたから。
俺は、告白した。
たぶん俺はこの時、焦っていたんだと思う。
「俺、お前に一目惚れしたみたいでさ。良かったら、俺と付き合わないか?」
ユウタは、黙って頷いた。
その時に、目の前の笑顔が弾けたのを見て、俺はユウタを力一杯、抱き締めた。
俺たちは仲通りの片隅で、互いの身体の感触を愛おしく貪った。

そうして。
いよいよ金がなくなり昨日住む家からも逃げ出したばかりで行く当てのなかった俺は、その夜から、六畳一間のユウタの部屋に転がり込んだ。
初めての夜。
「ヤスくんはきっとぼくに出会う為に生まれて来たんだと思うよ!だってぼくも今、おんなじ事考えてるんだ!」
奴に抱き締められながらそう言われて、俺の目からは滝のように涙が溢れ出て、止まらなかった。
その時に俺は、ユウタの邪魔にならないようにしよう、そう思った。

それからの俺は、毎日懸命に仕事を探した。
早く仕事を見つけて一人暮らしをしないと、狭い部屋に太った男二人では、ユウタが余りにも可哀想なのだ。
結局七社目の面接で、奇跡的に俺は採用された。
その会社は、鉄道の通信ケーブルの敷設を請け負う会社だった。
仕事は、軟弱な俺にはあまりにも過酷だった。
夏は炎天下、冬は寒風吹き荒ぶ中足場の悪い場所での単調な作業が続く。
誰にでも出来る仕事には違いなかった。
ただ、危険で、しかも異様な程に体力を消耗した。
夕方、太い通信ケーブルを収める為に、線路脇のコンクリート製のトラフの蓋を延々と外していると、次第に身体から力が抜けていった。
もう何も持てなくて、何度も足手纏いになって、何度も逃げ出しそうになって、その度にユウタの笑顔がちらついて、結局逃げ出す事など出来なくて。
しばらくの間はずっと、そんな調子だった。
それでも、入社から二ヶ月後には俺は一人暮らしをするまでになっていた。
その間、ユウタは俺を温かく支えてくれていた。
自分も毎日忙しいにもかかわらず、家事全般は全てユウタがこなしてくれていた。
俺はユウタの優しさに、何時でも甘えてばかりだった。

そうして、一人暮らしを始める為に俺がユウタの部屋を出て行く、まさにその夜。
俺はユウタから時計を貰った。
「ペアウォッチ、これで住処が離れ離れになっても、一緒だよ。」
その時計をはめた時、俺は秘かに心の中で、ユウタと結婚したような気にさえなった。

それからの一年。
俺は、幸せだった。
仕事は変わらず過酷だったが、工具の名前も覚えていったし、線路脇にある平均台のようなコンクリート製トラフの上を、フラフラとバランスを取りながら太いケーブルを担いで歩き続けるのも、身体が慣れて来て楽にはなった。
しかし同時に、俺は自分自身がユウタの優しさに溺れて甘え切っている事に、腹を立ててもいた。
俺は何時の間にか嫉妬深い性格になっており、何時でもユウタを縛り付けるようになっていった。
逢う度に携帯をくまなくチェックしたし、毎日の電話は欠かさなかった。
それでもユウタは、嫌な顔一つせずに俺の側に居た。
それは俺にとってはかえって、辛い事だったかもしれない。
こんな事ではいけない、ユウタの
夢の邪魔になってはいけない、そう思い始めたのだ。

結局一年後の夏に、俺から別れを切り出して、今日で丸二年。
一年前には、心の支えを失って力尽きたせいで遂に仕事も首になり、現在に至るという訳だ。

目下、絶体絶命。

俺は空を見上げた。
ふと思い出す。
そろそろ、しばらく前になけなしの金をはたいて買ったジャンボ宝くじの、当選番号の発表日なのだ。
俺は、財布に宝くじがバラで三枚入っている事を確認すると、近所の宝くじ売り場にふらりと歩いていった。
売り場のおばちゃんに、宝くじを渡す。
買った時に入れてもらった袋ごと。
その後、おばちゃんの顔色がみるみる内に変わっていくのを目の当たりにして、俺は事の重大さを自覚し始めた。

一等二億円、当選。
俺は売り場の前でへなへなと崩れ落ちた。
その時だった。
青い光が目の前に降り注ぎ、ユウタがうっすらとその姿を現したのだ。
「そのお金は、ぼくからのプレゼント。事業に失敗しちゃったから今のぼくに出来る事はこれだけ。幸せになってね、きっとだよ!」
それだけを告げると、風と一体となって消え去っていくユウタ。
俺は、叫んだ。
「待ってくれ、俺はこんな金より、お前が、お前が……。」
俺は、その場に泣き崩れる。
それから俺は、銀行に行くのも後回しにして、一晩、がらんどうの部屋で泣き腫らした。

翌日……。
もう太陽が空のてっぺんにある事が、カーテン越しの陽射しで明らかな時間。
俺は、気怠い身体をのっそりと起こすと、その場で固まった。
「おはよ、また会えたね、ヤスくん。」
二日続けて起こった奇跡。
一晩ずっと泣きながら、そんな事がいつか起こらないだろうかと、都合良く願っていた内容と寸分違わぬ、まさに奇跡。
二度目のそれの衝撃の大きさは、短い人生の中では最大かもしれなかった。
だから俺は、抱き締めた。
力一杯、心を込めて。
でも、俺の為に青い鳥に願ったユウタが、どうして元に戻れたのか。
そんな時に、ふと頭を過った。
あの人の存在が……。
「そうだ、ショウジさん……。」
すると青い光が部屋に降り注ぎ、ショウジさんが姿を現す。
ショウジさんは無言だった。
ただ、笑っていた。
そして、消えていく。
この想いを、願いを、無駄にしてはならない。
もう一度、俺は告白するんだ。
その時は、今しかない。

チェックメイト。
覚悟を決めなきゃ。

「ユウタ、俺はお前が、ずっとずっと、好きだった。
別れてからも、お前を一目この目で見たかった。
この二年間、俺は結局、何にも変われなかった。
けれど、お前への想いだけは、他の誰よりも強いって、誓って言える。
だからもう一度、俺の側に来てくれ。
きっと幸せにするから、約束するから、そうやって俺ももう一度生き直すから、だからお前も俺と、もう一度生き直すんだ!
俺もお前の側にずっといるから、お前も俺の側で、ずっと一緒に、な?」
肩で息をしていた。
何時の間にか流れ出していた涙と鼻水を、服の袖で拭った。
俺は相変わらず弱虫だった。
甘ったれで意気地なしで意志薄弱で、男らしさの欠片もない、どうしようもない奴だ。
それでも、ユウタの前でなら、きっともっと強くなれる。
優しくなれる。
そんな事ももう、分かり切っていた。

俺はユウタの顔を見据える。
その顔は、笑っていた。
邪気のない、温かくて優しい、天真爛漫な、そしてかつてのそれ以上の、とっておきの笑顔。
だから俺は、抱き付いた。
返事も待たずに、キスをした。
もちろん、待つ必要などなかった。
俺は奴の笑顔に、俺の未来を残らず託した。
奴だって、きっとそうだ。
だから今日は、俺たちの結婚記念日だ。
俺たちの未来への扉は今、開かれたのだ。

結局、当選した宝くじは、ユウタが起こした事業の債務の返済であらかた消えてしまった。
それでもユウタには新しい仕事がすぐに見つかり、俺たちは小さなアパートで共に暮らす事となった。
学歴も体力もスキルも無い俺は、宝くじを差し出した代わりに主夫としてユウタの日常を支える役回りを担う。
俺と違って社交的なユウタのお陰で、共通の友人も出来た。
ノゾムと、ユタカだ。
どちらも相方持ちで、太っていてヤキモチ妬きなところが俺とそっくりだった。
それだけに話も合う。
そのせいか会う度に賑やかで、生まれて初めての友人は、とても清々しい気持ちを俺の心の中へと運んでくれた。
そんな俺はとても幸せで、だからこそ何があってもこの暮らしを守るんだと、そう何度も青い空に誓った。
ふと部屋からベランダの方を見ると、空には青い鳥が飛んでいる。
「ショウジさん……。」
忘れ難き想いを遺して去って行ったショウジさんの最期の笑顔を無駄にしないためにも、俺は何処までもユウタに連れ添うと、そう何故だか何度も心の中で叫ばずにはいられなかった。
涙が止まらなかった。
そんな俺を、ユウタは抱き締めた。
俺達の幸福な日常は、まだ始まったばかりだ。

このお話や、同じBluebirdシリーズの雪の涙など、いわゆるデブ×細のお話も稀にはありますが、このサイトは基本的にはデブ×デブを扱うサイトなのです。
今回ユウタ君を細い子にしたのは、ショウジさんを太めにする事で、ある種のバランスが取れるだろう、と思ったからです。
もちろんそうする事によって、若細好きなヤスユキ君とショウジさんとの恋愛が純愛に近いものであると強調する狙いもあります。
まぁ、やることやっちゃってんですけどね。
拙い所も色々とありますが、楽しんで頂けましたら誠に幸いです。
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