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シズクノココロ[Bluebird 外伝 - ハルに捧ぐ詩]

諦めていた。
全てを投げてもいいと、本気で思っていた。
絶望と孤独の底にあった。
それでもいいと、言い聞かせていた。
何度も、何度も、消えてしまおうと思った。
この世界への未練など少しも、これっぽっちも無かった。

けれども、心の痛みはいつまでも取れなかった。
ただひたすら、心が痛かった。
悲鳴が聞こえるような気さえした。
空模様のせいにした。
道行く人のせいにした。
それでも耐えられなくて、結局その場に蹲った。

自分の存在が誰からも見えなくなるような、そんな気がして、怖かった。
誰からも、忘れ去られていた。
必要無かった。
そう、あの日、あの子と出会うまでは、俺は負け犬だった。
本当に何にも無かった。
だからあの子の笑顔を見て俺は、この笑顔のためになら死んでもいいと、心から思った。
陳腐でも、本当にそう思った。

出会ったあの日、あの子の前で俺は、何も言えなかった。
喉元まで出かかった勇気の塊を、既の所で飲み込んでしまった。
追い詰められていた。
後が無かった。
だから俺は言葉の代わりに、目の前のあの子を抱き締める事で、溢れ出す想いを精一杯伝えた。
それだけがあの時の俺に残された唯一の、希望へと通じる道に舞い戻るための方法だった。
やがて、沈黙が訪れた。
それでも俺は、退かなかった。
ここで諦めたら何もかもが終わりだと知っていたから、退かなかった。

俺は怖かった。
長い長い、永遠の一瞬。
だけどそれで良かった。
だってあの子は次の瞬間、はち切れんばかりの笑顔で、俺の気持ちに、精一杯の勇気に、応えてくれたから。

振り返ってみるとあの日こそが、俺の人生の、本当の意味でのスタートラインだったんだ。

向かい風は南へと吹き付ける。
それでもあの日からの俺は、生まれ変わったように幸せだった。
雨が降っても、雪が舞っても、あの子が居たから頑張ってこれた。
この小説は、そんな俺のこれまでの日々の、ごく短い記録である……。

シズクノココロ[Bluebird 外伝 - ハルに捧ぐ詩]

午前三時。
身体の痛みで目が覚めた。
ズキズキとあちこちが痛い。
いつもの事だ。
俺は着ていた上着を捲ると、身体中の痣になった箇所を、そっと撫で摩る。
もちろん、そんな事をしたって痛みは引かない訳だが。
「喉、渇いたな……。」
俺は、身体中の痣を作った張本人たちが起きてしまわないように差し足で台所へと向かうと、コップに水を注いで、一気に飲み干した。
冷蔵庫のコンプレッサーの音がやけにうるさく感じられる真夜中。
ちょっと耳を澄ませば、掛け時計の音もカチカチとうるさく、静かなように思えても実は結構、賑やかなのだった。
だが、俺がコップを洗うために再び蛇口を捻ると、この時期特有の生ぬるい水の塊がシンクにぶつかる音によって、それらの儚い音たちはかき消されてしまう。
水を止め、コップを水切り棚に載せると、俺は深く溜め息を吐いた。
何時になったら、こんな暗闇のトンネルを走り続けるような日々から抜け出せるのだろうか。
正直、当ては無かった。
俺はもう一度深く溜め息を吐くと、ゆっくりと部屋に戻り、痛む身体を煎餅布団に横たえた。

午前五時ちょっと前。
いつもと同じ時刻に、計ったように目を覚ます。
まだ目覚ましも鳴っていないのにだ。
習慣とは恐ろしい。
再び差し足で台所に向かった俺は、フライパンを手に取ると、弱火に掛ける。
換気扇を回すと、台所中が一気に賑やかになるので、父さんや母さんが起き出してしまわないか、心配だ。
程なくして、冷蔵庫から取り出したベーコンを三枚、温まったフライパンに放り込むと、次第に食欲をそそる香りが鼻腔を刺激して、嫌でも空腹である事を自覚させられる。
それにしても蒸し暑い。
ベーコンがカリカリに焼けた所で卵を割り入れ、蓋を落とす。
皿を二枚用意して、後は出来上がりを待つだけだ。
三人分作ったが、用意した皿は二枚だけ。
俺の分は、洗い物を増やしたくないので、よそったご飯の上に直接載せる。
父さんと母さんの分のベーコンエッグを皿に載せて、ラップをした俺は、それを冷蔵庫に入れると、早速自分の分の朝食にありついた。
無言の食卓。
今は、その方が落ち着くから、それでいい。
今朝は食欲が無いが、夏バテだろう。
用意した朝食をどうにか平らげた俺は、洗い物をすると、少しふらつく足取りで玄関へと向かった。

家に居れば必ず暴行を受けるから、夜になるまでの間の時間を独りで外で潰すのは、ここ何年かの日課になっていた。
夜になって家に戻れば結局暴行を受ける事になるのだが、それでも一日中その恐怖に怯えるよりは、ずっとマシだった。
ちなみに、俺は学校には行っていない。
苛められていたのも行かない理由の一つではあった。
だが、一番の理由はむしろ、父さんと母さんの都合によるものだ。
学校で行われる身体測定の際に虐待の事実が明るみになるのを、二人は恐れていたのだ。
同じ理由で、俺は物心付いた頃からずっと、医者に連れて行ってもらった記憶が無い。
それだけ身体が丈夫だったという事でもあるが、俺にとってそれは決して幸福な事では無かった。

俺は、溜め息を一つ吐くと、愛着の欠片も無い自宅を後にする。
図書館が空くまでの間、俺はいつも当ても無く街を彷徨っていた。
この日も俺は、何も考えずにゆっくりと歩き出す。
だが、おかしい。
何かがおかしい。
痣による痛みで苦しいのだとばかり思っていたが、それにしてはやけに苦しかった。
右下腹部が鋭く痛む。
俺は痛みには鈍感な方だと自分では思っているが、これには流石に耐えられなくて、俺はその場に蹲った。
その時だった。
初老の会社員風の男性が、俺の事を心配して、声を掛けてくれたのだ。
「君、大丈夫か?立てるか?」
男性は俺に手を差し伸べてくれる。
好意は有難いが、もう立ち上がれそうにもなかったから、俺は黙って首を横に振った。
結局俺は、男性が呼んでくれた救急車によって、病院へと搬送された。
痛みの原因は虫垂炎、俗に言う盲腸だった。
症状が進んでおり、炎症が腹膜にまで達していたため、手術を行う事になったのだが、俺への暴行の事実はその診断の際に明らかになった。
結局、父さんと母さんは程なくして逮捕された。
俺は、優しそうな医者に「もう大丈夫だよ、辛かったね」と言われて、たったそれだけの事で、それまで長い間ずっと我慢していた涙を止める事が出来なくなってしまった。
今となっては、恥ずかしい思い出だ。

退院した俺は、親戚に引き取られる事になった。
ずっと不登校児だった俺は、その親戚の勧めでその時から、とあるフリースクールに通う事になる。

それは、暑い夏の盛りだった。
俺は叔母に連れられて、フリースクールの門を叩いた。
叔母を交えての短いカウンセリングの後、俺は施設の見学をする事になった。
果たして自分が馴染めるかどうか、そこの雰囲気を知る上でも重要な見学なのだが、俺はその場で運命の出会いを果たす。
笑顔が、可愛かった。
素肌が、綺麗だった。
とにかく、眩しかった。
見ているだけで息が苦しくて、胸が締め付けられた。
鼓動が、いつもよりもずっと、激しかった。
この子のためになら死ねる、本気でそう思った。
その子は俺と違って、丸顔で太っていた。
「あ、俺、こういう子が好みだったんだ。」
自分の少し特殊な好みを初めて自覚した、そんな瞬間でもあった。

その日、俺はその子に何度も話し掛けようとした。
だが、俺のちっぽけな勇気は、その子の顔を目の当たりにする度に、呆気なく消え去ってしまった。
俺は焦っていた。
急がないと、帰る時間になってしまう。
そんな時、椅子に座っていたその子は、立ち上がると部屋を後にした。
二人きりになるチャンスだった。
通路に出ると、人は誰も居なかった。
俺は大きく息を一つ吸うと、先を急ごうとするその子の服の袖を掴んだ。
その子は俺の方を振り向くと、怪訝そうな顔をする。
チクリと胸が痛んだ。
だが、もう後が無い。
この時を逃せば、俺はもうこの子と友達にすらなれないような気がした。
だから抱き付いた。
俺の中に残っていた最後の勇気を、この時に使い果たした。
俺は怖かった。
拒絶されたら、死ぬつもりだった。
本気だった。
すると次の瞬間、信じられない事が起こった。
その子は、俺の目の前で確かに、笑ったのだ。
この上無い、飛びっ切りの笑顔だった。
その瞬間に、俺はその子と友達になった。
「ぼく、ハルって言うんだ。よろしくね!」
その子が、ハルが俺に手を差し伸べる。
柔らかい、温かい手だった。
俺は嬉しかった。
俺は、自分の右手を差し出すと、心の中で秘かに、何があってもハルを守るんだと誓っていた。

その日からの俺は、幸せだった。
俺はそのフリースクールに、毎日休まずに通った。
もちろん、ハルに会うためだ。
俺たちはすぐに仲良くなり、何処に行くにも一緒だった。
そんなある日の事。
その日、俺は深刻な表情のハルを前にして、戸惑っていた。
何しろ、初めて見る表情だった。
何か悩みがあるに違いない。
誰も居ない、深夜の公園。
呼び出されてそこに居た俺は、ベンチに腰掛けると、その前で立ち尽くすハルが口を開くのを、ひたすら待っていた。
すると……。
ようやく意を決したハルは、俺の隣りに腰掛けると、ぼそりぼそりと、抱え続けていた悩みを打ち明け始めた。
それは、俺にとっては衝撃的な告白だった。
「あのね、シズク……。ぼくね、好きな人が出来たんだ……。」
その瞬間、俺のちっぽけな心の中に、嵐が巻き起こった。
その相手が俺であって欲しいという願いと、ささやかな期待、そして大きすぎる不安。
出来る事なら、時間を止めてしまいたかった。
覚悟を決める時間が欲しかった。
だが無情にも、運命の時はやって来る。
「驚かないでね……。ぼくが好きになった子は……シンヤって言うんだ……。」
その瞬間に、俺の人生で三度目の、そして最大の恋は、静かに幕を閉じた。
そのままハルが黙り込むので、俺はなるべく平静を装いながらも、出来る範囲で励まそうとする。
……本来なら、もっと喜ぶべきだったのかもしれない。
何故なら、その軽くない事実を告白する相手に、俺を選んでくれたのだから。
もっとも、この時の俺はそこまで冷静では無かったのだけれど。
それでも俺は、少しでもハルの力になりたくて、口を開く。
「男を好きになったのか。大変だな。でも、そこまで落ち込む事でもないぞ。俺だって何度も、そういう経験をしてるしな。」
そこまで言い終えると、俺は深く溜め息を吐いた。
何しろ、これまでの恋はいずれも、失恋という形で幕を閉じているのだ。
だが、俺もそこまで落ち込む必要も無かったのかもしれない。
気が付くと目の前のハルが、すっかり安心した様子で、こちらを見つめていたからだ。
その顔を見て少しだけ気分を持ち直した俺は、気になった事をハルに尋ねる。
「ところでさ……お前が好きになった子って、どんな奴なんだ?」
今から思えば、これは聞くべきではなかったのかもしれない。
何故なら俺はこの後、酷く打ちのめされる事になるからだ。
だが、俺の勝手な都合など無視するかのように、ハルはとても嬉しそうに口を開く。
「あのね、シンヤ君はぼくと同じで、丸顔で太っててね……。」
その後、ハルが何を話していたのか、まるで記憶が無い。
俺はこの時、込み上げる涙を堪えるのに必死だった。
俺は体質的に太れないのだ。
自分にはまるで望みが無い事を思い知らされた俺は、結局「告白、頑張れよ!お前ならきっと大丈夫だから」とだけ言い残して、その場を去った。

俺はその後、朝までの時間をずっと、独りで泣いて過ごした。
だが、翌日にハルからもたらされた知らせは、俺を更に狂わせた。
告白は失敗だった。
それだけならまだしも、シンヤという男は事もあろうに、ハルに対して面と向かって、気持ちの悪い変態だと、そう言い放ったのだそうだ。
俺は許せなかった。
すぐにでも殴りに行きたかったが、シンヤの居場所を聞いてもハルは口を噤んだまま。
結局何も出来なかった俺は、ただ黙ってハルを抱き締めた。
歯を食い縛って、震える手で泣きじゃくるハルの背中を撫でる。
知らぬ間に、俺の心までもが満たされていく、癒されていく。
それからしばらく経って、ようやく落ち着いたハルは何かを口にした。
よく聞こえなかったので聞き返すと、ハルは悲しそうな顔をして一言、こう叫んだ。
「お願い!ぼくを抱いて!」
愚かで卑しい俺の心の中に、またも嵐が巻き起こる。
考えてみると、絶好のチャンスなのだ。
腕の中に居るハルを本当に抱く事が出来るのならば、俺は死んでも良かった。
そんな事、そんな馬鹿な事、許されるはずも無いのに……。
俺にはそんな権利はこれっぽっちも無いのに……。
そんな事をしたら、もう友達ですら居られなくなるのに……。
なのに、どうして俺は、そんな事……。
しばらくして、どうにか正気を取り戻した俺は、一歩下がってハルの両肩を掴むと、こう言った。
「それは出来ない相談だ。俺には、大切なお前を犯すような真似は出来ない。お前なら、きっといつかいい奴と出逢える。だからそれまで、自分を守れ。そのための協力なら俺、何でもするから……。」
渾身の想いだった。
俺の言葉を時間を掛けて飲み込んだハルは、俺の腕の中でただ、泣きじゃくっていた。
まだ暑い、夏の終わりの夜だった。

その後、一つとても嬉しい事があった。
それからの俺は、大好きなハルと、より一層絆を深める事が出来たのだ。
ハルは俺によく懐き、甘える。
俺はというと、それはもう、嬉しくて仕方ない。
俺はハルの事を、きっと誰よりも愛している。
だからこそ出来る事がある。
そんな想いが、プライドが、俺の全てを支えて、俺を前へと進ませる。
俺は、最近その存在を知った、あの噂の青い鳥なんかに頼らなくても、それでも十分に幸せなのだと痛感しながら、今日もハルに会いに行くのだった。
ここまでお読み頂き、ありがとうございます。
この作品では、愛するハルに人生の全てを捧げた男、シズクの心の内を描いています。
短い作品ですが、自分の中では重要な作品です。
ミルの幽霊がハルの死を伝えた時、何故シズクはミルの伝えたかった事を全て知り得たのか。
そしてシズクは何故、自分の命と引き換えにハルを助ける事を、迷わずに選び取ったのか。
それを知るためのキーとなるシズクの心の内を描いているからです。
同時に、シズクの短い人生の中で、最も幸福な時期を描いてもいます。
短い作品ですが、本伝のキミとボクの詩をお読みになった上で、気軽に楽しんで頂けたら幸いです。