FC2ブログ

Bluebird : Meets Fallen Angel 1

夢を見ていた。
また悪夢だった。
寝ている間にかいた汗が、じっとりと背中に纏わり付く。
「今、何時だ……。」
携帯に手を伸ばして待ち受けを表示させると、画面上の時計は午前二時を指し示していた。
「畜生、まだこんな時間か……。」
マコトは舌打ちをすると、横たえていた身体をゆっくりと起こして欠伸を噛み殺す。
ふとテーブルの上に目を遣ると、飲みかけのペットボトルが冷蔵庫にしまわれる事なく置き去りにされていた。
「喉、渇いたな……。」
男は早速、ペットボトルの中身を置いてあったグラスに注ぎ、一気に飲み干す。
「にしても、またあいつが亡くなる夢を見るなんて、俺、どうかしてるのかもな。」
マコトは恋をしていた。
相手は、街中のコンビニで見かけた年下の大学生。
挨拶に続いて二言、三言会話をする程度の面識しかなかったので、相手について知っている事といったらこれ位のものだ。
笑顔が可愛くて、一目惚れした。
それ以来ずっと、彼の事が忘れられないでいる。
そのせいだろうか。
時々、寝ている間に彼の夢を見るようになった。
決まって、彼が亡くなる夢だった。
今日も、彼が事故で亡くなる夢を見たばかりだ。
「縁起でもない……。」
マコトは吐き捨てるようにそう呟くと、布団を被って再び眠りに就くのだった。

翌朝……。
出社のための身支度をしながらマコトは、昨晩の夢の事を思い出して深く溜め息を吐く。
マコトは、好きになった大学生が勤めるコンビニに、昼休みにでも寄ろうと思っていた。
しかしマコトにとってそれは、楽しみなようでいて、実はそうでもない。
彼を前にしていると、自分の気持ちをどうにも抑え切れなくなるのだ。
或いは、告白などやらかしてしまうかもしれない。
だから、胃が痛いのだ。
自分のような冴えない男に、チャンスなどある筈もない……。
マコトは、夢の中で殺してばかりいる恋の相手に負い目を感じて、また引け目を感じて、再び深い溜め息を吐くと、憂鬱さと苛立ちとを隠す事なく、狭いワンルームを後にした。

通勤の間中、マコトは独りで考えに耽っていた。
もしも告白したらどうなるだろうか。
それは、断られるに決まっている。
人の目のある所でなら、尚更だ。
では、連絡先を渡すのは?
メールアドレス一つ晒された所で、マコトには痛みを感じる理由など無かった。
ましてやマコトは、携帯を二台、メールアドレスを三つ持っていた。
何も困る事はない。
連絡先を紙に書いておいて、会計の時にさりげなく渡せばいい。
後は連絡が来るのを待つだけだ。
そうして考えが纏まった頃には、マコトは既に浮き足立っていた。
ここ何週間かの憂鬱な気分が嘘のようだ。
昼休みが待ち遠しい。
こんな気分は久々だ。
悩みから開放されたマコトは、昼までの時間を無難にやり過ごすために、退屈極まるオフィスへと滑り込むのだった。

昼休み……。
マコトは緊張から、胃の辺りを頻りに摩っていた。
足は半ば惰性で、大学生が勤めるコンビニへと向かっている。
向かい風が冷たかった。
そんな事でさえ、この時のマコトには不吉に感じられた。
あれだけ名案だと思っていた自分の考えが、酷く愚劣なものに思えてきた。
店の前。
マコトは大きく深呼吸をすると、歯を食い縛って拳を握り締める。
ふと我に返ると、そんな挙動不審な振る舞いがどうにもわざとらしく思えてきて、マコトは首を微かに横に振ると、敢えて脱力した姿勢を取るのだった。
店内に入る。
真っ直ぐ弁当コーナーに向かったマコトは、大して美味くもないであろう大盛りのパスタを手に取ると、再び胃の辺りを摩る。
大学生を前にして、緊張が極限にまで達しようとしていた。
けれどもここで引き返す訳にはいかない。
マコトは、何処か上の空な様子でよく見もせずに、ペットボトルの紅茶とフルーツゼリー、それに菓子パンとおにぎりを次々と手に取ると、それらを抱え込んでふらつく足取りでレジへと向かうのだった。
この時のマコトにはもう、目の前に佇む大学生しか見えていない。
だから、女子高生風の店員が打つ隣のレジが先に空いても、それを無視して男は、大学生の打つレジが空くのを待ち続ける。
やがて運命の瞬間が訪れた。
マコトは、精一杯の笑顔と共に、連絡先の書かれた紙片を大学生にそっと差し出した。
大学生は一瞬、影の宿った目付きでぼそりと「ありがとうございます」とだけ言うと、それを大事そうに折り畳んでチノパンのポケットに入れる。
そして再び、今度は営業スマイル全開で「ありがとうございました!」と言って、頭を下げるのだった。
正直、脈はあった。
だが、大学生のあどけない顔が一瞬、暗い表情に変わったように見えたのが、マコトには気掛かりだった。
食べ切れない程の食料を抱えたまま、マコトはまたも溜め息を吐く。
「どうせ、なるようにしかならない、か……。」
マコトの行く手には、向かい風が吹き付けていた。
マコトはまだ、この後に待ち受けている自らの運命を知らなかった。

その日の夕方……。
大学生からのメールを受信したマコトは、落ち着かない様子で出掛ける支度を急いでいた。
大学生からのメールはごく短いもので、そこには会いたい旨と自宅の住所だけが書かれていた。
マコトは焦っていた。
支度をしている間に大学生の気が変わってしまう事を、恐れていたのだ。
「ちっ、こんな時に……。」
緊張からお腹が下ってしまったマコトは、苛立ちから舌打ちをする。
仕方無くトイレに駆け込み、慌てて用を足してから自宅を後にすると、マコトは駅に向かって駆け出していた。

電車を乗り継ぎ、大学生の自宅の最寄り駅まで到着したマコトは、深呼吸をすると、住所を頼りにそこまでの道のりを歩き始めた。
呼吸を整えるように、ゆっくりと歩く。
大学生の住まいは、駅から程近かった。
単身者向けのワンルームマンションであると思われるその建物の前まで着くと、ここまで来たというのに、マコトは怖じ気付いてしまう。
引き返そうかとも思った。
そこでマコトは、到着した旨のメールを送った方が親切であるという事にようやく気付く。
マコトは結局、大学生にメールを送る事でどうにか気を紛らわせるのだった。

五分後……。
マコトは大学生を前にして、呆然と立ち尽くしていた。
「鍵が空いているから勝手に入ってくれ」との返事をもらい、恐る恐る部屋の中へと入ってみたのだが……。
大学生は何と全裸で、しかも初老の男に抱かれていたのだ。
後退りしながら帰ろうとするマコトだったが、それを大学生が呼び止める。
「行かないで!もうすぐ終わるから、待ってて!」
確かに、初老の男は大学生に腰を打ち付けながら、もうたまらないといった表情で呻き声を上げ続けていた。
程なくして初老の男は、一際大きな声を上げたかと思うと、ピタリと動きを止めてしまう。
疲れたのだろう、肩で息をしている。
事の済んだ初老の男は、バツの悪そうな顔でそそくさと帰り支度を済ませると、挨拶もせずに無言で大学生の部屋を後にした。
こうなると、マコトはいよいよその大学生と二人きりである。
この時、マコトにはやるべき事が一つあった。
部屋のドアの鍵を閉める事だ。
そう、余計な邪魔者が入って来ないように。
そうしてマコトは、憧れだった大学生と対峙する。
ベッドの上に横たわる大学生は全裸のまま。
夢にまで見た、いや、それ以上の裸体だった。
だが、マコトの気分は晴れない。
マコトは目を細めると、意を決して大学生に尋ねた。
「お前、何でこんな事してるんだ?」
大学生はそれには答えずに、ゆっくりと立ち上がると「いいから抱いてよ」とマコトの耳元で囁いて、そっと抱き付いた。
この瞬間、マコトの中で最後まで燻っていた理性の欠片が、跡形も無く燃え尽きてしまう。

一時間後……。
事を済ませた二人は、ベッドの上で隣り合ったまま、無言だった。
手を握る。
少し湿った、温かな感触が心地良かった。
だが、この時のマコトには、後悔と自責の念に苛まれていたせいで、その感触をじっくりと楽しむ余裕までは無かった。
大学生が指を絡ませる。
そのせいか、息が少し苦しい。
男はそれまで、気まずくて大学生の顔を満足に眺める事すら出来なかった。
だが、何となく視線を感じるような気がするので、暫しの葛藤の末に意を決して大学生の方を振り向くと、彼はマコトの顔をじっと見つめていた。
その顔に、表情に、マコトは思わず息を呑む。
目が離せなかった。自分でもよく分からないのに、涙が出そうになった。
このままではまた激情にまかせて彼を傷付けてしまうかもしれない、そう恐れたマコトは、そういえばまだ名前も聞いていなかった事を思い出し、心とは裏腹な無愛想さでそれを尋ねる。
「名前?ノゾムって言うんだ。カワハラ ノゾム。よくコンビニに来てくれてたお客さんだよね?よろしくね。」
手が差し伸べられたので、ぎこちなく握手をしてしまった。
他に言いたい事はあるというのに。
もっとも、マコトにそんな資格があるかどうかは、今となっては分からないのだが……。
マコト自身段々とそう思えてきて、逡巡していると、ノゾムは再び抱き付いてきた。
「ねぇ……。もう一回、しよ?」
その顔は、魅力的だった。
だから、今度こそ言わなければならない。
さっき言いそびれた言葉を。
息を吸う。
もう自分にはそんな資格は無くとも、それでも構わないと思った。
そうして口をついて出てきたのは、たどたどしく弱々しい言葉たち。
「俺、君の……ノゾムの事が、ずっと好きだった。なのに、抱いちまった、あんな状況で……。だからホントは、こんな事言う資格無いけど……。止めた方がいいと思うんだ、そういう事。ほら、病気の心配だってあるしさ。」
言い終えて、何処か虚しさだけが残った。
こんな汚れた自分なんかが忠告したところで、打っても響かずに終わってしまうかもしれない。
脱力して、ぽかんと口を開けて、ただぼんやりとノゾムの方に顔を向ける。
そこでようやく気が付いた。
ノゾムは、マコトの事を睨みながら、顔を真っ赤にして、今にも泣き出しそうになるのを必死に堪えていたのだ。
ノゾムは叫んだ。
「好きなら抱いて!独りにしないで!いつも傍に居て!それが出来ないなら、関わろうとしないで!」
ノゾムの真っ直ぐな叫びが、マコトの心にスっと入り込む。
だが、ノゾムは諦め切っていた。
自分には、もう恋をする資格など無いと思い込んでいた。
今回も、どうせ去っていくのだから追ってはならないと、自分に言い聞かせていた。
だから、自らを戒めるように、過去の記憶を掘り起こす。
もう二度と、恋をしないように……。

二年前、大学に入学したばかりの時、ノゾムは恋をしていた。
少し遅い、初恋だった。
相手は、同じ学部の先輩、セイジ。
大人しそうな雰囲気が、マコトとよく似ていた。
可愛いと思った。
一目見て恋に堕ちたノゾムは、悩みに悩んだ末に告白する事を決意する。
ある日の夕方、駅前で。
講義の際に声を掛けて、セイジを呼び出していたノゾムは、彼が待ち合わせ場所に到着するのを心待ちにしていた。
緊張からか何処か上の空で、そわそわした様子で辺りをウロウロしていると、やがて後ろから自分の肩を叩く人物が現れる。
声で分かった。
セイジだった。
ノゾムは、セイジが周りの目を気にしなくてもいいようにと、彼を当時存在していた談話室滝沢へと案内した。
静かな、落ち着いた店内。
「それで、話って何?」
セイジは、目の前に運ばれてきたシティホテルのラウンジ並の値段のケーキセットを、嫌な顔一つせずににこやかな表情で頬張ると、目の前のノゾムに優しく問い掛ける。
その柔和な表情に堪らなくなったノゾムは、息を吸うと、吐き出す事も忘れて苦しそうに告白するのだった。
「ぼく、先輩の事が好きです!付き合ってください!」
ほんの一瞬、僅かな間の沈黙。
やがてセイジは、笑顔を崩す事なくこう言った。
「よく頑張ったね!ぼくも君みたいな子が好きだよ。こちらこそよろしく!」
こうして、二人の交際はスタートした。

初めは、順調だった。
だが、仲のいい友人の多かったセイジに、ノゾムは嫉妬した。
ノゾムはセイジに、自分とだけ仲良くして欲しかったのだ。
「どうしてみんなに優しいの!?ぼくだけじゃ不満なの!?」
そんなノゾムの心の叫びは、繊細なセイジの心に深く深く突き刺さった。
程なくしてセイジは、仲の良かった友人たちとの交際を、諦める事にした。
携帯を使う姿にさえ嫉妬を隠さない恋人のために、アドレス帳からも彼らの連絡先を消去した。
電話番号もメールアドレスも変えた。
そうして、誰からの着信も無くなった。
かつて苛められていた経験から自らの容姿に激しい劣等感を持つノゾムは、その様子に安堵の溜め息を何度も漏らし、心から満足した。
だが、幸せは長くは続かなかった。
ストレスからセイジは、他の相手との浮気に走ったのだ。
そしてそれはすぐに、ノゾムの知るところとなる。
ノゾムは許せなかった。
着信すらなかった携帯を目の前で使われる屈辱に、ノゾムは耐えられなかったのだ。
怒り狂ったノゾムは、セイジの住む部屋に連絡無しで押し掛けると、インターホンを何度も鳴らし続けた。
だが、人の気配はするのに誰も出ない。
程なくして、メールの着信があった。
それはセイジからの、別れを告げるメールだった。
「別れよう。今、新しい恋人と部屋に居る。君はもういらない。帰って欲しい。」
何度声を掛けても、叫んでも、ドアを叩いても、セイジは出なかった。
次のメールで「警察を呼ぶよ」とセイジに脅されて、ようやく諦めたノゾムは、怒りに任せて持っていた携帯を二つにへし折ると、それを投げ捨てて自宅へと戻るのだった。
思えば、そこで本当に警察に通報していたら、もしかしたら皆救われていたのかもしれない。
だが実際には、セイジにはそんな勇気は微塵も無かった。
そしてそれは、セイジの身に更なる悲劇を巻き起こす。

事件から一週間後……。
必要に迫られて携帯を機種変更していたノゾムだったが、携帯を壊せばもうセイジにメールを送らなくて済むだろうという当初の目論見とは裏腹に、結局は連絡先のメモから、消えた彼のアドレス帳のデータを復活させてしまっていた。
そうなるといよいよ、メールを送る事を止められない。
ノゾムは、二日間に渡って日に百通ものメールを、セイジに送り付けた。
内容は全て、セイジを罵倒するものだった。
流石に自分が怖くなって、持っていた携帯をまたも壊す事で、その行為に終止符を打つのだが……。
もう、手遅れだった。
追い詰められたセイジは、衝動的に自殺を遂げてしまったのだ。
セイジの最後の恋人からその事実を聞かされたノゾムは、ショックで打ちのめされる。
それ以来ノゾムは、罪深い自分を罰するように、自らの身体を不特定多数の人間にいつでも開放してきたのだ。
それは自らを守るための行為でもあったろう。
そうする事で、一時的にせよ悲しみは薄らぎ、心は満たされたのだから。

……気が付くとノゾムは、マコトに強く抱き締められていた。
息が苦しい。
けれども、心地いい。
「泣かないって、決めたのにな……。」
何時の間にか流れてしまっていた涙を拭うと、突然目の前のマコトが声を上げるので驚く。
「こんな奴で良かったら、俺、ノゾムの事離さないから、約束するから、だからもうそんな事しないでくれ、そんな悲しい目で俺を見ないでくれ!!」
それは悲痛な、心からの叫びだった。
そしてマコトは、抑え切れない想いをぶつけるかのように、ノゾムの唇を乱暴に奪う。
それを黙って受け入れるノゾムは、戸惑いながらも嗚咽を漏らしていた。
「俺、お前だけのものになるから、もうお前を独りぼっちにはしないから、だから安心するんだぞ……。」
マコトの言葉が、ノゾムの傷付いた心に沁み渡っていく。
ノゾムは、マコトの下で震えるように泣きながら、もう一度、本当にもう一度だけ、恋をしてみようと決意するのだった。

翌日……。
マコトに連れられてノゾムは、HIVの検査会場に足を運んでいた。
心当たりがあり過ぎたせいか、ノゾムは不安の色を隠さなかったが、そんなノゾムにマコトは優しかった。
「大丈夫、怖がらなくていいぞ。俺が付いてるからな……。」
マコトは、隣で肩を竦ませるノゾムにそっと声を掛けると、その何処か頼りない肩を優しく抱き寄せるのだった。
やがて番号が呼ばれ、ノゾムは採血へと向かう。
待っている間マコトは、昨晩も見た悪夢の事を思い出し、深い溜め息を吐いた。
実はマコトも不安だった。
昨日ノゾムのSEXを目撃した際に、マコトは気付いていたのだ。
相手の初老の男がコンドームを付けていない事に。
それは、ノゾムが他の相手とSEXをする際にも、コンドームが使われていなかったかもしれない、という事実を何よりも雄弁に物語っていた。
だから本当は、不安で不安で仕方がなかった。
いても立ってもいられなかった。
そして、残念な事にその不安は的中する。
ノゾムは……HIVに、感染していたのだ。
医師からの宣告の瞬間、ノゾムは固まって動かなかった。
目は泳ぎ、呼吸は乱れる。
心の何処かで覚悟していたはずの事なのに、ノゾムは明らかに動揺していた。
無言で医師の話を受け流すノゾム。
体は力無く脱力し、目には怯えの色が見え隠れする。
やがて、何度か惰性で相槌を打ちながら一通り医師の話を聞き終えてマコトの元に戻ったノゾムは、そこで初めて弱々しく口を開いた。
マコトの目が曇る。
ノゾムが口を開く前から、待ち時間の長さが、怯えを孕んだ目が、感染の事実を明確に物語っていたからだ。
「ねぇ、どうしよう……。」
待ち合い室で、ノゾムはマコトに縋る様に抱き付く。
「大丈夫、大丈夫だから……。」
ノゾムの柔らかい頭髪を震える手で撫でながら、マコトはあの伝説の青い鳥の存在を思い出し、ある覚悟を心の内に決める。
ノゾムを助けよう。それが何の価値も無い自分に出来る唯一の、ノゾムへのプレゼントだと、この時のマコトにはそう思えた。
検査会場からの帰り道、頭上には目にも鮮やかな青い鳥が舞っていた。
マコトは願う。
自分の命と引き換えに、ノゾムがエイズを発症しないようにと。
その願いは一時の、気の迷いかもしれなかった。
今のノゾムからマコトが居なくなったら、彼は再び抜け殻になってしまうのだから。
そんな彼らの状況を知っていたからか、空から一羽の青い鳥が舞い降りて、マコトの肩に留まった。
青い鳥は問い掛ける。
本当にそれでいいのかと、何度も問い掛ける。
それはあたかも、マコトに思い止まらせようとしているかのようで、マコトは首を傾げた。
その様子を察知したノゾムは、突然叫び出す。
「止めて!青い鳥に願い事なんかしないで!マコトが居なくなったら、ぼく、ぼく……。」
道の真ん中だというのに、ノゾムは泣き崩れた。
掛ける言葉が無くて、ただ抱き締めるしかないマコト。
彼らのやり取りを見届けた青い鳥は、何をする事もなく静かに去っていった。
実はこの時既に青い鳥は、幽霊になったある男のノゾムに対する願いを叶えていた。
その男とは他でもない、セイジだ。
セイジは亡くなってからしばらくの間はノゾムの事を恨んでいたが、壊れてゆくノゾムの様子を目の当たりにする内に、次第に心を痛め、心配するようになっていたのだ。
そんな折の、HIV感染発覚である。
セイジは、自らがこの世界から完全に消え去る事と引き換えに、ノゾムがエイズを発症しない事を望んだのだった。
最期の瞬間、セイジはノゾムが幸せになる事を心から祈っていた。
それは、少なくとも最期の瞬間、セイジの心の中には平安が訪れていたという事を意味していた。
セイジは、不幸のどん底の中で消えていった訳では、決してなかったのだ。
そんなセイジの想いを知らない二人は、どうにかノゾムの部屋まで辿り着くと、今後の事を話し合う。
「ノゾム、さっきはごめん……。これからの事だけど、取り敢えず紹介してもらった病院には行くとして、ここは引き払った方がいいと思うんだ。これから、薬代もたくさん掛かるだろうしね。俺のところで一緒に住まないか?少しでもノゾムの支えになれたら、俺は幸せだからさ。」
ベッドの淵に腰掛けたマコトは、隣で力無く項垂れるノゾムをそっと抱き寄せると、今の精一杯の気持ちを、訥々とした口調で伝えるのだった。
この時のノゾムにとっては、マコトの存在は暗闇のどん底に垂らされた一本の糸のようなものだったろう。
ノゾムは、今やマコトの温もりに唯一の希望を見いだし、その一見頼りない腕に、いつまでもしがみ付いていたのだった。

その夜……。
「ねぇマコト、これから付き合っていくにあたって、お願いがあるんだけど……。」
マコトとのSEXを終えたノゾムは、ベッドの上に横たわったまま、隣で携帯を弄る彼に伏し目がちに声を掛ける。
「何だ?何でも言ってみろ。」
マコトが相変わらず携帯に目を遣ったままでノゾムの手をそっと握ると、ノゾムは吸った息を少しずつ吐き出すように、弱々しく願いを吐露した。
「時々、携帯、見せて欲しい……。あと、毎日抱いて。じゃないとぼく、自分がどこに居るのか分からなくなって、死にたくなるんだ……。それから、本当はこんな事言う資格も無いけど、あんまり他の人と仲良くしてると、ぼく、嫉妬しちゃうから、だから……。」
そこまで言い終えて、上目遣いでマコトの目をそっと盗み見るノゾムは、今にも壊れてしまいそうな程に頼りなかった。
筋違いな願いを強要しようとする自分への罪悪感と、マコトの反応への不安、まだ見ぬマコトの知り合いへの嫉妬心で、ノゾムの風船のような心ははち切れそうだった。
だが、ノゾムの心配など吹き飛ばすかのように、覚悟を決めたマコトの返事は明快である。
「携帯だろ?好きなだけ見ていいぞ。それから、お前以外には仲良くしてる奴なんてどうせ居ないから、そっちの方も大丈夫だな。」
マコトは震えるノゾムをそっと抱き寄せると、それはもうにこやかに、晴れやかに笑ってみせるのだった。
この瞬間に、ノゾムはマコトの事を心から信頼し始めた。
ノゾムにとってマコトは、単なる恋人以上の存在になったのだ。
ノゾムはこの時、本当に幸せだった。

それからしばらく経って、疲れた二人は眠りに就いた。
ノゾムは中学生の頃の夢を見ていた。
悪夢だった。
……朝起きると、お腹が痛くてたまらない。
恐らくそれは、ストレスのせいだった。
だが厳しい母親は、学校を休む事を許してはくれない。
それに、ノゾムにはもう一つ、学校を休む事が出来ない理由があった。
ノゾムは学校の連中に、ある写真が原因で脅されていたのだ。
俺たちの言い付けを守れなければ、ノゾムにとっては恥ずかしい事この上無いものであるその写真を、ばら撒くと。
勝手に学校を休む事で恥ずかしい写真がばら撒かれてしまうのを極度に恐れたノゾムは、吐き気がするのも無視して毎朝休まずに登校していた。

学校に着くと、クラスの連中の嘲笑が待っていた。
これから起こる事態を想像して、怯え切った目で縮こまるノゾム。
すると、クラスのリーダー格の生徒が取り巻きを引き連れてノゾムの元にやってきた。
「なぁ、取り敢えず脱げ。そんでまた俺たちを笑かしてくれよ、な?」
まだ教師の居ない教室で、リーダー格の生徒は支配者気取りである。
しかし現実とは残酷なもので、彼の言う事に逆らえば実際に、ノゾムには途轍も無い屈辱が、地獄が訪れるのだ。
しかも逆らったところで暴行を受けるだけ。
繰り返される苛めの経験を経て少し利口になったノゾムは、大人しく彼の言う事に従い、着ていた制服を脱ぎ始めるのだった。
あっという間に白ブリーフ一枚になるノゾム。
流石に躊躇っていると、「早く脱げよ」との罵声が飛ぶ。
仕方なく、泣く泣く白ブリーフを下までずり下ろすと、もう見慣れた光景であるはずなのに、教室内には爆笑の渦が巻き起こった。
「小さーい!」
「皮被ってる!」
「まだ毛も生えてねぇ!」
お決まりの台詞が教室中を飛び交う。
ここからは撮影タイムの始まりだ。
リーダー格の生徒が音頭を取って、撮影係の所有するフィルムカメラでノゾムの痴態が撮影される。
現像は、撮影係となっている生徒の兄が高校の写真部の部員であるため、彼に依頼するのが暗黙の決まり事となっていた。
まだデジタルカメラの無い時代の話である。
やがて準備が整うと、怯えるノゾムに次々と事務的な指示を出すリーダー格の生徒。
「皮剥けよ。」
「勃たせろ。」
「ケツの穴広げて見せろ。」
……。
教室内は拍手喝采であった。
逆らえば近所中に写真をばら撒かれるとあって、ノゾムは油の切れた機械仕掛けの人形のように、黙って彼の出す冷酷極まる指示に従う。
と、そこへ……。
「先生が来るぞー!」
偵察係の生徒が教室に駆け込んできた。
「急げ、ノゾム!」
リーダー格の生徒の合図で、ノゾムは慌てて制服を身に纏う。
哀れな事に、穿いていた白ブリーフはリーダー格の生徒に取り上げられてしまった。
もっとも、これもいつもの事なのだが。
「返して欲しければ放課後もよろしく!」
リーダー格の生徒がそう言って着席すると、教室内は何事も無かったかのように静まり返る。
これが、ノゾムにとっての学校での日常だった。
既に感情の鈍麻したノゾムは、何時の間にか垂れ流していた涙と鼻水を制服の袖で慌てて拭き取ると、授業の準備を始めるのだった。

目が覚めると、寝汗をびっしょりかいていた。
小学校や中学校の頃の夢は時々見るのだが、正直未だに慣れない。
いつの頃からか、自分の身体が汚らわしいと感じるようになった。
その感覚は未だに消えない。
汚らわしいから、壊してしまいたくなる。壊してもらいたくなる。
でも……。
隣で寝息を立てるマコトは、そんなノゾムの全てを懸命に受け入れようとしていた。
それが痛い程に良く分かるから、ノゾムはマコトの事が愛おしくて仕方無かった。
「でも、ぼくなんかが恋をしちゃ、駄目なんだ……。」
セイジとの苦い記憶が蘇り、ノゾムをさらに追い込み苦しめる。
気が付くとノゾムは、頭を抱えてベッドに蹲って呻いていた。
目を覚ますマコト。
すぐには事態が飲み込めなかったが、苦しそうな恋人の表情を見て、マコトは心を痛める。
「大丈夫だぞ、大丈夫だぞ、お前は悪くないんだ、だからそんなに苦しまなくてもいいんだぞ。」
マコトは苦しむノゾムの背中を摩りながら、懸命に声を掛ける。
ノゾムはこの時確かに、苦しかった。
だが、マコトの優しさは少しずつではあるが、ノゾムの心に沁み渡り、彼を勇気付けていた。
一晩中呻き続けて、疲れて眠る頃には、ノゾムはマコトの胸の中ですっかり安心し切っていたのである。

それから一週間後……。
知り合いからミニバンを借りたマコトは、自らの運転でノゾムの荷物を自宅に運んでいた。
お決まりの悪夢を何時の間にか見なくなっていた二人ではあるが、前日の晩にSEXをし過ぎたせいで、眠い中での引っ越しとなった。
まだ大学生だったノゾムの所有する荷物は元々少なく、家電製品などの大半はマコトのものと重複するために処分したので、ミニバンでもどうにか一回で積み切る事に成功したのだった。
「ねぇマコト、マコトはホントにぼくで良かったの?」
助手席に腰掛けるノゾムは、不安そうな表情を露わにすると突然、隣のマコトに問い掛ける。
「当たり前だろ。お前こそどうなんだ?」
マコトは、ノゾムが心の中で望んでいたのと同じ答えを躊躇無く返すと、一見無愛想に見える表情で淡々と問い返した。
内心では気が気でなかった訳であるが、そこは敢えて見せないように振る舞っていたのである。
ノゾムの答えは、弱々しくもはっきりとしたものだった。
「ぼくは、マコトじゃないと……嫌だ。」
そう言ってノゾムは、シフトレバー上のマコトの手を、上から強く握る。
二人の絆は、少しずつではあるが、他の誰も入り込めない程に深まっていたのだった。
こうして二人は、手を取り合って二人だけの道を歩んでいく。
この先どんな困難があっても、互いが互いを支えながら、きっと乗り越えていくだろう。
空では、二人のこれからの前途を祝福するかのように、青い鳥たちが舞い続けるのだった。

よく書けたかは自信がありませんが、個人的には好きな作品です。
この作品に限らずBluebirdシリーズでは、青い鳥の力を借りての命のプレゼントや、場合によっては命の交換、命のリレーなども出来るのですが。
青い鳥にお願いをする際に、絶命時の痛みがないというのは大きなポイントではないかと思っています。
それがある種の、救いになっているという訳です。
その辺りは、何話かお読み頂けましたらお分かりになる事かも知れません。
青い鳥にお願いした後で悶絶するシーンなどは、そうした事から描かれていない訳です。
関連記事

最新記事

検索フォーム

QRコード

QR