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ぼくは、もっと、つよくなる

またここへ来てしまった
今でも、ズキズキと胸が痛む
「寂しくない?お腹空いてるでしょ」
墓石の掃除を手早く済ませたぼくは、花立てに水を入れながら、安らかに眠る彼に語り掛ける
「ほら、大好きだったケーキ、持ってきたよ」
ぼくは半紙の上にショートケーキを一つずつ並べていくと、隣りにジュースのボトルを置いた
「しょうだったら、これくらいあっという間だね」
香炉に線香を立てながら、ぼくは笑顔を見せる

いつの頃からか、彼のお墓の前では、笑顔でいようと決めていた
その方が、彼もきっと喜ぶに違いない、そう思ったからだ
もちろん、今でも悲しくて苦しくて、本当は泣きたいくらいだ
それでも、彼を困らせないためにもここで泣いちゃいけない、そう思った

墓参りを終えると、お供え物を片付けて、ぼくは帰路に就く
帰りの電車の中で、ぼくは三年前の夏の出来事を振り返っていた

「まだかなぁ…」
ぼくは待ち合わせ場所となっている、公園の噴水前のベンチに腰掛けたまま、ポケットから携帯を取り出して、時刻を確認した後、呟いた
待ち合わせは十一時のはずだったが、時間はとうに過ぎている

「来ないのかもなぁ…ま、仕方ないか」
待ち合わせの相手とは、おととい掲示板で知り合った
昨日の夜には画像交換も済ませていて、その上で会ってみようという話になったのだが…

「気が変わったのかもな」
相手のことは正直、タイプだった
向こうもぜひ会いたいと言ってくれていた
だけど、冷静になって考えてみれば、あんなに可愛い子が、ぼくみたいな冴えない三十路男を相手にするはずがない
友達の募集ならともかく、恋人の募集だった訳だし

「ま、ちょうど都心まで出てきたことだし、電気街にでも足を延ばしてみるか」
ぼくの家は郊外にあって、ここまで来るのには時間も掛かったから、待ちぼうけを喰らわされた以上、不満がない訳じゃない
それでも、ちょうど見たいものもあったので、電気街まで足を延ばしてみるのも、悪くはないと思った
そうして、ぼくは待ち合わせの相手のことは諦めて、ゆっくりと立ち上がろうとする
するとそこへ…

「雅章さぁん!」
背後から、ぼくのことを呼び止める声が聞こえた
振り向くとそこには、昨日写真で見た待ち合わせの相手が、汗だくの姿で息を切らして、佇んでいた

「えーと、祥平くんだっけ?よろしくね…汗、大丈夫?」
ぼくは挨拶を済ませると、彼にハンカチを差し出した

「ふぅ…ありがとうございます」
彼は顔中の汗を拭き取ると、ハンカチを返そうとしてくれる
でもこのようすだと、まだしばらくは必要だろう
だからぼくは「持ってていいよ」と言って、ハンカチを受け取らなかった

「え、いいんですか…あっ、遅れてすいませんっ!寝坊した上に電車が遅れて、その…」
すると突然、彼は深々と頭を下げて、遅れた理由を説明しようとしてくれる
「気にしなくていいよ、疲れたんじゃない?とりあえず喫茶店にでも行こうか」
怒る気にはなれなかった
見るからに走るのには辛そうな体型の彼が、ぼくなんかのためにこの炎天下、汗だくになって走ってきてくれたのだ
感謝こそすれ、怒る理由などなかった
それに…

『写真より可愛いじゃん』
そう、彼は写真よりもさらに魅力的だった
ぼくはたまらなくなって、目の前の彼の全身をじっくりと眺め回す
正直、眩暈がしそうだった

「お気遣いありがとうございます、でもぼく、お腹空いちゃって…」
突然、意識を呼び戻されたぼくは、自分のうかつさに気付く
『そうだよな、お昼前だもんなぁ…燃費も悪そうだし、あれだけ走れば腹も減るよなぁ』
ぼくは、お腹をさすりながら舌をペロンと出す彼の姿を見て、微笑ましい気分になっていた

「そうだね、ぼくもちょうどお腹空いてきたところだし、食事にしようか…何食べたい?」
「ぼく、肉大好きです!」
即答だった
『肉ねぇ…』
まさか初デートで牛丼屋もあるまい、と思ったぼくは困り果てる
『仕方ない、ステーキ専門のファミレスにでも行くか』
給料前で財布の中身の乏しかったぼくは、彼に気付かれないように溜め息を吐くと、ゆっくりと歩きはじめた

十五分後…
ぼくたちはファミレスの店内で、注文したメニューの到着を待っていた
週末なのでもっと混んでいるかと思っていたが、案外すんなり入れたのは、嬉しい誤算だった
まぁ、それはいいのだけれど…

『それにしてもよく食べるなぁ』
ぼくは、彼が注文したメニューの多さに感心していた
いや、感心している場合じゃないか
一応、ここは年上のぼくがおごらなくっちゃと思ってはいるので、こんなにたくさん注文されちゃうと後が辛いのだ
でも…

『まぁ、いっか』
目の前の彼の嬉しそうな、楽しそうな顔を見ていると、ちょっとした不満や心配事など、吹き飛んでしまうというものだ
それよりもぼくは、本当にぼくなんかでいいのかを、彼に確かめなければならない
「ぼく、こんな感じの冴えない奴だけど、大丈夫?タイプじゃなかったら、無理しなくていいからね」
ぼくは、料理よりも一足先に届いたアイスコーヒーに口を付けながら、気に掛かっていたことを尋ねてみる

「ぼく、雅章さんみたいな男の人がタイプなんです!あ、タメ口でいいですか?」
『タイプ、か…』
そういえば、こうして会う前のメールでも、そんな事を書いてくれていたっけ
正直、こそばゆい感じがしないでもなかったが、可愛い子にタイプだと言われるのは、やっぱり嬉しい
たとえそれがお世辞や社交辞令であっても、ね
ぼくは「うん、タメ口で全然構わないよ、祥平君のことはなんて呼んだらいい?」と聞き返しながら、内心の喜びを隠すことが出来なかった
「あ、なんか嬉しそう!ぼくのことはしょうでいいよ、雅章さんのことはまさって呼ぶから」
こうしてお互いの呼び名が決まったぼくたちは、どちらからともなく握手を交わして、お互いの距離を少し縮める

「ところでさ、しょう君はまだ大学生なんだっけ?若いなぁ…何か運動はしてたの?」
注文しておいたメニューが届くまでの間、ぼくは彼に幾つか質問をぶつけてみることにした
これでもう少し距離を縮めることが出来たら…そんなことを考えながらぼくは、彼の太い首や腕、胴回りなどを眺めてみる
うん、いい体だ
きっと何かしていたに違いない

「高校ん時に、柔道を少し…まさは何かしてないの?」
彼はメロンソーダを片手に、ぼくの質問に答えた後で、同じことをぼくに聞き返す
「見ての通り、ぼくは全然」
彼の質問にそう答えながらぼくは、『柔道か…なるほどね』と一人で勝手に納得していた

やがて注文したメニューが届くと、彼は物凄い勢いでそれらを平らげていく
なるほど、太る訳だ
それにしても見ていて気持ちのいい食べっぷりだ
これならおごり甲斐もあるというもの

「まさ、このサラダ美味しいからちょっと食べてみて」
彼がそう言うのでぼくは遠慮なくサラダをつまんでみる
うん、美味しい
と、その隙に…
「代わりに、お肉二切れもらうね」
と口で言うよりも早く、哀れ我がステーキは彼の大きく開かれた口の中に収まってしまった

「しょう君食べ過ぎ」
がっかりしたぼくはそう言って唇を尖らせてはみるものの、目の前で美味しそうにステーキを頬張る彼の笑顔を見ていると、怒る気も失せてしまう

それから十分後…
テーブルに所狭しと並んでいたメニューはその大半が片付き、ぼくたちはデザートの到着を待っていた
「まさ、これからどうする?」
彼が突然、この後の予定について聞いてくるので、ぼくは頭を悩ませる
「映画なんかどう?」
結局僕は、ありきたりながらも、ぼくなりに当たり障りのない提案をしたつもりだった
だけど…

「えっ!?しないの?」
彼は文字通り、細い目を丸くして驚く
「ぼく、どこでヤるかの相談のつもりで聞いてみたんだけどな」
ぼくは驚いた
これでは、ムードも何もあったもんじゃない
そりゃあぼくだっていっちょまえの男だから、下心が全くないと言えば嘘になる
でも、会って食事をしていきなりHというのは、いくらなんでもあんまりだ
そもそも、恋人募集の掲示を通して知り合った訳だし

「うん、それはまぁ、後でゆっくり考えようよ」
ぼくは、努めて冷静を装って、穏やかな口調で彼にそう言った
「なんだ、したかったのにぃ」
すると彼は、つまらまそうな顔をして横を向いてしまう
『もしかしたらこの子が求めているのは、それだけの関係なのかもしれない』
そう思ったぼくは、ひどく落胆した

「あ、なんかぼくまずいこと言ったかな?」
さすがに彼なりに気は遣ってくれているのか、ぼくのようすの変化は察してくれたようだった
そりゃあいくら僕だって、機嫌の一つくらい悪くもなる
でもま、いいか
彼の方が欲望に忠実だったってことだし、男同士なんてこんなものだろう
ましてや、彼はまだ若い
『健康な証拠かもね、ぼくみたいな冴えない三十路男なんかとしたいだなんて、物好きなこと極まりないけど…そう言ってもらえるだけでも感謝しなくちゃ』
そう思うことにしたぼくは、彼にラブホテルに行くことを提案してみる

「ラブホテル!?男同士で入れるとこなんてあるの?」
彼は驚いて、軽く身を乗り出してくる
どうやら興味津々といったようすだ
「うん、知らないこともないよ…そこは綺麗だからお勧めかな」
『やれやれ、二度目の提案は蹴られないで済みそうだ』
ぼくは安堵のため息を吐く
「ぼく、ラブホってはじめてなんだ!早く行ってみたい」
彼は実に楽しそうにそう言った
よし、そうとなれば善は急げだ
ぼくたちは、ようやく届いたデザートを急いで平らげると、そそくさと店内を後にした

「初めに言っておくけど、ベッドは回らないよ(笑)」
ホテルに行く道すがら、ぼくは彼の一歩前を歩きながら、念を押しておく
期待されていると、困るからね
「えー、なんだ、つまんない」
案の定、彼は膨れっ面でぼくに不満をぶつける
「その代わり、ベッドはキングサイズだし、ジャグジーもサウナも付いてるけどね」
「そうなんだ、じゃあいいかも」
よかった、なんとか気に入ってもらえそうで、ぼくは一安心だ

「ここだよ」
ホテルの前に到着したぼくは、彼の前で指をさす
そのまま無言でエントランスを抜け、エレベーターに乗り込むぼくたち
やがて客室に入ると、ぼくは料金の精算を始める
うぅ、痛いなぁ

「へぇ、部屋の中で支払いが出来るんだ、面白いね!」
彼はこのホテルの精算システムに興味を持ったようだ
「これだとフロントの人と余計な会話をしなくて済むから、便利なんだよ…紅茶でも飲む?」
ぼくは、説明もそこそこに、彼に紅茶を勧めてみた
気分がリラックスするから、ぼくたちにとって初めてとなるHの前には、持って来いだ
幸いこのホテルには、備え付けのポットとティーバッグが用意されている
「うん、ぼくお風呂場見てくる」
彼はぼくが紅茶の用意をしている間に、バスルームのチェックをしているようだった
「どーお?」
ぼくが彼に尋ねると、「うん、ちょっと狭いけどすっごく綺麗」と返事が返ってきた
反応は上々だ

「はい」
バスルームから戻ってきた彼に、ぼくは淹れたばかりの温かい紅茶を差し出す
「ぼく、アイスがよかったんだけどな…ま、いっか」
彼、どうやらここは折れてくれたらしい
外は暑いとはいえ、中は寒いくらいに冷房が効いているから、体も温まってちょうどいいだろう

ぼくたちはカップを片手に、大きなベッドの縁に並んで腰掛けた
やがてサイドテーブルにカップを置くと、ぼくたちはどちらからともなく口づけを交わす
一瞬、彼が切ないような悲しいような目をしたように見えたことが、ぼくには気掛かりだった
だけど、彼の勢いに押されるようにして、結局ぼくたちはそのままベッドインしてしまう

そして…

行為を終えたぼくたちは、ベッドの上でぴったりと寄り添い合っていた
「ねぇ、なんでぼくがまさと会ってすぐにHしたがったか、分かる?」
彼は突然、ぼくにそう問い掛ける
真っ直ぐな目だった
「ううん、溜まってたんじゃないの?」
理由の分からなかったぼくは、笑いながら適当な答えで茶化してしまう
「それもあるけど…もしもこれからちゃんと付き合ってくんなら、体を合わせた時の相性ってのも大事になると思ってさ」
彼は俯きながら静かに淡々と、そう答えた
「ふぅん、そっか…で、ぼくとの相性はどうだった?」
自分が試されていたことを知ったぼくは、努めて平静を装いながら、気になる答えを彼に求める
「ばっちりだよ、まさ!」
すると彼は、パッと嬉しそうな顔をして、親指を立ててみせた
「よかった、じゃあこれで一次試験は合格かな」
嬉しくなったぼくは、そう言ってニッコリと笑ってみせる
「もちろん!」
次の瞬間、彼はぼくに抱き付いた

ぼくは、彼の背中をかき抱きながら、この時、暖かな幸せを感じていた
これから先のぼくたちを待ち受けている運命など予想も出来ないまま、ぼくは一人で喜びを噛みしめていたんだ

その後ぼくたちはホテルを後にすると、話題の映画を見に映画館へと向かった
映画はそれなりに面白く、しょう君も楽しんでくれたみたいで、ぼくとしては満足だった

「この後どうする?夕食でも食べに行こうか?お腹空いてるんじゃない?」
いい雰囲気だったので、もう少し彼と一緒にいたかったぼくは、彼を夕食に誘ってみる
「うん、ちょうどお腹空いてたとこなんだ、行こうよ!初めての記念だから、ムードのあるとこだと嬉しいな」
おやおや、また注文がついてしまった
『ムードのあるとこだなんて、気軽に言ってくれるよなぁ』
ぼくは彼に気付かれないように、そっと溜め息を吐く
そんなムードのあるお店で、昼間の調子で食べまくられたら…考えただけで背筋が凍る
『どうしようか…』

考えあぐねた末に思い付いたのは、近くにあるホテルのディナーバイキングだった
あそこなら、いくら食べてもらっても平気だし、店内の雰囲気だって悪くない
「目の前でローストビーフをカットしてくれるサービスもあるよ、どうかな?」
ぼくは彼の顔を覗き込みながら尋ねてみる
「OK、シャンパンで乾杯もしよーね!」
とりあえずはOKが出てホッと一安心
会う前のメールのやり取りで、先月二十歳になったばかりだと言っていたから、お酒も少しくらいはいいだろう
ぼくは嬉しそうな彼に、わざと気の抜けた返事をしてみる
「はいはい」
「はいは一度でいいのぉ!」
怒られてしまった
本当は怒られる筋合いもなかったのだけれど、可愛いから許そう
ぼくは彼を連れて、早速ホテルのレストランに向かった

三十分後…
賑やかというほどではないが、静か過ぎない感じが心地のいい店内で、ぼくたちは向かい合わせで食事をしていた
「ぼく、旅行に行きたいっ!海外の、南の島がいい!」
ぼくが好物のビシソワーズに口を付けた瞬間に、彼が目を輝かせてそう言ったので、思わずぼくは咽せてしまう
それどころか、あと少しで噴き出してしまうところだった
危ない、危ない
「お金は大丈夫だよ、自分の分は自分で出すから…だからねぇ、いいでしょ!一緒に行こうよ!」
彼は、そんなぼくのことなど気にも留めずに、話を続ける
海外の南の島でバカンスだなんて、随分とお金のかかりそうな話だ
大学生なのになぜそんなにお金があるのか、訝しく思ってはみたけれど…
まずはそれよりも、こっちの旅費が心配だ
ぼくは、仕事の都合を理由にしてやんわりと断ってみる
だけど…

「どーして駄目なのさ!楽しいよ!ぼく、どうしてもまさと行きたいっ!」
彼は譲ろうとはせず、元からまあるい頬をぷくっと膨らます
可愛らしい表情ではあるが、ぼくは困った

「国内の温泉なんてどうかな、それなら休みも取れるから一緒に行けるよ」
ぼくとしては悪くない提案をしたつもりだったし、実際にこれが精一杯だったのだけれど…

「やだ、海外がいい!」
彼はぼくの提案を一蹴する
「大学生なのに、よくそんなにお金持ってるよね」
強情を張る彼の態度に、少し頭に来たぼくは、軽く睨みながら彼に問い質してみる

「…怒らない?」
彼は上目づかいにこちらをちらちら見ながら、大きな背中を丸めて呟いた
「いいから、話してごらん」
ぼくは彼の目を真っ直ぐ見つめると、訳を話すように彼に促す
その後、しばらくの沈黙が続き、やがて…
「ぼく、売り専やってるんだ…」
彼はそう言うと、深く大きな溜め息を一つ、吐いた
その言葉に驚いたぼくは、手に持っていたスプーンを床に落としてしまう
ぼくのそんなようすを見ていた彼は、下を向いて丸い大きな肩を落とした
「やっぱり、びっくりするよね…」

ぼくは迷っていた
ぼく自身の正直な気持ちを打ち明けずに、このまま受け流すことだって出来るだろう
だけどここで何も言わなければ、彼とこの先関係を続けることは、困難になる気がした
だから僕は意を決して、口を開く

「頼むから売り専…やめてくれないかな?
これから先、ぼくだって嫉妬の一つくらいするだろうし、しょう君の体だって心配だ」
ここで彼が首を横に振ったら、ぼくは彼のことを諦めようと思っていた
確かに、売り専をやっていたことそれ自体にもショックは受けた
だがそれだけではなく、彼がまるで男同士で入れるラブホテルの存在さえも知らなかったかのような態度を、ぼくの前でわざわざ取ったことにも、ぼくは腹を立てていた
売り専をやっているくらいならば、知らないはずはないのだ
ぼくは彼のことを半ば諦めつつ一つ溜め息を吐いて、窓の方に視線を移す
ところが…

「だって、だって、好きになった相手と一緒に、南の島に行きたかったから…」
もちろんそれだけではないのだろうが、彼は売り専をしていた理由の一端を、泣きながらぼくに明かしてくれたのだった
泣きじゃくる彼の姿を見て、ここでぼくが何とかしてあげなきゃ、そう思ったぼくは…
「よし、わかった!しょう君が売り専をやめるんなら、ぼくが南の島に連れて行ってあげる」
旅費はおろか、休みが取れる当てさえもないのに、こうして大見得を切ってしまう
「ほんとに!?いいの?ぼくはそれでいいけど、まさは平気?ぼく、大飯食らいだし…」
ぼくの言葉で早くも泣きやんだ彼は、ぼくの顔を心配そうに覗き込んで尋ねる
「頑張るっ!」
ぼくは半ば自棄になって、その場で叫んでいた

その後、食事を終えたぼくたちは駅で別れ、それぞれの帰路へとついた
ぼくは、可愛い子に出逢えた喜びよりも、早く家に帰って休みたい気持ちでいっぱいだった
部屋に着くと、着ていた服を放り投げ、シャワーも浴びずにベッドに横たわり、そのまま眠ってしまった

翌朝…
「♪♪♪」
携帯が、昨日の彼からの着信を告げる
その賑やかな音で目を覚ましたぼくは、寝ぼけ眼で携帯に手を伸ばした

「まさぁ!」
彼が電話口で叫ぶものだから、ぼくの眠気は一瞬で吹き飛んだ
「どうした!?」
ぼくは慌てて声を掛ける
「寝てる間にネットから落とそうと思ってたファイルが、落ちてこなかったあぁ」
「なんだ、びっくりした」
電話口の向こう側の声は泣きそうだったのだけれど、正直大した話じゃなくてほっとしたぼくは、急に眠くなる

「なんだじゃないよお!パソコンが勝手に省電力モードに入っちゃってて、すっごいショックだったんだからね!」
「そっか、残念だったね…眠いから切るよ」
必死にまくし立てている彼には悪いが、この内容ならそろそろ話を切り上げても良さそうだ、そう思ったぼくは携帯の終話ボタンに指を掛ける
「あっ、まさ冷たい!ひどおい!」
「だってまだ朝早いんだよ…もうちょっと寝かせてよ」
「もう、まさなんか知らないんだからね!」
「わかった、悪かったよ、ごめん」
「分かればいいけどさ…」
こうして月曜日の朝五時に叩き起こされたぼくは、二度寝しようにも寝付けず、会社に出掛けるまでの時間を無為に過ごすはめになった

それから一ヶ月後…
結局、仕事の休みの都合がつかなかったせいで、ぼくたちは南の島ではなく、二泊三日で近場の内陸の温泉に来ていた
告白らしい告白を彼にしたことはまだ一度もなかったが、それでもなんとかぼくたちの関係は続いていたのだ
それもきっと、ぼくの忍耐のお陰…じゃなくて、彼が可愛くて物好きだったからだろう

「そんなに怒るなよぉ…」
「だってぇ…」
「これでも奮発したんだぞ…」
考えてみると、南の島へ行く唯一のチャンスは夏休みだった訳だが、暑い夏の盛りにそんな時期の海外旅行の予約が取れるはずもなく、そもそも最初から無理な話だったのだ
連れて行くと言った手前後ろめたさはあったが、この旅行の旅費だって相当なものだった訳で…
これで我慢してもらうしかない、というのがぼくの正直な心境だった

不機嫌な彼をなんとかなだめながらタクシーで宿に着くと、玄関先まで係の者が出迎えに来てくれた
そのまま部屋まで通され、そこでチェックイン
テーブルの上の抹茶と和菓子を頂きながら、抹茶には濃茶と薄茶があることを思い出す
これは薄茶かな…そんなことを考えていると、目の前の和菓子が一つ減っていた
横を見ると、まだ物足りなさそうなまあるい顔が、こちらを向いている
仕方ないので皿ごと渡すと、彼はぼくの食べかけの分まで綺麗に平らげてしまった
とても美味しそうな和菓子だったので内心では残念に思っていたが、ぼくたちの部屋を担当する客室係の女の人が笑っているので、ぼくもつられて笑ってしまった

「どうせ来るなら、海がよかったなぁ」
彼の不満ももっともだったが、まだ夏も終わっていないこの時期に海沿いの旅館の予約を取るなんて、もっと早くからでないと無理に決まっていたので、気にしない
「この部屋、専用の露天風呂が付いてるんだよ、庭の景色でも眺めながら一緒に入ろうよ」
ぼくは彼のご機嫌を取るべく、この部屋一番のアピールポイントをさりげなく口にする
「ほんとに!?」
すると、それまで曇りがちだった彼の目が、一瞬にして輝きを見せた
現金なものだ

「それなら早速一緒に入ろうよ、まさ!」
彼は、客室係の女の人がいなくなったのをいいことに、その場で服を脱ぎ始めた
「やれやれ、気が早いなぁ」
そのようすにぼくは呆れながらも、次第に露わになる彼のすべすべの素肌を目の前で見せつけられて、少しばかり興奮してしまう
やっぱりいいなぁ、若いって

「まさも早くぅ!」
ぼくは彼に急かされる形で身に着けていた服を取り払うと、彼より一足遅れて、庭先の専用露天風呂に向かった
石造りの露天風呂はまだ真新しく、体の大きな彼と一緒に入るのに十分な大きさもあった
ぼくは、既にお湯の中で寛いでいる彼と向かい合わせになる形で、ゆっくりと湯船に体を沈めていく

「ふぅ…やっぱり温泉はいいなぁ」
さっきまでの体の疲れが、どんどん抜けていく気がする
目の前の庭の景色をぼんやりと眺めながら、ぼくは肌に伝わる温もりと幸せを、じっくりと噛みしめていた
するとそこへ…

「バシャっ!」
大量のお湯がぼくの顔や頭をびしょ濡れにする
目の前には、いたずらな笑顔を見せる彼

「やったな、お返しだ!」
大人げないとは思いながらも、ぼくも負けじとやり返す
気が付くと、彼のペースに巻き込まれる形で、ぼくは久々にはしゃいでいた

やがて、思う存分にお湯を掛け合ったぼくたち二人は、露天風呂の縁に並んで腰掛けた
ぼくの目は、上気して汗ばんだ彼の全身に釘付けになってしまう
「ねぇ、さっきからまさどこ見てるの」
ぼくの視線に気付いた彼は、笑いながら両手で大事なところを覆い隠した
「ち、違うよ、しょう君の肌があまりにも綺麗だったから、つい…」
「だーめ!夜になってからのお楽しみだよ」
慌てたぼくは言い訳を試みるものの、まるで信じてはもらえない
恥ずかしくなったぼくは、彼を置いて一人いそいそと洗い場へと向かった

結局、一足先に全身を洗い終えたぼくは、そのまま露天風呂を後にする
「置いてくなんて冷たいぞぉ、まさのばか」
後ろの方から誰かさんの声が聞こえたような気もするけれど、気にしない

入浴後、観光を翌日に回そうと思っていたぼくは、あらかじめ用意しておいたガイドブックを片手に、部屋でお茶を啜っていた
そこへ…
「えーいっ!」
大きな掛け声とともに、大きな体が背中にのし掛かる
ぼくは思わず、口に含んでいたお茶を噴き出してしまった
「あーあ、何するの、もう…」
仕方なくぼくは、高そうなテーブルを丁寧に拭いていく
「まさがぼくのこと置いてくからだよ」
彼は少しむくれた顔でそう言うと、ぼくの目の前にどっかりと腰を下ろした

「ねぇまさ、トランプしようよ」
そう言うと彼はバッグの中から小さなケースを取り出す
「意外と気が利くんだね」
「”意外と”は余計だよ」
そんな訳で、ぼくたちは夕食までの間、トランプに興じることになった
しかし…
「まさ、弱すぎだってば」
久々で勝手が分からないのもあるけれど、そもそもどうも勝負運というものがないらしく、負けてばかりいた

「そろそろ終わりにしようか」
「あっ、勝てないからってずるい!」
「もうすぐ夕食だよ」
「ほんとに!?すっごく楽しみにしてたんだ~」
さっきまでとは目の輝きが違う
『うん、やっぱりこうでなくっちゃね』
ぼくは嬉しくなって、ほくそ笑む

そして、待ちに待った夕食の時間がやって来た
ぼくたちは、一品ずつ運ばれてくる色とりどりの料理に、舌鼓を打つ
「まさ、ちょっともらうね」
ここでも彼は、ぼくの分の料理にまで箸を伸ばす
「この食いしん坊め」
ぼくは彼の鼻の頭を軽く突っついて、笑ってみせた

その後、デザートまで綺麗に平らげたぼくたち二人は、ベッドのある寝室へと向かう
ここは純和風の旅館なのだけれど、どの客室にもベッドルームがあるのだ
ぼくたちは、二台あるうちの片方のベッドに、寄り添うように横たわる

「ねぇ、しょう…」
ぼくは決意を固めて、口を開いた
これまでずっと言えなかったことを、ここで言おうとしていた
溜め息混じりの声は、緊張のせいか少し震えてしまっていた

「なに、まさ…」
振り向いた彼の瞳は、気のせいか潤んでいるようにも見える
ぼくは大きく息を一つ吸う

「ぼくの彼氏になってくれないかな」
ストレートな告白
回りくどい言い方は、やめようと思った

鼓動が速くなる
顔が熱い
ぼくは祈るような気持ちで、彼の答えを待つ

「あのね、まさ!」
突然、彼は大声を上げた
「う、なに!?」
ぼくは思わずうろたえる

「ぼく、こう見えて寂しがりなんだかんね、ちゃんと構ってくんないと浮気しちゃうんだかんね!」
それを聞いて、ぼくは思わず彼の顔を覗き込んだ
彼の目は、真剣そのものだった

「それは、困る」
答えに窮したぼくは、それだけを口にすると、視線を横に逸らす
そんなぼくのようすに動揺したのか、彼は泣きそうな顔で僕に抱き付いてきた
「困るだけ?ねぇ、困るだけ?」
彼はぼくの体を何度も揺すりながら、強い口調で訴えかける

だからぼくは…
「しょうがないな、独りになんかしないよ、約束するからさ」
そう言って、彼の頭をゆっくりと何度も撫でた

「ほんとに!?絶対だよ!」
彼は潤んだ目で、ぼくのことをじっと見つめてくる
「だからしょうも、浮気なんかしちゃだめなんだよ」
ぼくはそう念を押して、彼の頬にそっとキスをした
「わかった、約束するよ…」
そしてぼくは、そんな彼の言葉を確かめてから、改めて告白をする
「愛してるよ、ずっと一緒にいようね」
「うんっ!」

彼が頷いたのを確かめたぼくは、目の前の唇を奪って、舌を絡めた
そのまま行為になだれ込むぼくたち

やがて行為を終えると、ぼくはバッグの中から部屋の合鍵とリボンのかかった小箱を取り出して、彼に手渡した
「箱、開けていい?」
彼は興味津々といったようすで、小箱を眺めながらぼくに尋ねる
「うん、しょうにぴったりのプレゼントだと思うよ」
気に入ってもらえるかどうかは別にしても、彼にぴったりなのは間違いない
そう思ったぼくは、満面の笑みを浮かべて答えた
「ほんとに!?」
ぼくの答えを聞いた彼は目を輝かせながら、とても嬉しそうに包みを開けていく

「まさ、これって…」
「ね、ぴったりでしょ」
ぼくは自信満々で微笑むと、軽く胸を張った
「ごめんよぉ、時間にルーズでさ…」
彼は小箱の中からプレゼントの時計を取り出して腕にはめると、少し落ち込んだ顔を覗かせる
彼はぼくとの待ち合わせの時に、時間に遅れて来ることが多かったのだ
だからぼくは、「これで次からは大丈夫だね」、そう言って笑いながら彼の頭を撫でた

翌朝…
宿で朝食を食べ終えると、ぼくたちは早速観光へと繰り出す
「ねぇまさ、ロープウェイに乗ろうよ!」
彼、何だか楽しそうだ
だけど…

「うっ…」
ぼくは言葉に詰まって返事が出来ない
「あっ!まさもしかして高所恐怖症なんでしょ!」
意地悪な笑みを浮かべながら、彼はそんなぼくの手を引こうとする
「待ってよ、ロープウェイって実は結構危ない乗り物なんだよ!ほら、たまに落ちたりするし」
ぼくはロープウェイに乗りたくない一心で、あることないことまくし立てる
「そんなこと心配してたら飛行機にだって乗れないよ」
すると彼はそう言って、声を上げて笑った
「だから乗ったことないもん!」
頭に来たぼくは、つい声を荒げてしまう
「それじゃあ南の島にも行けないね…いつか二人で行きたくて、楽しみにしてたのに…」
彼は明らかに落ち込んだようすで、丸い肩を落とした
「頑張るっ!」
ぼくは半ば自棄になって、その場で叫んでいた

こうして、結局ロープウェイに乗ることになったぼくは、彼に引きずられるようにして乗り場へと向かった
「これ、ほんとに大丈夫なの?やっぱりやめない?」
往生際の悪いぼくは、ゴンドラの実物を目の前にして、及び腰になってしまう
「さ、乗って!」
そんなぼくの姿に少々イライラしたのか、すぐ後ろから彼の声が飛んでくる
ぼくは彼に背中を強く押される形で、よろめきながらゴンドラに乗り込んだ

定員十八名のゴンドラは満員で、怖いからといって騒ぎ出す訳にもいかず、ぼくは固まったまま、隣に座る彼の手を握る
「まさ、手に汗かいてる」
いつもよりもぎこちなく首を動かして横を見ると、彼が意地悪くニタニタと笑っていた
だけど、ぼくにはもうそれに腹を立てる余裕もない
ゴンドラからの景色を満喫している彼をよそに、ぼくはただひたすら、このまま無事に時が過ぎるのを祈るばかりだった

「まさ、着いたよ」
ぼくは彼に手を引かれながら、ふらつく足取りでゴンドラを後にする
『長かった…』
偽らざる感想
この時は本当に、死ぬかと思った

ゴンドラから降りた途端に元気を取り戻したぼくは、大地を踏みしめながら、その感触を味わう
ぼくたちがこれから向かう、辺り一帯の景色を見渡すことが出来る展望台へは、もうすぐだ
「すっかり元気になったみたいだね、まさ」
「うん、帰りは乗らなくて済むからね、バスがあるから」
ぼくは嬉しくて、ニコニコしながら得意気にそう話す
「何だ、つまんないの」
彼は、そんなぼくのようすを見て、どういう訳だか不満顔だ
「何だってぇ!?」
頭に来たぼくは、彼を捕まえようとして追いかけ回す
「うわぁ、冗談だってば、まさ!」
いい歳をして追いかけっこだなんて、普段なら恥ずかしいはずだけれど、この時は夢中だった

やがて、展望台からの景色を満喫したぼくたちは、バスで観光へと繰り出す
宿での夕食までの間に、出来るだけたくさんの観光スポット巡りをしておきたかったせいで、慌しいスケジュールとなってしまったが、彼は終始楽しそうで、ぼくにとってはそれが何よりだった

そうして、観光を終えたぼくたち二人は、宿の部屋でのんびりと寛いでいた
「まさ、お腹空いたね」
行く先々でいろんなものを買っては食べていた彼だけれど、夕食の時間になるときちんとお腹が空くらしい
感心したぼくは、「しょうの腹時計は正確だね、もうすぐ夕食の時間だよ」と言って、彼の柔らかくて大きなお腹を撫でさする

夕食は、昨日に負けず劣らず豪華だった
相変わらずぼくの分まで食べようとする彼に、ぼくは進んで皿を差し出す
いつの間にか、ぼくにとっては彼の笑顔が一番のご馳走になっていたから
だから、料理なんて二の次でいい
この笑顔を守ってやりたい、ずっとそばで見ていたい…
ぼくは心の底から、そう思っていた
「まさ、ありがと…これ、すっごくおいしい!」
彼のそんな嬉しそうな声を聞きながら、ぼくはこれ以上ないくらいに幸せを感じていた

夜…
夕食を食べ終えたぼくたちは、ベッドの上で寄り添い合っていた
二人の間に言葉はない

ぼくは、明日には帰らなければならないのが残念でならなかった
出来ることなら、彼ともっと一緒に過ごしたい
そんな気分のせいもあって、つい無口になってしまう
もしかしたら、彼もぼくと同じ気持ちなのかもしれない
ぼくたちは、無言のままただひたすら抱き合って、互いの温もりを確かめ合おうとしていた

そこへ…
「♪♪♪」
鳴り響く携帯の着信音
どうやら、彼の携帯がメールを受信したらしい
ベッドから抜け出し、面倒臭そうに携帯を手に取る彼
次の瞬間、彼の表情が見る見るうちに曇っていく
心配になったぼくは「どうしたの?」と声を掛けてみるけれど、彼は「大丈夫」と一言だけ発して、再びぼくの隣りにぴったりと寄り添った
正直、そのようすは見ていて気掛かりだったのだけれど、彼が思いの外激しく求めてきたので、その場の空気に流されてしまい、結局ぼくは何も聞けなかった

翌朝、ぼくたちは朝食を食べ終えると宿を後にした
「楽しかったね!」
宿の玄関先でタクシーに乗り込む際に、彼はそう言ってとびっきりの笑顔を見せてくれていた
振り返ってみるとそれが、ぼくが見た彼の最後の笑顔だったかもしれない

その後ぼくたちは、土産物屋巡りをした後、昼食を取ってから帰路に就いたのだけれど…
その間ずっと、彼はどこか上の空で、ぼくは見ていて心配だった

「ねぇまさ…ぼく体調悪いみたいだから、帰って休むね」
出発した駅のホームに列車が滑り込もうとしていたその時、彼は口を開いた
「家まで送ろうか?もし良かったら看病するよ」
彼の体調が気掛かりだったぼくはそう尋ねてみたけれど、彼は申し訳なさそうに短い首を横に振る

結局、この日ぼくたちは、出発した駅の改札口で解散した
ぼくは見たいものがあったので、真っ直ぐ家には帰らず、電気街へと足を運んだ
三時間ほど電気街巡りをした後、ぼくは駅の方へと向かう
途中、ラブホテルが何軒か建ち並ぶ裏道を通って、ぼくは急いだ
買ったばかりのPCパーツ、早く帰って組み立てたいのだ

するとそこへ…
「♪♪♪」
ポケットの中の携帯が、通話の着信を伝える
電話を掛けてきたのは、勤務先の上司だった
ぼくはその場で立ち止まって、明日の仕事の件についての打ち合わせをする
ラブホテルの前だけれど、気にしない
そうして、通話を始めてから十分ほどが経過した頃に…
目の前のラブホテルから体の大きな男が二人、少し距離を置きながら出てきた
初めは『そういえばここも男同士で入れるんだっけ』などと呑気に眺めていたぼくだったのだけれど…

「あっ!」
ぼくは叫んだ
手に持っていた携帯を思わず落としてしまった
二人の内、後から出てきた方の男は、間違いなくしょうだったのだ

ぼくは携帯を拾うのも忘れて、その場を駆け出していた
見たくなかった…それが正直な気持ちだった
「待って、まさ!仕送りだけじゃ苦しいから、仕方なくなんだよ!お願い、話を聞いて!」
後ろからぼくを呼ぶ声がする
だけどぼくは、振り向きもしないで走り続ける
「待って、お願い!」
彼はぼくを追いかけながら、今にも泣き出しそうな声で叫び続けていた

やがて、ぼくは横断歩道に差し掛かる
ちょうど青信号が点滅し始めたところだ
これで彼を引き離せる…そう思ったぼくの頭の中からは、この時、眩しかったはずの彼の笑顔は既に消えていた

いよいよ信号が変わる
ここは大通りだから、彼もこれ以上は追い掛けては来られないだろう、ぼくはそう思っていた
ところが…

「まさぁ、待ってぇ!」
振り向くと、彼は汗だくで息を切らしながら、赤信号を渡ろうとしていた
「しょう、危ないっ!」
ぼくは力の限り叫んだ
大型トラックが彼めがけて突っ込んできていたのだ
次の瞬間…
「ドンっ!」
彼の大きな体はトラックのボンネットにはね飛ばされて、宙を舞っていた

「おい、しょう!おい、しっかりしろよぉ…」
一瞬の出来事で事態が飲み込めず、どうしたらいいか分からなかったぼくは、全身をガタガタと震わせながら、地面に叩き付けられた彼の体へと近付く
「んぁ…来て、くれたんだ…まさのばか」
彼はとても苦しそうに、口を開いた

「まさ、ごめんね…ぼく、先に行ってるね」
ぼくは彼の言葉に、涙が止まらなくなる
「そんな…だめだよ…嫌だよ…」
ぼくは震える手でまだ温かい彼の手を握ると、声を絞り出す

「まさ…ぼくが死んでも…浮気なんかしちゃだめなんだからね…まさはずっと、ぼくだけのものなんだから…」
それが彼の、最期の言葉だった
「わあぁーっ!」
ぼくは、真っ赤に染まった地面の上で、ただひたすら泣き叫んでいた

あれから三年…
ぼくは彼との約束通り、彼氏を作ることもなくずっと独りで過ごしてきた
彼はぼくのせいであんな目に遭ったようなものだから、これも当然の報いだと思っている
ぼくは、しょうとのひと夏の思い出だけを胸に、これから先もずっと独りで生きていくつもりだ
とはいえ、もちろん寂しい夜もあった
人肌が恋しくて、誘惑に負けそうになったことも何度もあった
それでも、そんな時には必ず、眩しかった彼の笑顔を思い出すようにしていた

「ぼくは、強くなるよ…きっと、もっと強くなるよ…だってそうじゃないと、すぐにでもしょうのいるところへ行きたくなっちゃうからさ」
ぼくは帰りの電車の中で、空の星になってしまった彼に話し掛けるように、そっと呟いた