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Bluebird : 天使との再逢

南からの春風が、心地良かった。
蒲公英の咲き乱れる線路端の小路。
いつでも利用するその路を、追い風に乗って自転車で駆け抜ける。
途中緩やかな坂道があり、僕はその手前でペダルを漕ぐ力を強めて、一気に踏み込んだ。
しばらく進むと、踏切が見えてくる。
そこを渡ってしまえば、目的地のスーパーはもうすぐそこだった。
春らしい柔らかな陽射しに眠気を誘われた僕は、途中で自転車を停めると、欠伸をしながらポケットに手を差し入れる。
中には、今日買っておかねばならない品物のリストが書かれた、小さな紙片が折り畳まれていた。
僕はそれを確認するために、片手で
紙片を広げていくと、中のリストにじっくりと目を通す。
「どうしようかな、シャンプーとリンス、まだ少しあるけど、買っておこうか……。」
リストには、シャンプーとリンスの文字は無かった。
予定外の出費が増えてしまったようで、僕は舌打ちすると頭を掻く。
「ま、仕方ないか。いつかは無くなるものだし。」
そうして再び自転車に跨ってペダルをゆっくりと漕ぎ出すと、風は何時の間にか緩い向かい風へと変わっていた。

僕の名前は春峰。
読み方が少し変わっていて、そう書いてハルと読むのだ。
当て字だから、初対面の人間にはなかなかきちんと読んでもらえない。
勤務先の工場でも、新人研修や懇親会の際には、驚かれる事が多い。
僕は、この春で社会人三年目になる作業員。
職場では、アンチメタボキャンペーンを大々的にやっていて、太った僕は少しばかり肩身が狭い。
ダイエットを試みた事もあるが、遺伝的に太り易い体質のようで、結局挫折してしまった。
けれども僕は、内臓脂肪型の肥満では無いから、これでも成人病検査では正常値を叩き出す。
『こんな見た目だけど、一応は健康体なんだよなぁ……。』
僕は、日頃会社で口に出来ない小さな不満を、心の中で呟いていた。

気が付くと、踏切はすぐそこまで迫っていた。
僕は、誰にも気付かれないように小さくそっと溜め息を吐くと、ペダルを漕ぐ力を強める。
すると、上着代わりに羽織ったシャツの内側に風が巻き込んで、音を立てる。
吹き付ける向かい風のせいで息が少し苦しくて、僕は呼吸のピッチを早める。

そういえば、入院中の父の容体が悪化したらしい。
先週末に、母からの手紙で知った。
僕は内心では、複雑な気持ちだった。
父を畏れ避ける気持ちと、父が居なくなれば自由になれるという歪んだ欲望、そして父への復讐をこの手で何としてでも果たしたいという狂気とが心の中でぶつかり合って、激しい嵐を巻き起こしていた。
長い間、父とは軋轢があったのだ。

それは、中学三年の春だった。
僕は、同級生の男の子に恋をする。
初恋だった。
影を宿した、憂いに満ちた瞳が切なくて、綺麗だった。
吸い込まれるようなその瞳が忘れられなくて、胸が焼ける様に痛かった。
あれだけ食欲の旺盛だった自分が、食事に興味を無くしていった。
いつでも、誰にも心を開こうとしなかったその男の子の心の支えになりたくて、僕は溢れ出す想いを伝える覚悟を決める。
告白の日、雲一つ無い澄んだ青空はちっぽけな僕を見下ろしているようで、僕は何処か心細かった。
待ち合わせ場所が近付くにつれて、締め付けられるような胸の痛みが酷くなっていく。
そして、満開の桜の木の下で。
僕たちは向かい合った。
男の子は、何時に無く切ない眼差しを僕に送った。
今にも壊れてしまいそうな、硝子細工のような瞳が愛おしくて、僕の意識は遠くなる。
だから、息を吸った。
深く深く。
その間にも、一歩、また一歩と二人を隔てる距離を縮めて、僕は叫ぶ。
「僕は、君が好きだ!だから、いつでも傍に居るから、約束するから、僕に付いてきて欲しい!」
男の子は、何も言わずにただ、僕にしがみ付いた。
その手の力は強く、想いが直に伝わる。
僕は、胸の中で小動物のように震え続けるその子の事が愛おしくて愛おしくて、いつまでもいつまでも、優しく強く、抱き締め続けるのだった。
その時から僕たちは交際を始めた。
告白の日の夜、男の子の部屋で僕たちは、生まれて初めての経験をする。
息の掛かる距離感で二人並んで、ベッドの淵で掌を重ねて。
そうして、口付けを交わす。
初めての、柔らかで温かな感触が、僕の脳を狂わせる。
沸騰した意識は、もう後戻り出来ないところまで来ていた。
気の遠くなるような興奮の中、僕は男の子のシャツのボタンにそっと手を掛ける。
男の子は、小刻みに震えながら僕の身体に必死にしがみ付いていた。
一枚、また一枚……。
夢中で全身を覆っていた衣服を脱がせていると、男の子が何かを漏らす様に呟くので、僕はその愛しい顔をそっと覗き込む。
男の子は、限りなく透明で、切なく哀しい目をしていた。
僕の胸がグサリと音を立てる。
男の子は、既に下着一枚を纏うのみだった。
急に不安になった僕は、行き場を失くした感情を持て余す。
「……いよ。」
男の子が、再び呟く。
僕は男の子の傍で固まったまま、その口が再び開かれるのを、固唾を呑んで見守った。
「……いいよ。僕、春峰のものになりたい。ただ……僕の裸を見ても、嫌いにならないでね。約束だよ、約束だよ、お願いだから……。」
そこまで言い終えて、男の子は僕に再び抱き付いた。
まるで自らの心の内に渦巻く負い目と不安を、掻き消すように……。
男の子は、僕の胸の中で、震えるように泣いていた。
その大きくて温かな背中には、ケロイド状になった火傷の後が痛々しく広がる。
それはまるで、神が目の前の天使に与えた、悲しく辛い試練のようだった。
この子は今まで、どれだけの哀しみをその頼りない背中に背負い込んできたのだろうか?
それはこの時の僕には、知る由も無かった。
目の前に有るのは、見る者を試す踏み絵のような現実だけ。
それでも。
それでも僕は、その試練の跡さえもが愛おしかった。
こんなにも素敵な天使と巡り合えた事が、心の底から嬉しかった。
だから僕は、力の限り抱き締めた。
壊れるくらいに、抱き締めた。
そして、叫んだ。
「僕、君の顔も声も裸も、火傷の跡も、全部全部大好きだ!だから付いておいで!そんな悲しい目で僕を見ないで、さ!」
渾身の想いだった。
男の子は、声を上げて泣き崩れた。
そんな男の子の頼りない大きな身体を、僕は包み込むように支えてやる。
そして、少しずつ少しずつ、優しくそっと、その身体に指を這わせていった。
男の子の泣き声は、次第に色を帯び始め、それが僕の意識をますます沸騰させる。
遂に僕は、その気の遠くなるような肉体を覆っていた最後の布切れに、震える手を掛けた。
「いい?いくよ。」
僕は男の子に合図を送る。
「いいよ、春峰ならいいよ、全部見せるよ……。」
男の子は僕の肩にしなだれかかりながら、嗚咽混じりの本音を漏らす。
だから僕は、その布切れを一気に引き摺り下ろすと、必死に上を向く愛らしいそれを、優しくそっと掌で包み込んだ。
いつまでもこうしていたかった。
けれどもそれでは、僕たちは結ばれた事にはならない。
だから僕は男の子を横に寝かせると、その全身を愛撫して、いよいよ貫く準備を整える。
これから男の子は僕の、僕だけのものになるのだ。
僕は躊躇う事はしない。
だってそれはきっと、男の子にとってもちゃんと誇りとなってくれるだろうから。
準備が整うと、僕はゆっくりと、僕自身を男の子の温かさの中に沈み込ませる。
こうして僕たちは一つになって、結ばれた。
あんなに悲しい目をしていた男の子が僕の下で、我を忘れたように夢中になってくれるのが、僕は嬉しかった。
男の子が白濁した液体を撒き散らした時、その姿を見守っていた僕は、泣きたくなる程に幸せだった。
僕には、僕たちには、ちゃんと生まれてきた意味があったんだ……。

それからの僕たちは、片時も離れず一緒だった。
いつでも手を取り合って、支え合って、生まれてきた意味を確かめ合っていた。
けれども、そんな幸せは長くは続かなかった。
僕たちの関係が、父に知られてしまったのだ。
それからの展開は、非情な程に早かった。
父はすぐさま、僕の転校の手続きを取ったのだ。
無力な僕たちには、なす術が無かった。
別れの日、男の子の目は出逢った時以上に哀しみを孕んでいて、見ていられなかった。
男の子の背中は小刻みに震え、その存在は今にも崩れ落ちそうだった。
そんな男の子に僕は、声を掛ける事すらも出来なかった。
もう逢えない事が分かっていたから、もう何の力にも支えにもなってやれない事が分かっていたから、だから僕は何も言えなかった。
代わりに僕は抱き締めた。
せめて最後の時を無駄にしたくなくて、その温もりと柔らかな感触を深く深く心に刻み込みたくて、僕は男の子を狂ったように抱き締める。
けれども、運命はどこまでも僕たちには冷たかった。
僕たちの後を付けていた父が、その間に割って入ったのだ。
その瞬間、男の子の断末魔の叫びが辺りに響き渡る。
目の前で、男の子が壊れていく。
僕は父を許せなかった。
僕は父に体当たりをして、その意志を、思いを、哀しみを力一杯ぶつける。
しかし父は、そんな僕には目もくれずに、男の子の頬を殴打した。
平手で、何度も、何度も。
そして叫んだ。
「お前が居るから、ウチの子はおかしくなったんだ!お前のせいだ!」
父は、父という名の鬼は、あんなに可愛かった天使のような男の子の息の根を、こうして止めたのだった。
男の子が自殺を遂げたのは、それからすぐの事だ。
僕は報せを受けても、葬儀に参列する事すら許されなかった。
お別れさえ、きちんと出来なかった。
この時から僕の心の中には、父への激しい憎悪の念が渦巻く事になる。
結局それから今まで僕は、恋愛もSEXも一度もした事が無かった。
僕の心の中には男の子が生き続けていたから、それは当然だった。
僕はいつでも、心の中に棲む男の子の幻を抱き締める事で、己を慰め励ましてきた。
今でもそうだ。
だから僕はあれからというもの、父に対しては頑なに心を閉ざしてきた。
中学を卒業してすぐに家出同然で実家を飛び出してからというもの、僕はなりふり構わず必死に働いてきた。
そうしていた方が軋む様な心の痛みを忘れていられるから、僕は仕事に己の全てを捧げてきた。
中卒で働く僕に、初めは世間の風はとても冷たかったけれど、汗を流して一生懸命に頑張る内に、応援する人が現れてくれる様になった。
工場長もその一人だ。
お陰で、父なんかいなくても、僕はちゃんと生きていける。
だから僕は、あの子を、僕だけの天使を、躊躇さえもせずに殺してしまったあの父を、父という名の鬼を、何があっても決して許す事はない。

……踏切に辿り着いた僕は、自転車を停めると深い溜め息を吐く。
風が冷たくなっていた。
見上げると、何時の間にか空模様は涙混じりの僕の心のようだった。
「降るかな……。」
空を覆い尽くす分厚い雲の様に行き詰まった気分の中で、僕は相変わらず空を見上げながら静かに溜め息を漏らす。
その時だった。
携帯が、母からの着信を知らせる。
実は家を出てからも、父には内緒で母にだけは、携帯の番号を教えてあった。
ただ、その時から今までで母から連絡があったのは、父の入院と容体の悪化を伝える、一度きりだったから……。
僕の心の中で、醜い嵐が瞬時に巻き起こる。
もしかしたら父が死んでくれるかもしれない、そんな期待は確かにあった。
息を吸い、ひと呼吸置いて着信ボタンに手を掛ける。
意を決してそれを押し込むと、電話口に出たのはやはり、母だった。
「母さん、どうしたの?」
自然と、言葉尻に期待が混じる。
それを知ってか知らずか、母は静かな口調で、事実だけを告げた。
父は、危篤だった。
もう長くは無い。
最期の時が迫っている僕は、選択を迫られていた。
正直、行かなくても良かった。
けれども、あの人が亡くなってしまう前にせめて、一糸報いたかった。
男の子の命の重みを、思い知らせたかった。
だから僕は、父の元に駆け付ける道を選ぶ事にした。
それは決して、父を許したいからでは無かった……。

病院で、父は点滴を受けながら静かに横たわっていた。
朦朧としてはいるが、まだ意識はある。
ベッドサイドには心電計が設置され、父がもう長くは無い事を、その場に居る全ての人間に伝える。
僕はベッドに近付くと、一言だけ父に吐き捨てた。
「僕はあなたを、死ぬまで許さない……。」
その瞬間、病で気弱になっていた父の目に涙が零れた。
父は何度も「すまない、すまない」と繰り返して、僕の許しを乞おうとする。
それが僕には、許せなかった。
正直、気持ち悪かった。
だから僕は、父の顔を殴打した。
平手で、渾身の力を込めて、あの日父があの子にした様に、何度も、何度も。
父が呻く。
母と叔父が僕を押さえに掛かる。
それでも僕は、止めなかった。
「畜生!」
邪魔な人間たちを振り解きながら僕が叫んだその瞬間に、心停止の警告音が鳴り響いた。
父がようやく、亡くなった。

その夜……。
アパートに帰った僕は、独りで酒を呷っていた。
「畜生、畜生。」
自然と、言葉尻に嗚咽が混じる。
その時だった。
枕元に、父の幽霊が現れたのだ。
「何しにきた!」
僕は叫ぶ。
力を込めて、一歩踏み出す。
そんな僕に父は一言だけこう告げた。
「お前に、プレゼントがある。大事に、するんだぞ……。」
その瞬間、父の幽霊は姿を消した。
いや、この世界から消滅したのだ。
正直、父の言葉の意味が分からなかったが、それでも僕は胸のすく思いだった。
あの父が、居なくなったのだ。
それも、完全に消滅したのだ。
僕は、嬉しかった。
煎餅布団に身を横たえた僕は、己の身体を抱き締めて震えるように泣きながら、丸まって眠りについた。

寝息が、少し耳についた。
何処か愛おしいその響きに誘われて浮上していく己の意識を、一方では疎ましくも思いながら、僕は鉛のように重たい身体を起こす。
僕は驚いた。
そこには、あの子が、大人になったあの子が確かに、横たわっていたのだ。
一糸纏わぬ生まれたての姿で、安らかな寝息を立てて。
堪らずに僕は叫んだ。
「たーくん!たーくん!」
その丸々とした柔らかで温かな身体に手を掛けて、何度も何度も揺さぶって、涙が、鼻水が流れ出すのも構わずに、夢中でひたすら叫んで。
あの子は、たーくんは目をぱちくりと瞬かせると、澄み切った硝子のような瞳を向けて、僕に欠伸混じりの声を漏らす。
「春峰、おはよ……。また逢えたね、良かった……。」
幻じゃない。夢じゃない。
あの子は確かに、あの子だった。
だってその大きな背中には、あの日と同じ様に、それさえもこの上なく愛おしい火傷の跡が、しっかりと広がっていたのだから。
「たーくん、たーくん……うわあぁーっ!」
僕は堪らずに抱き締めた。
二度と離れ離れにならなくて済むように、力の限り、壊れるくらいに。
大人になったあの子の愛らしい肉体が、艶やかな色香が、とにかく愛おしくて、僕は両腕に力を込めながら、狂ったように泣き叫ぶ。
「春峰、ちょっと苦しいよ。大丈夫だよ、もう何処にも行かないからさ。」
あの子は、笑った。
天使の様に、笑った。
だから僕はキスをした。
気持ちが抑えられない。
力の加減が出来ない。
震えが止まらない。
目の前のあの子が、愛おしくて仕方ない。
僕は気が付くと、あんなに憎んでいた父を許し、その真心に感謝さえしていた。
父は、青い鳥に願う事で、贖罪をしたのだ。
僕は、相変わらずくすぐったそうに笑うあの子を、僕だけの天使を、力一杯精一杯抱き締めながら、この世界に生まれてきた喜びを、涙に濡れる心でしっかりと、何度も何度も繰り返し噛み締めるのだった。
窓の外では、目にも鮮やかな青い鳥たちが、僕たちの再逢を祝福するかのように、澄み切った囀りを空中に響き渡らせながら、いつまでもいつまでも舞い続けていた。
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