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三毛猫と白猫 [其ノ壱]

列車がトンネルへと滑り込んでゆく。
その少し前まで眠っていた僕は、車窓からの懐かしい景色の大部分を、見逃してしまっていた。
ただ、故郷は僕にとっては辛い思い出の方が多い場所でもあったから、或いはそれで良かったのかもしれないとも思い、独り溜め息を吐いた。
長いトンネルを列車が駆け抜ける間僕は、故郷に住む叶わぬ恋の相手の一挙手一投足を思い出しては、自然と込み上げる涙をシャツの袖で拭う。
今年に入ってその相手が結婚した事を知り、最早故郷に何の未練も無くなった僕は、実家から義絶なる言葉を頂いた上で、上京の道を選んだ。
親戚の経営する会社での仕事も、何もかも捨てて。
ここまで、長かった。
思えば無駄に遠回りし、時間をドブに捨てて来た。
今年でもう25。
それでも、今からでも遅くはないと思えるのは、「東京」という街の響きが格別に煌めいて聞こえるせいに違いない。
それは魔法のように僕を前へと突き動かしてきた、遠い憧れだったのだ。

1993年の梅雨時に、僕は農家の長男としてこの世に生を受けた。
幼い頃、僕は両親から可愛がられていたらしい。
その記憶が抜け落ちているのは、それが物心付く前の話だからだ。
僕は、五歳になったばかりの頃のある事件によって、父親から執拗に虐待を受けるようになり、母親からもきつく当たられるようになっていった。
そのため生まれてこの方、両親の優しい顔が自分へと向けられた事など、一度も無かったような気さえするのだ。

事件が起こったのは、忘れもしない暑い夏の日。
その日ぼくは、仲の良い友達を家に呼んで、一緒に遊んでいた。
夜、その友達と夕食を共に食べる事になった僕に、不意に父親が不思議そうに尋ねてきた。
確か「お前、何でそんなにこの男の子と仲が良いんだ」、そんな風に聞かれたのだと思う。
僕はただ、片時も離れずにその子の側に居たかった。
それだけだった。
僕はその子の事をゆうちゃんと呼んでいたから、無邪気にこう答えた。
「僕、ゆうちゃんと結婚したい!ゆうちゃんのお嫁さんになる!」
その瞬間、場の空気が凍り付いたのを、今でも覚えている。
そして、父親に殴られた。
それが初めての事だった。
そして、それだけならまだしも、父親は大好きだったゆうちゃんにまで拳を振り下ろした。
それも、泣きながら止めに入った僕を突き飛ばして。
ゆうちゃんはその日独り泣きながら帰り、その翌日僕とゆうちゃんは絶交となった。
それから、父親は躾と称して、僕に度々暴行を振るうようになった。
母親は見て見ぬ振り。
騒げば余計に怒られるから、僕は黙って涙を垂れ流しながら、歯を食いしばるより他無かった。
少しでもなよなよした振る舞いをすれば父親の拳が飛んで来るから、僕は男らしい振る舞いを常に心掛けるようになった。
ゆうちゃんと絶交してから丁度一年後の夏には、両親の間に次男が産まれ、僕には弟が出来た。
それから両親は、弟ばかりを可愛がった。
幼い僕は淋しかったが、指を咥えて見ているより他無かったから、次第に諦めも付いた。
ただ、嫉妬心からくる怒りのせいで、僕の方から弟を可愛がる事は一切無かったから、弟とはずっと疎遠だった。

どうやら僕は恋愛体質らしく、それからも度々恋に堕ちた。
しかし、その相手は皆同性の子ばかり。
叶うはずも許されるはずもなかったから、最初から諦める癖が段々と付いていった。
好きな子が目の前に居ても、ついつっけんどんな振る舞いをしてしまう自分。
そうしてその子から嫌われて、夜布団の中で独り泣きじゃくる自分。
そんな事の繰り返し。
情けなくて悔しくて、声にもならない思いが心の底で渦巻く、そんな暗い少年時代を僕はずっと過ごしていた。

高校に入ると、僕は中学時代に始めた柔道に没頭するようになる。
父親は相変わらず僕には厳しく、母親もとても冷たかったが、武道に打ち込んでいる事だけは褒めてくれた。
だから益々柔道に没頭する訳だが、その舞台、高校の柔道部で僕は電撃的な出会いを果たす。
相手は一年先輩の、柔道部のエース。
無心に打ち込む姿が認められて、僕は先輩から柔道の手ほどきを受ける事が出来るようになった。
その時間、僕は幸せだった。
何故なら、僕は先輩に恋していたから。
想いを悟られないようにと、敢えて冷たい態度を取る事も度々だったが、そんな僕にも先輩は優しかった。
先輩は、一本気に柔道に打ち込む僕を買ってくれていた。
そんな先輩に早く一人前として認められたくて、僕は毎日遅くまで練習を欠かさなかった。
その甲斐あってか、僕は入部一年後には柔道部の新たなエースとなっていた。
元々、通っていた高校の柔道部はそこまでの強豪では無かったが、僕と先輩の力もあってか、その年の地区大会では団体戦・個人戦ともに好成績を残す事が出来た。
特に団体戦では決勝まで勝ち進み、あわよくば全国大会という所まで行ったのだが、最後、惜しくも先輩が敗れてしまい、涙を飲んだ。
その後、先輩は地元の大学への進学の為に柔道部を退部、僕と先輩との関係もそこで終止符を打ったのだが、先輩の色んな表情が目に焼き付いて離れず、僕を苦しめた。
その後の僕は、柔道では以前よりも精彩を欠くようになった。
それからもだらだらと続けてはいたが、三年になって遂に柔道部を退部。
僕は授業の成績の方は先輩のようには良くなかったから、進学は諦め、コネを頼って親戚の経営する会社から内定をもらい、就職する事になった。

就職してからは、母親が熱心に見合い話を持ってくるようになった。
両親の口癖は「我が家にはホモは要らない」だったから、一応はその度にお見合いを受けてはみるのだが、残念な事に心が受け付けず、こちらから断ってばかりだった。
その度に、このままでは孫の顔も見せてやれないと嘆いてはみるのだが、どうにもならない事なのだと分かっているだけに、口から出るのはただ溜め息ばかりだった。
母親は、そんな風にして僕が見合い話を断る度に、懇々と説教を垂れる。
僕を父親の暴力から助けてくれなかった母親の、そんな姿を横目に見ながら、昔からの密かな憧れだった東京への想いは、急速に募っていった。

そして、父親を前にしての告白。
仕事を辞めて東京に移り住みたい事、どうあがいても結婚など到底出来そうにない事を、赤裸々に。
「そんなに東京に行きたいのなら、勝手にしろ!もう二度とこの家の敷居はまたがせんから、覚えておけ!」
「あぁ、勝手にするよ!」
「出て行け、ろくでなし!貴様の事は義絶する!」
「どうぞ、お元気で!」
最後はまさに、売り言葉に買い言葉だった。
そうして、小さなボストンバッグに最低限の手荷物を慌てて詰め込んで、僕は故郷を後にした。
「親に後ろ足で砂を掛けるような事をしておいて、自分だけ幸せになれると思うなよー!」
母親の絶叫。
涙声だった。
それでも僕は、振り返らなかった。
会社に辞表を叩き付け、役所で転出証明書についてレクチャーを受けるとその足で駅へと向かう。
それから新幹線の自由席に飛び乗って、今こうしてここに居る。

何時の間にか眠ってしまっていたようで、気が付くとトンネルなどとうの昔に抜け出ており、列車は、東京駅のホームへと辿り着こうとしていた。
長い筈の旅路も、終わってみるとあっという間だった。
そして列車が、ホームへと滑り込む。

生まれて初めての東京。
この先どんな形で流転を繰り返そうとも、何としてでも東京にはしがみ付いていようと、僕は密かに心に誓った。

それから少しして、僕は新宿駅の東口前に立っていた。
ひとまず今晩は当ても無いので、この街で一夜を過ごす算段をしていた。
お金に関しては、こうした事態を予測していたお陰で貯金が少しあったし、いずれは失業保険も出るだろうから当面の間は問題は無かった。
今晩はとにかく休みたい。
僕は、その場で携帯を使って調べたビジネスホテルに連絡を入れ、空き状況を確認してからホテルに直行した。
このような展開になる事はあらかじめ予想出来ていたので、今日は月曜の夜、平日だ。
それだけに空きがあり、まずは助かった。
明日も平日だから、万が一の際には宿は取れるだろう。
ホテルに着くなりシャワーを浴びると、様々な心配事はとりあえず棚に上げて、僕はベッドへと倒れ込んだ。
冷静になって考えてみると、就職活動には住所が必要だ。
マンスリーマンションは値段が高い。
だが、全くあてがない訳でもなかった。
山谷。つまり、ドヤである。
保証人も要らず、審査も余計な手続きもない。
一月分の宿代には光熱費が含まれ、テレビや布団といった最低限の設備は整っている。
しかも共同ながらお風呂に、冷暖房までも完備だ。
『ハローワークに行くにも住所位はないとなぁ。明日、ドヤを何軒かあたってみるか。』
翌朝、ビジネスホテルをチェックアウトした僕は、公園のベンチでスマホを弄りながら時間を潰していた。
『物流なんか、どうだろうか。これでも体力には自信があるし。まずは非正規だろうと、職を見つけるのが先だな。大型の免許もフォークリフトの免許も持っているから、何とかなるだろう。』
時間をしばらくの間潰しながら先の見通しを立てた僕は、牛丼屋で昼食を頬張った後、その足で山谷に向かった。
途中、電柱に張り紙がしてあるのが目に留まった。
「冷暖房・TV完備 光熱費込み 宿代30日間60,000円 白猫旅館」
これは安い。
張り紙に記載の住所を確認すると、空きがあるかどうかを尋ねるために、早速その場所へと向かう。
『あった、ここだ。』
そこに佇んでいいたのは、古びた木造の日本家屋。
小さなポーチを抜けて引き戸を開けると、すぐ脇に番台があった。
「いらっしゃい、何でしょう?」
入るとすぐに、番頭さんに声を掛けられた。
「しばらく住める所を探しているんですけど、空きはありますかね。」
すると、間髪を入れずに。
「ありますよ、ご覧になっていかれます?」
渡りに船だ。
「はい、ぜひ!よろしくお願いいたします。」
で、部屋はというと。
古いもののこざっぱりとしていて、好感度大。
広さは二畳半程はあろうか。
人一人が暮らしてゆくには十分な空間だ。
「どうですかね?」
と番頭さんが聞いてくるので、「バッチリです!」と答えておいた。
その後下ろしておいた現金の中から一カ月の宿代として、前払いで六万円を渡して、まずは当面の住処を確保。
『旅行者向けの宿ではなさそうだな。』
しかし驚いたのは、コイン式のガスコンロの存在だ。
それまで見た事がなかっただけに、少々面食らった。
コインを入れると一定時間だけ火がつく仕組みなのであるが、不便だし、親の方針で長い間自炊も禁止されていたので、料理をそもそも作れない。
親曰く、料理は女の人の仕事なんだそうな。
何じゃそりゃ、今時。

『当面は食事は牛丼屋だな。』
慣れていたからかため息も出なかったが、普通のアパートで一人暮らしを始めたいという願望も心の片隅にはない訳ではなかったので、それがいつになるのかを考えると、少しばかり憂鬱になるのであった。
モタモタもしていられないのだが、引っ越し時に転居先が決まっていなかったため、転出証明書はここに住むようになってからすぐに郵送で請求したので、届くまでの何日かは棒に振る事になった。
とはいえ何もしないというのも問題だ。
そういえば着の身着のままに近い感じ、手荷物一つで上京してきたのだが、就職活動を見据えてスーツを着て上京してきたのは正解だった。
しかしスーツで眠る訳にもいかないので、UNIQL◯でルームウェアやカジュアルウェア、それに下着を少々買う事に。
何だかんだで、結構遣った。
痛手だが、仕方ない。
ここのは激安ではないが、物は良いので元は取れるだろう。
ブリーフケースも買った。
翌日からの空いた時間は、書店の資格書コーナーで、就職に役に立ちそうな資格の本を物色。
で、何日かして。
転出証明書が手元に到着。
早速区役所に出向いて転出証明書と転入届を合わせて提出せねば。
区役所に着いて各種手続きを済ませると、僕はその足でハローワークへと向かった。
ここでも必要事項を記入して、窓口に提出。
自己都合退職だったので貰えるのは随分先とはいえ、これをちゃんとしていないと失業保険も下りない。
求人ももちろんチェックした。
体力だけには自信があった。
ただゆるく太っているだけに見られがちではあるが、実際の所は筋肉もそこそこあるのだ。
で、それを踏まえて。
それらしい求人は幾つかあった。
中でも目に留まったのは、「要大型免・フォークリフト経験者大歓迎!発送業務全般。正社員待遇。給与月二十万円・昇給有り」というもの。
聞いた事のない社名だったので、中小だろう。
まずは一発目、駄目元で応募してみる事に。
受かるといいな。
帰りがけに近所の大きめのスーパーで履歴書を書くための小さな折りたたみ式テーブルも買って、家路に着いた。
一旦ドヤに戻って荷物を置いた後は、食事へ。
近所の松●で牛丼を喰らう。
代わり映えのしない味ではあるが、十分に美味しいし、今はこれが最高に有難い。
店を出るとコンビニに寄って、ソフトドリンクと履歴書などを買う。
これから履歴書を書くのだが、こういう時、ソフトドリンクがないと集中出来ないタチなのだ。
我ながら厄介な性分である。
帰って、部屋を整理すると、早速テーブルを使って履歴書を記入する。
ソフトドリンクのお陰か、存外スムーズに書けた。
こうなると邪魔なので、テーブルは畳んで部屋の隅に立てかけて置いておく。
疲れたので布団の上でしばしボーッとしていると、窓をコツコツと叩く音が聞こえた。
開けてみると、メスの野良の三毛猫が窓の外の桟のような所にちょこんと座っていた。
そういえばここの番頭さんが、うちの宿の名前の由来は、ここを建てる前から居座っていた白猫から来ているんだと話していた。
それにしても三毛猫、オスだったら良かったのに、などと下心丸出しの自分。
で、である。
ここからが驚きだったのだが、この猫、喋るのだ。
「こんにちは、私はミミ。メスの三毛猫。声、聞こえるかしら?」
「あ、あ、あぁ。聞こえる。でも何故だ?幻聴?」
最初は信じられなくて、腰を抜かしそうになりながら、頭がおかしくなってしまったのではないかと心配になった。のだが。
「あら、あなたは大丈夫。ただ単に、時々聞こえる人がいるだけよ。この能力はある日突然現れるから、今まで気付かないで暮らしていたとしても、不思議ではないわね。それに、話せない猫もいるのよ。」
という訳なので、僕は至って正常なのだった。
「あなた、お名前は?こうして知り合ったのも何かの縁だし、小さな願い事を三つだけ、叶えてあげる。一億円欲しいとか、そういうのはダメね。」
なるほど、小さな願い事、ね。どの位までならOKなのかな。振ってみるか、話を。
「名前は白田耕平。願い事だけどまずは、今度面接を受ける会社に無事に合格出来ますように、って事。それから、仕事でもプライベートでも、とにかく人間関係がスムーズにいきますようにって事。で、最後は、素敵な彼氏と出会えますように、って事。これ全部、叶えてもらえるのかな?」
さっきからタメ口なのはご愛嬌。
「分かったわ、それ位ならお茶の子さいさいよ。期待して待っていて頂戴。じゃ、私予定があるから行くわね。また遊びに来るわ。」
そう言うとミミは塀によじ登って去っていった。
さて、今の話、本当なのだろうか。
『まぁ、後は一生懸命やるだけだよな、なぁミミ。』
いなくなったミミに心の中で呼びかける。
すると『その通りよ』という心の声が聞こえてきて、何だか不思議なのだった。
その夜。携帯のアラームを早めの時間にセットする。
明日、いよいよ一発目の面接があるのだ。
こんな時、いつもならばなかなか寝付けなくて困るのだけれど、この晩はぐっすりと眠る事が出来た。
朝。爽やかな目覚め。
寝起きが悪い僕としては、大変珍しい。
昨日の夜にコンビニで買ってきたバターロールを一袋平らげると、コップを持って共同の台所へ。
水を汲んで、それを飲み干す。
次にタオルと歯ブラシ、それに歯磨き粉を持って洗面台へ。
部屋でスーツに着替え、一通り身支度を整えると、先日買っておいたブリーフケースに職務経歴書と履歴書を入れて準備万端。
おっと、腕時計を忘れていた。

面接、結果は合格だった。
しかも有り得ない事に、即採用。
明日から早速研修期間が始まるから、失業保険は貰わずに済みそうだ。
面接では社長が応対してくれたのだが、何しろやる気を買ってくれた。
確かにやる気はあったが、社長は終始上機嫌。
最後の方では雑談に花が咲いていた。
これもあの猫のお陰だろうか。
帰り道、頭の中で『ありがとう、ミミ』と呼びかけてみたら、確かにはっきりと、『いいのよ。明日からも頑張って!』との声が聞こえた。
『繋がってるんだな、ミミと。』
そんな思いが僕の足取りを軽くさせた。

夜。いつもよりも早くに眠気が訪れる。
寝付きは悪い方なので、これはチャンスと思い、部屋の小さなテレビを消すと、電気を消してそのまま横になった。
携帯のアラームをセットして、就寝。
翌朝、面接の際に貸与されていた作業服を着て出社すると、ちょうどばったり社長と出くわした。
「おぉ、おはよう白田くん。作業服、似合うねぇ。実は来ないんじゃないかと心配していたんだよ。ほらウチ、給料安いじゃない。まぁ仕事内容は前の職場と大差ないから、安全にだけは気を付けて、気軽にやってくれればいいよ。じゃ、よろしく!」
手を振られたので、お辞儀で返す。
フランクな社長、いい感じだ。
「よう、白田。これから、よろしくな。」
そう話し掛けてくれたのは、主任。
直接の上司だから、これから色々とお世話になるだろう。
「あら白田くんね、今日から入った。ぬいぐるみみたいね、男の人なのに。よろしく〜!」
会社のおばちゃんたち。
この人たちに嫌われてはいけない。
総じて皆気さくでフレンドリー。
これならどうにかやってゆけそうだ。
仕事の内容は、フォークリフトでトラックにパレットを積み込み、トラックを荷降ろし場まで運転してパレットを下ろし、所定の場所に配置する、といったもの。
忙しいが、訳のない仕事でもある。
これはミミに感謝かな。
そう思っていると、『あら、嬉しいわ。』とのミミの声が心に届いた。
『ありがとう。これからもよろしく。』と念じて、仕事に集中!

さて、週末の休みの夜。
僕は生まれて初めて二丁目に飲みに来ていた。
正直、期待はあった。
お茶の子さいさいという位だからね、期待しない方がおかしいというもの。
一軒目のお店は雰囲気が合わなかったので、二軒目にチェンジ。
ここはいい。
で、ボトルキープした鏡月の水割りをチビチビと飲んでいると、隣に恰幅のいい男性が腰を掛けた。
わ、いい感じ。
そう思って、ドキドキ、ソワソワ、モジモジしていると、その男性、何と僕に声を掛けてくれた。
「ねぇ君、名前は何て言うの?俺は谷崎史郎。もしよかったら、よろしくね。」
もうね、頭でお湯が沸きそう。
でも、ここで怯んでいては!
そう思った僕は、フルネームと好意を持っている事を、素直に伝えた。
「良かったらこれからウチに来ない?ピザでも取って一緒に食べよう。」
となってまぁ、これはもう絵に描いたようなトントン拍子の展開。
またもやミミに感謝。
ドヤには門限があり、これで今日は戻れない事が確実となった。
まぁ、たまにはいいか、そう思う僕なのであった。

それから三時間後。
ピザを食べ終えた僕と谷崎さんは、既に事を済ませて、今は裸でダブルベッドの上に寝転がっていた。
「ねぇ白田くん、君は今何処に住んでいるの?」
これには、嘘をつく事でもないと思い、正直に答える。
「山谷のドヤ。意外と住みいいよ。」
ここで谷崎さんの瞳が曇ったのを、僕は見逃さなかった。
でも、あれ?何でだろ?
と思っていると……。
谷崎さん、とんでもない事を言い出した。
さりげなく、だけど。
「良かったらウチに住んだら?ここは分譲でこの部屋は俺の持ち物だから何の問題もないよ。急ぐ事でもないから、ま、ゆっくり考えてよ。」
夢のような展開。
まさに男版シンデレラ。
まぁここはごく普通のマンションではあるけれども。
密かに決意は固まってはいたが、ドヤには入ったばかりだったので、キリのいい所までは住んでから出ていこうと思っていた。
なので、まずは。
「谷崎さん、ありがとう!気持ち、すっごく嬉しいよ!後で返事は必ずするから、それまで待ってて!」
となる。
とまぁ、一夜を明かしたぼくたちは、翌日曜日の夕方まで谷崎さんの部屋で一緒に過ごして、それから一旦別れた。
何をしたという程の事もなかったのだけれど、それでも楽しかった。

ドヤに帰って部屋に入ると、窓辺にミミが居た。
「遅かったのね、待っていたのよ。」
「ミミ、どうしたの?」
ぼくの問いかけに、ミミは訥々と話し始める。
「私ね、一部の人間とはお話出来るでしょ。それでね、願い事を聞いてあげる代わりに車に乗せてってお願いをして、長距離ドライバーや配送ドライバーなんかの方々に全国津々浦々、連れていってもらうのよ。で、行く先々で願い事を聞いて回る訳。そんな形であなたのお母さんとも知り合って。頑固な人だけど、あなたを想って泣いていたのよ、彼女。その気持ちはどうか分かってあげて。それでね、あなたへの贈り物があるの。胴に結わい付けてある背中の巾着袋、取ってくれる?中に大事な物が入っているから。」
そこまで言い終えるとミミはため息をついた。
僕は慌てて巾着袋をミミの胴から取り外すと、中身を取り出す。
次の瞬間、僕は固まった。
入っていたのは、ピン札で二百万円。
決して裕福とは言えない実家としては、大金だったはずだ。
「母ちゃん、ごめん、僕、ろくでなしだ……。」
涙が溢れて止まらない。
札束には二つ折りにされたメモが同封されていた。
開く。間違いなく母ちゃんの字だ。
「頑張れ!」
たったそれだけ。
たったそれだけで、僕の涙腺をいよいよ崩壊させるのだった。

親不孝でごめん、父ちゃん、母ちゃん。
僕、自分に正直に生きるよ。
いつか昔の事を笑って話せるようになるといいね。
それまで、どうか元気で!

翌朝。通勤の時刻が迫る。
地下鉄に揺られて会社へ。
この時間、いつもギュウギュウなんだな。
人を何だと思っているのか。
少し腹立たしい。
でも、出社すると、みんなが声を掛けてくれるから、平気なんだ。
まだ研修期間だけれど、社長は正社員での登用を確約してくれた。
少しずつ、東京での僕の居場所が増えてゆく。
これからも、きっとそうだ。
僕の憧れの東京ライフは、まだ始まったばかりだ。
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