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ナックルボール 2 : スタートライン

リスが居た。
後にナックルと名付けられるそのリスは、東京・多摩地区の林の中に棲んでいた。
その時点では、特に何か特別な能力があるという訳ではなかった。
だが、ある日黒い木の実を食べてから、人間と会話が出来るようになった。
その木の実は、実は宇宙から落下してきた小隕石の中に含まれていたもので、正確には木の実ではない。
人間と会話が出来るようになった一方で、同じリス仲間とはうまくコミュニケーションが取れなくなってしまったそのリス。
まさに痛し痒しである。
結局生きる為に、人に飼われる決意をするのであった。

最初にそのリスを飼ったのは、洋太という中学生の男の子。
「さ、行こう。」
洋太はリスが喋れる事に驚くでもなく、その丸々とした小さな掌を目の前のリスに差し出すのだった。
これはありがたい、そうリスは思っていた。
お礼に掌の上で歌と踊りを披露。
♪チキチキテケテケ、タンタカタンタン♪
洋太、腹を抱えて笑うのだった。
その男の子はリスに、ちぃ太という名前を付けた。
ちぃ太は自分の体が小さい事にコンプレックスを持っていたので、洋太の付けてくれた名前は正直、気に入らなかった。
でも、飼ってくれるというのだからまぁいいだろう、そんな風にも思っていた。

小学生の頃。
洋太は、コオロギを飼いたいと母におねだりをした事があった。
その時の母の険しい表情が、洋太は今でも忘れられない。
結局「駄目!」の一言で話は終わってしまった。

洋太の家に到着。
玄関扉を開けると、母が居た。
羽箒を片手に、お掃除の真っ最中。
洋太とちぃ太に気が付いた母、ギロリとそちらを睨む。
「まさか、飼いたいっていう訳じゃないでしょうね。」
ここでちぃ太が口を挟む。
「そう。僕、歌えるし踊れるよ!」
♪チキチキタンタン、ズンタカタン♪
「嫌ー!気色悪いわ!さっさと捨てて来て!」
「母さん!こんなに可愛いリスを捨てろだなんて!だったら僕も出て行く!」
「もういいわ!好きにするといいわ!その代わり、部屋の外には絶対に出さないで!」
この時洋太の母は、洋太の留守中にちぃ太の事を、掃除機で吸い取ってやろうと思っていた。
だが、そうした企みは全て、ちぃ太には筒抜けなのである。
ちぃ太は考えた。
そして、いざとなったら、泣いてみる事にした。

翌日。
ちぃ太の賑やかな歌と踊りで、爽やかに目覚める洋太。
「ちぃ太、おはょ。今餌持ってくるね。」
実はちぃ太は、洋太がすっきりと目覚める事の出来るタイミングを見計らって、起こしているのである。
階段を降りて台所へと向かう洋太。
「おはよう、母さん。」
「あら洋太、おはよう。今日は早いのね。」
「ちぃ太が起こしてくれたんだ。」
母、洋太に聞こえないようにチッ!と舌打ち。
それはそうと、困った事に昨日ペットショップで買ったちぃ太の餌がないのだ。
「母さん、ちぃ太の餌、知らない?」
「あら、ないの?どうしてかしらね〜♪」
鼻唄混じりでベーコンエッグを作る母。
「まぁいいゃ。こんな事もあろうかと思って、昨日林で木の実をいっぱい取ってきたから。今日もまた取ってこなくちゃ。母さん、ちぃ太の餌、後で買って来てね。」
木の実を与える為に、一旦自室へと引き返す洋太。
その背中を母は、般若の如き表情で睨み付けるのだった。

実は先月、地球は回遊小惑星の話題で持ち切りだった。
そのまま衝突していたら、甚大な被害が出ていたであろう。
だが回遊小惑星は、地球に接近する前に爆発、粉々に砕け散った欠片が地球へと降って来たのだった。
その内の幾つかが大気圏で燃え尽きずに地上へと落下するも被害は出ず、大半は現地で処分された。
だが、目敏い研究者が中に黒い木の実状の物体があるのを発見。
しかし今の地球上の解析装置では正体が分からず、やはり放置されていたのだった。
その木の実状の物体には実は特殊な力があり、その影響は摂取した動物の種類によって様々なのだ。
ちぃ太はたまたまリスだったので、人間と話せるようになったり、近くの未来や過去が見えるようになったりしたという訳だ。
また、この物体の影響でちぃ太は、寿命も大幅に延びた。
隕石が落ちたのが日本ではたまたま、多摩地区の林の中の一箇所だけだったので、その物体を食べたのはちぃ太を含めてもリス二匹だけであった。

朝食を食べた洋太は、明るい表情で登校する。
「行って来まーす!」
無言の母。
さぁ、お掃除の時間がやって来た。
もちろん最初に片付けるのは、洋太の部屋だ。
この家には今時珍しくセントラルクリーナーが備わっているので、二階の洋太の部屋へと持って上がるのは、ホースとヘッドだけで良い。
徐に洋太の部屋の扉を開ける母。
入るなり、ちぃ太がコミカルな歌と踊りを披露する。
が、母にとってはそんなものは薄気味悪いだけで、正直言って見たくもなかったのだ。
部屋の壁の差込口にホースを繋ぐと母は、薄気味悪い笑みを浮かべながら一言。
「さぁ、これで終わりよ!」
その時だった。
ちぃ太の目から大粒の涙が次から次へと、溢れ出るのだった。
嘘泣きではない。
当初は演技で泣くつもりだったのだが、恐怖のあまりに勝手に涙が出て来て、止まらなくなったのだ。

その頃、学校では。
「おはょ、蓮太。」
「おはよっす、洋太。」
蓮太とは、洋太の親友である。
実は蓮太は洋太に恋をしていた。
洋太が色恋沙汰とは無縁だったのでまだ告白はしていないが、常にタイミングは見計らっている。
そんな折。
「僕、歌って踊れるリスを飼い始めたょ。賢いからケージなしでも飼えるんだ。」
「何言ってんだ、お前。」
大笑いである。
しかし洋太、めげない。
「ほんとだってば。嘘だと思うなら、帰りに寄ってみるといいよ、うちに。」
「まじなのか!?」
という訳で、放課後の予定が決まった二人なのであった。

一方、洋太の部屋では、母がちぃ太と相対していた。
殺すつもりだったが、目の前で泣く姿に動揺している。
「うわぁー!殺さないでー!」
ちぃ太は、号泣していた。
そこでふと、母性が目覚めた。
ちぃ太の事を、可愛いと思い始めたのだ。
こうなると話は早い。
「新聞紙じゃあんまりだから、トイレを用意しましょう。餌も買って来なくちゃ。お留守番お願いね。」
「うん!待ってるょ〜。」
一転してすっかり元気になったちぃ太、陽気に歌い踊る。
♪ぴぃひゃらら〜♪

そもそも洋太の母が動物嫌いなのには、理由がある。
洋太の母・加寿美は、ある帽子をとても大切にしていた。
だが、まだ加寿美が小学生の頃に、事件は起こる。
それは、休日に父とデパートへお出掛けする時のこと。
普段はケースに入れて高いところに大切に保管してあった帽子を、机の上に置いてトイレに行ってしまった。
痛恨の、まさに失敗であった。
加寿美がトイレに行っている間に飼い猫が帽子にマーキング。
その帽子は加寿美にとっては、既に病で空の星となっていた母の大切な形見だったのだから、たまらない。
トイレから戻って来た加寿美、絶句ーー。
次の瞬間であった。
加寿美は猫に執拗に暴行、死なせてしまう。
その一部始終を見ていた父は恐ろしくなって、加寿美を子供の居ない親戚に預けてしまうのであった。
もちろん事実は伏せて、適当な理由を作ったのである。
猫の亡骸は庭に埋めた。
親戚は子供が欲しかったのに出来ないでいたから、それはもう可愛がってくれた。
加寿美もそのお陰で徐々に立ち直っていったが、動物嫌いはこの日までずっと直らなかったのだ。
今では加寿美も、父と談笑出来る。
でもどうしても、母の大切な形見を奪った動物が、許せないーーそんな思いが消えないでいた。
だから、ちぃ太の事を可愛いと思ったのは、加寿美自身にとってもそれはもう、意外な事であった。

洋太が帰宅。
蓮太も連れて。
「ただいまー。」
「ちわっす!」
そこへ、先程ペットショップから帰宅して家の掃除も終えた加寿美が応対。
「お帰りなさい。二人共、カップルみたいね。まぁいいわ。ちぃちゃんの餌とトイレ、買って来たわ。餌、今度は部屋に置いたから、便利でしょう。」
「ありがとう、母さん!」
隣では、蓮太が顔を真っ赤にしている。
が、これはまだ序の口であった。

蓮太は、強かった。
それは幼稚園の頃から、ずっとだ。
洋太とは幼馴染だったが、初めはそこまで仲が良かった訳ではなかった。
仲が深まったのは小三の頃。
洋太がいじめられるようになったので、助けたのだ。
柔道と合気道の得意な蓮太に敵う相手は、誰も居なかった。
実は蓮太の初恋の相手は、洋太なのだ。
好きだったから、助けた。
それだけの事。
何もボランティアでやった訳ではない。

部屋に入ると、ちぃ太が歓迎してくれた。
「さぁ二人とも、入って入って!」
あれ、ここは僕の部屋なのにな、などと呑気な事を洋太が思っていると。
「ねぇ洋太、蓮太と付き合っちゃいなょ。お似合いだょ。どうせもうすぐ洋太も蓮太に恋するんだし、早い方が良いょ!」
二人共、固まった。
だが、次の瞬間。
蓮太の手がそっと伸びて、洋太の手に触れた。
ここで初めて、自分の気持ちに気付く洋太。
「あ、僕、蓮太の事、好きみたい。」
そこへノックもなしに入ってくる加寿美。
お茶とお茶受けを持って来たのだ。
「あら〜。やっぱり、愛し合ってるのね。別に良いけど、蓮太ちゃんのお父さん、確かそういうのには厳しかったはずだから、二人とも上手くやるのよ。じゃ。」
扉が閉まる。
そこからなだれ込むように、二人は抱き合うのだった。

初体験を終えた二人。
仲睦まじく、お喋り。
「うちの担任、ゲイっぽいよな。」
「そうだね。見る人が見ればすぐに分かる感じ、かな。」
「冬でもハーフパンツとか、止めればいいのにな。」
「そだね。」
二人して笑った。
楽しい時間。
そこへ、またもや。
「蓮太ちゃんのお母さんには連絡入れといたから、今晩お夕飯一緒に食べなさい、蓮太ちゃん。あと、部屋の換気はしっかりね。」
これに切れたのが洋太だ。
「ノックもしないで何度も!いい加減にしてよ!」
「あら、別に良いじゃない。悪気はないんだし。あなた達だって悪い事している訳じゃないでしょう?まだ中学生なんだから、隠し事は駄目よ。」
言い返せない洋太。
仕方ない。
まだ半人前の身、そもそも未成年。
大目に見てくれているだけでも、ありがたいのだ。

二人でテレビゲームをしていると、ちぃ太が何やら言いたげにしている。
「どうしたの?」
「ぼく、散歩に行きたい。二人はここで待ってて。」
僕はちぃ太を、玄関まで抱き抱えて連れて行く。
「気を付けるんだょ。」
「大丈夫、すぐに戻るから!」
この時の洋太には想像もつかなかった。
まさかもうすぐ、ちぃ太とのお別れがやって来るなんてーー。

道中、ちぃ太は泣いていた。
向かう先は、蓮太の家。
時刻はそろそろ、午後七時。
頭の固いお父さんも、帰宅している時間だ。
蓮太の家の玄関先で。
ちぃ太は声を張り上げる。
「ごめんくださーい!」
出て来たのは、お母さん。
この人は、ゲイを差別しない人。
だから今は用がない、すぐにちぃ太はそう悟る。
「僕、蓮太君の友達のリス。お父さん、呼んで欲しいんだけど。」
蓮太の母、驚きのあまりに腰を抜かしてしまった。
ちぃ太はとりあえず、精一杯歌い踊ってみる。
♪ズンタカタッタ、ズンズンチャッ♪
するとそこへーー。
「何だ、騒がしい!」
やって来たのは本丸、蓮太の父。
早速、用件を伝えるちぃ太。
「あなたは差別主義者だょ。そう言われたくなければ、蓮太君がゲイである事を認めてあげないと!」
「蓮太がゲイだと!?有り得ん事だ。忌々しい化け物め。踏んづけてやる。」
ちょこまかと逃げ回るちぃ太ではあったが、遂に蓮太の父によって踏み潰されてしまう。
瀕死の重傷だ。
とどめを刺そうとする蓮太の父。
「あなたやめて!蓮太がゲイで何が悪いの!動物虐待までして、こんなに可愛いリスを!それ以上やったら離婚よ!」
するとあんなに勢いのあった蓮太の父が、肩を落とした。
「分かったよ。孫の顔、見せてくれるの期待していたんだ。すまん。」
ちぃ太はひと仕事終えると、重たい体を引きずって、隕石のある林へと向かおうとする。
だが、身体が痛んでなかなか前へと進めない。
「私が夜間救急対応の動物病院まで連れて行ってあげる。」
蓮太の母はそっとちぃ太を持ち上げると、旦那に車を出すようにと指示を出す。
蓮太の父、奥さんには弱いのだ。
蓮太の母は、蓮太と洋太にも連絡を入れる。
途中、車に乗り込んで、皆で動物病院を目指した。

ひとまず、一命は取り留めた。
ちぃ太は言う。
「ここで僕が出来る事は、これでお終い。目障りだろうからね。退院したら、元居た林に放って欲しい。」
「目障りだなんて、そんな……。」
洋太は泣き出すが、ちぃ太の決意は固い。
またぞろ同じような事が起きたら、蓮太一家は崩壊するかもしれないのだ。
人間なかなか変われるものではない。
蓮太の父の頑なさが変わったかどうかも分からないのが、心残りではあるーー。
「蓮太、洋太くん。仲良くするんだぞ。お前達の事だ。きっと上手くやれる。感謝するならそこのリスにするんだな。」
蓮太の父の言葉に蓮太と洋太、号泣である。

退院の日。
実はまだ少し痛むのであるが、林までは何とか歩けそうだ。
ここでいいというちぃ太に、蓮太と洋太が手を振る。
「ありがとうー!またいつでも遊びにおいでー!」

実は蓮太の家に向かう時点で、ちぃ太は己の未来を察していた。
瀕死の重傷を負う事も、蓮太と洋太が晴れて両家の両親公認の仲となる事も、そのまま居れば蓮太の父の癇癪により今度こそ助からない事態となる事も。
残念ながらちぃ太のちょこまかとした動きと甲高い声は、蓮太の父にとっては気に障るものでしかなかったのだ。
ちぃ太にとっても死ぬのは怖い。
だからこそ、泣いていた。
ちぃ太が蓮太の家に向かう途中での事だ。
何よりこれ以上蓮太と洋太を傷付けてはいけない。
だからここから去るのが、ちぃ太にとっては最善策なのだ。
季節は晩秋。
冬がやって来る前に、出来れば新しい飼い主を見つけ出したい所だった。
ちぃ太は分かっていた。
泰治と成太郎を救うのが、自分に課せられた使命だと。
でも、刻一刻と未来は変わる。
出会えなければ、意味がない。
さて、どうするかーー。

そこへ、優しそうな青年がやって来る。
泰治だ。
ベンチに座ったので暫し様子を伺うが、穏やかな様子。
ただ、随分と表情が暗いので、声を掛けてみる事にした。
「ねぇねぇ、そこのお兄さん。悩み事?」
この後、ちぃ太は泰治の家でナックルという名前に変わる。
野球好きの泰治が、もちろん名付け親だ。
ナックルは、とても嬉しかった。
ちぃ太という名前が最後まで気に入らなかったので、喜びもひとしおなのだ。
ナックルは泰治に、自分を飼ってくれるようにと盛大にアピールをする。
結果は、成功。
あとは二人にそれぞれ、結婚を勧める事が出来れば、二人の命は助かる。
もちろん、ナックルの命もだ。
本当は成太郎の両親の考え方を変える事が出来れば、それに越した事はないのだが。
特に母親、頑固過ぎて駄目だ。
やるだけ、時間の無駄。
みんなも危険になる。
成太郎の両親は放っておいても今から二十二年後に他界するから、子供の大学卒業の時期も見越して、丸二十三年は結婚生活を続けてもらわねばならない。
いきなりその事を明かしても抵抗されるだろうから、とりあえずは三年を目途にしようとナックルは考えていた。

未来は、分岐する。
ターニングポイントがあるのだ。
今、蓮太と洋太は幸せだ。
ちぃ太は、無事にその役目を終えたのだった。
これからはナックルとして、泰治達を支えてゆく。
長い長い遥かな道のりだが、間違いなく幸せになれる筈だ。
未来が、手に取るように分かる。
ただ、成太郎だけはしばらくの間、辛いのだ。
ナックルは、そこは申し訳なく思っていた。

泰治と幸恵、結婚丸二十三年。
ナックルは、まずは幸恵に話をした。
「怒らないで、しっかりと聞いてくれる?大切な事を、話したいんだ。」
「何?ナックル。」
「泰治さん、実はバイセクシャルなんだ。」
このやり取りの後、一瞬目を見開いた幸恵。
だが、その直後には平然とした表情を取り戻していた。
「私の事、好きだったのよね、彼。」
もちろん、ナックルは何度も首を縦に振る。
「ならいいの。で、その話には続きがあると思うんだけど、聞かせてもらえる?」
ナックルはいよいよ核心に迫った。
「泰治さんを大好きな男の人が、ずーっと待っているんだ。それを知っていても尚、泰治さんは幸恵さんを選んで、お店まで出してあげた。そろそろいい頃合い、じゃない?」
「分かった。それもそうね。私は十分に幸せだから、今度はその男の人が幸せになる番なのかも知れないわね。」
その晩、ナックルは幸恵の布団で共に寝た。
ふと、幸恵が呟く。
「ありがとう、ナックルーー。」

翌日、散歩に行くと言って、ナックルは一匹だけでとある場所へと向かった。
それは、成太郎の住む家だった。
つい先日奥さんと離婚をして、今はアパートで一人暮らし。
正直、成太郎の泰治への気持ちは、萎えかけていた。
だからこそナックルは、成太郎の元へと向かわねばならなかった。
幸い、部屋は一階。
窓をコツコツと叩いて、開くのを待つ。
やがてサッシががらがらと音を立てて開くのを見計らって、ナックルは声を放った。
「泰治さん、今年の秋にはやって来るょ。もうすぐ泰治さんと奥さん、離婚するんだ。だから、気を確かに持って!しっかり!」
成太郎は、リスが喋っているという事実には驚きもせずに、ただおろおろと泣くばかりなのであった。

そして最後にナックルが向かったのは、泰治の元。
泰治が一人で居る時間を見計らって、話し掛ける。
「そろそろ、いいんじゃない?」
「何が?」
「幸恵さんとの離婚だょ。」
「そうか。」
これで、たったこれだけで全てのやり取りが終わった。
こうして、泰治と成太郎は結ばれる事となる。
ナックルは、泰治の元で骨を埋めようと思っていた。
それが自分なりのけじめのつけ方だと、信じていたのだ。
約束の日の晩秋へ向けては、まだ夏がある。
暖かくて優しい風が泰治とナックルの頬を撫でる、そんな春の日の、大きな大きな、しかしささやかな出来事であった。

-完-

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ナックルボール : 二十四年目のプレイボール

(一)

近くの公園で。
舞い降りた紅葉を踏み締める。
くしゃり、くしゃりと音を立てて葉が潰れてゆくのを確認しながら俺は、迷っていた。
あの子からの告白を受けるか、蹴るか。
良い子だ、確かに。
見た目も素敵だ。
だが、果たして俺はいつまでこんな事をしているのかーー。
俺がゲイである事を、両親は既に知っている。
その上で、理解も示してくれた。
それでも尚、罪悪感は残る。
俺は一人っ子なのだ。
孫の顔位は見せてやりたい。
このままでは、それも叶わないーー。
俺は溜め息をひとつ吐くと、近くのベンチに腰を下ろした。

あの日、俺はあの子の前で暗い顔を見せてしまっていた。
「お願いです、ぼくと付き合ってください!」
そう言われた俺の顔は、残念ながら曇っていた。

「ねぇねぇ、そこのお兄さん。悩み事?」
ベンチに腰掛けて小一時間。
何処かから声がする。
何事かと思って辺りを見回すも、居るのはリス一匹。
まさかね。
そう思って目線を逸らすと、また声がする。
「ねぇお兄さん、僕を飼ってくれれば今よりもちょっとだけ、幸せになれるよ。」
やはりここには、木の実を抱えたリスしか居なかった。
驚いた。
もしかしたら俺、気が変になったのかも。
「お兄さんは大丈夫。僕、喋れるょ、ほら。」
そういうと目の前の小さなリスは、歌いながら踊ってみせた。
その様があまりにコミカルなので、俺は思わず笑ってしまった。
「ね、決まり!お兄さんちに連れて行ってょ。良い仕事するょ!」

という訳で、何となく惰性で連れて来てしまったこのリス。
そういえば名前も知らない。
聞くと、付けて欲しいという。
なので俺は適当に、ナックルという名前を付けてやった。
俺は野球が好きなのだ。
「ありがとう!お兄さんの名前は?教えて!」
「俺の名前は槇原 泰治。ヤスで良いょ。」
「OK!今から未来を占ってあげる。ヤスの好きな人の名前を教えて!」
俺はあの子の名をナックルに教えた。
あの子は、その名を成太郎といった。
「ジャン!成太郎とは、三年後に付き合い始めると良いょ。三年だけ、待ってもらいなょ。」
開いた口が塞がらない。
何を言っているのだ、こいつは。
などと思っていると、ナックルは言う。
「成太郎、両親からお見合いを勧められているんだ。成太郎の両親は今時珍しい位に保守的な人達だから、仕方ないね。三年あれば、子供を一人作って離婚する位の事は、出来るでしょ。付き合う前に、ひと仕事させてあげれば?」
頭がぐるぐると回り出す。
混乱の極みだ。
そこへナックルによる、とどめの一撃。
「ヤスもその間に結婚して、子供作っちゃいなょ!」
その発言に、暫し呆然。
しかし、よく考えてみればそれも一理ある。

翌日、公園で。
呼び出した成太郎を前にして俺は、淡々と告げる。
成太郎は、泣いていた。
そして、ただ無言で、しかしじっと逸らす事なく、俺の事を見つめていたーー。

ナックルによるとそれからすぐに、成太郎は結婚したようだ。
両親はとても喜んでいたらしい。

空が青い。
風景の凛とした色彩、そしてツンとした空気感。
まさに晩秋。
「ヤス、何考え込んでるんだょー。どうしたの?」
物憂い感情を切り裂くナックルの声、正直言って鬱陶しい。
だが、放置するのも何なので、答えておく事にする俺。
「成太郎、どうしたかなって。結婚生活、上手く行ってるのかな。心配だ。」
「ヤスは結婚しないの?」
「急かすなょ。何も考えていない訳じゃないょ。携帯で相手探しでもしようかと思ってさ。でもそんな事して、ウチの親は喜ぶのかな?」
疑問に思っていた事。
ゲイである事を両親から咎められた事は一度もない。
俺の秘密を知っていて、その上それを受け入れていて、それでも尚結婚を期待する、俺の両親はそんな人達だったろうかーー。
それが引っ掛かって、前へと進むのを躊躇するのだった。
と、ここでナックルがとんでもない発言。
「明日、会社の同僚の女性社員から告白されるょ。ご両親にはバイだったって説明して、お付き合いすると良いょ。積極的な女の子だから、すぐに結婚出来るょ。」
これにはもう、呆れて物も言えない。
「あのなぁ。如何にも急過ぎるし、大体子作りはどうするんだ?女の子相手では俺、勃たないぞ。」
「大丈夫!シアリスやレビトラがあるから!一旦勃たせてしまえば、もうこっちのもんさ!」
「そういう話かょ……。」

その晩。
ナックルのせいで眠れない。
あいつめ、どうしてくれよう。
腹が減ったのでカップ麺を食べようと部屋の明かりを点けると、ナックルがケタケタと笑っていた。
「んがぁー!」
リス相手に思わずキレてしまう俺。
大人げない。
「まぁまぁ、木の実でも食べなょ。これで機嫌直して。」
「要らねぇょ!」
完全におちょくられている。
ここは我慢だ。
動物虐待はいけない。
早くお腹を満たして、歯を磨いて寝るんだ。

で、翌朝。
頭が痛い。
会社、休もうか。

もう十年は経つだろうか。
初恋の相手が男だったと知って、俺は狼狽えてのたうち回っていた。
もちろん、告白など出来よう筈もない。
あまりに取り乱していた為か、母が見かねて尋ねてきた。
「どうしたの?何かあったの?」
俺は咄嗟に、言ってはいけない、そう思った。
だからそのまま黙っていると、不意に涙が零れた。
そうしたら母は俺の肩を抱いて、「言わなくちゃ分からないでしょ。泣き止んでからでいいから、話してみて。大丈夫、何があっても怒らないから。」、そう諭してくれた。
俺は悩んだ。
だが、母の真っ直ぐな眼差しにやられた俺は、信じてみる事にした。
俺は言う。
「実は俺、病気なんだ。男に恋をした。病院にでも何処にでも行くから、頼む!許してくれーー。」
その時だった。
母は、思い掛けない事を囁いた。
「大丈夫、あなたは悪くない。性は自由なの。あなたが異性愛者であろうと同性愛者であろうと両性愛者であろうと、私はあなたを愛しているわ。関係ないのよ、そんな事。将来気が変わって結婚したくなったら、報告してね。そうでなければ、自由にして良いのよ。いちいち報告も要らないわ。大丈夫!親子だもの。絆は強いのよ!」
俺は母に寄り添う格好で、嗚咽を漏らしていた。

そうだ!
俺の両親ならきっと、分かってくれる筈だ。
俺は己を奮い立たせて、出社する事にした。
そもそも学生ではあるまいし、気が乗らないのでフケようというのも、無理筋な話なのだ。
「ヤス、ドンマイ!」
見るとナックルが、木の実を抱えながら俺をお見送りしてくれている。
『呑気なもんだ。』
とはいえ満更でもなかった俺は、笑顔のナックルに手を振って家を出た。

出社して、お昼休み。
スレンダーで爽やかな雰囲気の同僚女性社員が、俺のデスクに近付いてくる。
「あの……。もし良かったら、お昼ご飯一緒に食べませんか?」
来た来た。
運命の誘いだ。
ここで断る事も出来る。
だが俺は、ナックルの判断を信じようと、この時思った。
「良いょ、何処行く?近くのイタリアンは並ぶから、平凡だけども中華で良い?奢るからさ。」
「はい、ありがとうございます!嬉しい!」
女性社員の顔が見る間にパッと明るくなった。
デブ専なのかな、この子。

中華屋で、二人してサンマーメンを啜る。
美味い。
この温かさ、今の季節にはちょうど良い。
付け合わせの餃子もまたGood。
しかし探れど探れど、会話の糸口が見つからない。
興味がないのだ。
そんな時。
話し始めたのは、彼女の方だった。
「槇原さん、ご趣味はありますか?」
まさか男漁りとは言えまい。
どうしたものか。
まぁ、とりあえず幾つか挙げてみよう。
「昔高校球児でキャッチャーやってたんで、野球を観るのは好きだょ。でももう晩秋だしね。他には、家の図面を見るのも趣味。そうそう、居酒屋は好き?俺は良く行くんだ。」
「はい、私も居酒屋好きです!ざっくばらんな雰囲気、良いですよね〜。」
明らかに話を合わせにいっている。
だがまぁいいだろう。
こんな俺の壮大な茶番に付き合わせるのだ。
少しは喜ばせてあげないと。

気が付くと、お昼休みも残り僅か。
俺達は連絡先を交換して、会社に戻った。
彼女とは部署が違うので、そこで一旦別れて帰りに合流。
行きつけの居酒屋に向かう事となった。

居酒屋で。
お通しを食べながら。
「お酒は何を飲まれますか〜?」
陽気な彼女の声。
酒を飲む前から酔っているかのようだ。
「ビールに日本酒。それがメイン。後はワインを少々。焼酎とハイボール、それにウイスキーは苦手。そっちは?」
「あ、私もおんなじような感じですよ〜。特にワインが好きです。でもとりあえず、ビールで乾杯しましょうか。」
話が早い。
ここは同じ社会人同士、セオリーを分かっている。
二人して生の大ジョッキを注文。
あとは刺身の盛り合わせとつくね、焼き鳥を何本か。
メインは後ほど、鍋の予定。
それにしてもこの子、結構飲むのな。
まぁその方が結婚してからも退屈はしないからいいだろう。
「はい、生大お待ちどうさま〜!」
「は〜い、ありがとう〜!」
率先して受け取る彼女。
これはいい。
何より、楽だ。
「どうぞ、槇原さん。かんぱ〜い!」
「乾杯!」
彼女何と、大ジョッキを一気に半分も飲み干したではないか。
しっかりしないと。
先にこっちが酔い潰れてしまう。

昔、遊園地に行った。
親子三人で、仲睦まじく。
週末だったので、中は人でごった返していた。
風薫る季節。
それでも、人混みはしんどかった。
まだ子供だった俺はぐずった。
しかし、俺の両親は嫌な顔一つせずに、辛抱強く俺をなだめてくれた。
その時、発売されたばかりのアイス、確かチョコクランチアイスバーだったかな、それを買ってくれたのだっけ。
甘くてとても美味しかったのを覚えている。
もしも人の親になるとして、果たして俺は自分の子供に何をしてやれるだろうか、どんな背中を見せてやれるだろうかーー。

椅子に座り直す。
いつの間にか気分が悪い。
ふと気が付くと、さっきまで笑っていた彼女の様子がおかしい。
そわそわして、焦点が定まらないのだ。
次の瞬間、彼女、即ち幸恵の言葉が、辺り一帯の空気を切り裂いた。
「槇原さん、私と付き合ってください!」
それに対して、咄嗟に出た次の一言が自分でも思いがけなくも思えたが、それは良くも悪くも次なる俺の未来の到来を告げるものだった。

「いいよ。」

幸恵は、喜色満面の様子で「ほんとに?」と返して来た。
だから俺は、黙って大きく頷いた。
この時に俺の覚悟は決まった。
もしかしたらこれは三年では済まないーーそんな予感もあった。

そして、週末がやって来る。
俺は幸恵をテーマパークへと誘った。
六年ぶりのテーマパーク。
前に来た時は、まだ大学生だった。
知り合ったばかりの成太郎と意気投合して、気合いを入れて臨んだのだっけ。
結果は惨敗。
三時間待ちの行列に耐えかねて、俺達は喧嘩を始めたのだった。
今度はその二の舞にしてはいけない、何となくではあるがそう思ってはいた。

開園三十分前に到着。
ゲート前は既に人でごった返していた。
入場するなり俺は、彼女の手を引いて走る。
人気アトラクションのフ◯ストパスを取る為だ。
彼女も今日はスニーカーで来てくれたから、大丈夫だ。
息を切らしてフ◯ストパスを取ると、すかさず今度は行列の少ないアトラクションに並ぶ。
この日は、俺が事前にガイドブック片手にシミュレーションした通りに動いていた。
体力が残っている夕方までにアトラクションを楽しんで、夜はパレードに専念するのだ。

幾つかのアトラクションを回って、お昼の時間がやって来た。
時間をずらしても良さそうなものだが、腹の虫が鳴いている。
結果、行列しているセルフサービス式のレストランに並ぶ事にした。
「大丈夫?」
気になっていた事。
ここまで振り回しっ放しだったのだ。
胸がちくりと痛む。
だが、こんな状況でも幸恵は嬉しそうで。
「平気、平気。せっかくだから、まだまだ楽しみましょ!」
良かった、本当に。

その後も休憩を挟みながら、幾つかのアトラクションを回った。
夜のパレードは、それはもう綺麗だった。
喧嘩して早々に帰った為に六年前には観られなかったパレードを、どういう訳だか幸恵とこうして観ている。
その因果が不思議で、ただ恨むでもなく、感じ入るのだったーー。

帰宅の時刻、到来。
今日は久々に楽しめた、そんな気がした。
成太郎が結婚してから週末につるむ友達も居なくなっていて、時間を持て余していたのだ。
や、俺もしかして、バイなのか?
そんな疑問が頭をもたげたが、とりあえずの所は気にしないでおく事にした。
車で来たので、幸恵の住むマンションまで送ってやる事にする。
気が付くと、幸恵の表情が心なしか暗い。
だから俺は切り出した。
「来週末、マンションのモデルルーム見学にでも行こうょ。二人で住めるといいね。」
すると幸恵の表情がパッと明るくなって、はい!と小気味良い返事が返って来た。
我ながらちょっと急ぎ過ぎているかな、とも思ったが、勢いで突っ込まないと気が萎える、そんな気がしていた。
幸恵は一人暮らしだから門限はない。
その点は気楽だ。
「じゃ、またね。」
「はい!またお会い出来るのを楽しみにしてます!」
相変わらず快活な子だ。
気分は悪くない。
やっぱり俺、バイだったのかも。
二十代も半ばに差し掛かって、ようやくその事に気付き始める俺、鈍いにも程がある。
でも俺、勃つかな?
そんなゲスな考えが頭をもたげる。
正直自信はない。
でも、やってみるしか。

小学生の頃。
教室の床に鉛筆が落ちていた。
俺はほんの悪戯心で、近くの女の子の机にそっと忍ばせた。
その子なら大丈夫だと思っての、ちょっとした出来心だった。
それだけの事だ、なんて事ない、そう高を括る俺に、現実は厳しかった。
帰り掛けに担任に呼び出されて、ガンガンやられた。
それ以来、女の子には見向きもしなくなった。
初恋の前の事だ。
それからの俺は自然と、自分の事をゲイだと自認するようになった。
それから十数年が経過して、それは俺の確固たるアイデンティティとなっていた、筈だった。
だから俺は今更ながら、困惑していたのだ。
今まで一度も女の子の事をそんな目で見た事はないというのに。
恋愛の対象はいつだって男だったというのに。
或いはこれは、恋愛とは別種の感情かもしれないーー。
そう考えれば説明が付く。
きっとそうに違いない。
このようにして俺は結局、自分の気持ちの在り処に長い事蓋をする道を選んだ。
バイだと感付いていたのにだ。
それが良かったのかどうかは、もちろん決して分からないまま。

帰ると、ナックルが起きて待っていた。
ナックルは相変わらず陽気な声とひょうきんな動きで、俺を和ませてくれる。
「ねぇねぇどうだった?女の子と、上手くいった?」
俺が大きく頷くと、ナックルは木の実を持ったままで器用に歌い踊り始めた。
この時はまだ複雑な心境でもあったが、次第に笑いが込み上げてくる。
気が付くと、俺は腹を抱えて笑っていた。
ナックルのお陰で、その晩はとても良く眠れた。

次の週末は、約束通りにマンションのモデルルーム巡りをした。
終始ウキウキとした彼女の表情が、印象的だった。
個人的にはタワーマンションが良かったが、明らかに予算オーバーだ。
まだ結婚すると決まった訳でもないが、いつの日か幸恵と離婚をした後も、住み続けるつもりでいる。
そもそも幸恵には、子育てをしてもらわねばならない。
稼ぎ頭は、俺となるのだ。
だから、もう少し安い物件でなければ。
俺が気に入ったのは習志野の物件だ。
「ねぇヤス、ここにしない?」
俺の心情を察したのか、幸恵は随分と推して来る。
幾ら何でも性急過ぎると思った俺だが、不動産会社の営業担当の見事なセールストークの効果の甲斐もあってか、商談の席に着く事になってしまった。
いざそうなってしまうと人間脆いもので、あっという間に必要書類に判を押してしまっていた。
契約成立だ。

居酒屋で食事を済ませて現地解散、俺達はそれぞれ帰路に就いた。
入居予定日までにはまだ十ヶ月も間があるので、その間は互いの家を行き来する事になる。
そういえばまだSEXもしていない。
次のデートで、幸恵と会うのは三回目になる。
この成り行きだ。
そろそろだろう。
ED治療をしてくれる外来を、探しておかねば。
時間がない。
俺は電車の中でスマホを取り出すと、医者を検索にかけるのだった。
明日早速、予約を入れてみよう。

俺、何やってんだろうな。

(二)

成太郎は、恋をしていた。
相手は、泰治。
大学に入ってからの友達だった。
想いを隠し通すのに、必死だった。
毎夜、布団に包まって独りで、泣いていた。
両親はとてもゲイに理解がありそうには見えなかった。
というよりも、毛嫌いしているようなのだ。
この間も、成太郎に母が言ったのだ。
「ね、お隣りの山田さんとこの息子さん、ホモなんですって!いやーよねぇ。気持ち悪い!」
これではカミングアウトも出来ない。
ましてや成太郎は一人暮らしを認めてもらえず、実家暮らしだ。
ゲイとしての活動など、出来よう筈もなかった。
そんな中での、泰治への叶わぬ恋。
何年もの間ひた隠しにして、内で温めて続けていた想いが、爆発しそうになって。
成太郎はようやく、泰治への告白を決意する。
ちょうど時を同じくして、母親が喜び勇んでとある見合い話を持って来た。
「ね、成太郎!これ、素敵でしょ!絶対に断っちゃ駄目ょ!これと結婚すればお父さん、出世しちゃう!嬉しーい!」
これ呼ばわりである。
ここに成太郎の母の心境が良く表出していた。
その場ではポーカーフェイスを貫いた成太郎だったが、内心では怒り狂っていた。

成太郎は決意した。
泰治への告白が成功したら、一緒に逃げようと。
何処までも逃げようと。
失敗したら、母の見合い話に乗ろうと。
その夜、成太郎は独りで、咽び泣いていた。

幼い頃。
成太郎は、男の子を好きになった。
その子は、久之と言った。
久之の事を想うだけで嬉しくなって、成太郎はウキウキしながら母に言った。
「お母さん、僕久之君の事が好きになっちゃった!とっても可愛い子なんだょ!」
次の瞬間だった。
バチン!バチン!バチン!バチン!バチン!バチン!
成太郎は母から、往復ビンタを三回も受けたのだった。
「男が好きだなんて、金輪際言うな!今度言ったら、叩き出す!あんたは私の決めた相手と結婚して孫を作って、親孝行するのー!」
それ以来成太郎は、誰を好きになっても決して口には出さなかった。
好きになるのは全て、男だったからだ。

それ以来、何人かの男を好きになった成太郎だったが、いずれの場合でも想いを打ち明ける事は叶わなかった。
いつでも母の怒り狂った顔が思い浮かんで、告白どころではなくなっていたのだ。

結婚式前夜。
成太郎はドアノブで首を吊ろうとした。
だが、内臓が痛くなるばかりで、死ねる気配がなかった為に断念。
ひたすら、嗚咽を漏らすばかりだった。

翌日。
微塵も好きではない女と、誓いのキスをした成太郎。
悔しくて、涙が溢れた。
そこへ間髪を入れずに、「良かった、良かった!」という父と母の声が聞こえる。
成太郎の頭の中にはこの時、「鬼」の一文字が浮かんでいた。
もちろん、己の両親を指しての言葉である。

この時だった。
告白への返答があった際に、泰治が言っていた事を思い出したのだ。
「俺も多分、結婚する。三年経ったら、また会おう。その時にはきっと、付き合える筈だーー。」
また涙が溢れた。
なに、三年の辛抱だ。
訳ない。
そう無理矢理にでも思って、成太郎は己を奮い立たせていた。
長い長い、孤独との戦いの、これが始まりだった。

成太郎の妻は、瑞恵と言った。
勝気で、おっとりとした性格の夫の成太郎を、しばしば振り回した。
性行為は問題なかった。
妻にはEDだと言ってあり、行為のしばらく前に成太郎は堂々とシアリスを飲むのだった。
一旦勃たせてしまえば、萎えにくいのである。
ただ成太郎にとっては、やはり抵抗は強かった。
しかし、それだけである。
我慢すればいいのである。
少なくとも成太郎の両親にとっては、これはそれだけの話でしかなかった。
SEXや恋愛感情の事など、成太郎の両親にとっては取るに足らない、瑣末な事だったのである。

最後に泰治と会った時、つまり告白への返答を聞いた時、言われていた事が実はもう一つあった。
「三年後の今日、夕方六時にこの公園の銅像の前で待ってる。約束だ。きっと守る。だから連絡はしないで欲しい。約束してくれ。」
成太郎は大きく頷いて、大粒の涙をポロポロと零した。

あと三年ーー。
このフレーズだけが、孤独な成太郎を支え続けた。
心を許せる者は、誰も居なかった。
やがて出来た子供は可愛かったが、いちいち双方の両親がおもちゃを持って乗り込んでくるので、鬱陶しい事この上なかった。
子供は、男の子だった。
それもあって、親類縁者皆が可愛がっていた。
その輪の中に成太郎一人だけが、入れなかった。
望んで作った訳ではない、そんな意識に絡め取られて、素直に接する事が出来なくなっていたのだ。

結婚から三年ーー。
喜び勇んで、公園の銅像前に向かう成太郎。
だが、待てど暮らせど泰治はやっては来ない。
嗚咽を漏らしながら深夜になって、そうっと帰宅するのだったーー。

それから毎年、その日の夕方になると成太郎は、銅像の前で立ち尽くすようになった。
幾ら待っても、誰も来なかった。
それでも、めげなかった。
毎年毎年、ただひたすら、待ち続けた。
祈りを込めて、心から待ち侘びていたーー。

(三)

俺と幸恵は、SEXを済ませた。
その場でプロポーズ。
「こんな時にプロポーズだなんて、雰囲気も何もないじゃなーい!」などと言われたが、予想通り結果はOK。
俺の住んでいるマンションの部屋の間取りは、2DK。
幸恵はワンルーム住まい。
とりあえず一緒に住むなら、俺の部屋だ。
ただそうなると、幸恵が会社から遠くなってしまう。
どうするか。
俺は話を振ってみる事にした。
「どうする?とりあえずここで一緒に住むか?」
「うん!そうしたい!」
即答だった。
そういえば、言葉遣いが微妙に変わっている。
まぁ、そんなものなのだろう。

次の日、両親に報告。
「もしもし、母さん。泰治だよ。俺、バイだったみたい。好きな女の人が出来たから、結婚する事にした。プロポーズはもう済ませてある。今度挨拶に行くから、よろしく。今まで、本当にありがとう!」
電話口の向こう側の母は、声を震わせていた。
「そう、良かった、本当に……。待ってるわね、きっとよ!」
それで電話は切れた。

一昨年だったか。
母が早期の胃がんで入院したのだ。
手術は無事に終わり、俺は病院へと見舞いに行った。
その時に母から、初めての言葉を聞いたーー。
「孫の顔、見たかったわね。死ぬかもしれない、そう思って初めて、自覚したの。でも、仕方ないわね。」
衝撃だった。
それだけに、これでやっと胸が張れる、そう思った。
必ず子供は作るから、孫の顔は見せるから、待っててくれーーそんな思いでいっぱいだった。

後日、俺の両親に幸恵を正式に紹介した。
もちろん、幸恵の家にも挨拶に行った。
どちらの家も、歓待してくれた。
ありがたい。

結婚式前夜。
俺と幸恵は、ベッドの上でぽつりぽつりと会話をしていた。
「ねぇヤス、何年位結婚生活を続けたい?」
まさか三年と答えるわけにもいくまい。
困った。
咄嗟に俺は、丸二十三年、と答えていた。
「嘘!?何、五十年とか言わない訳〜!?」と責められたので俺は、そんな先の事は分からない、とだけ答えた。
それでも幸恵は腑に落ちない様子。
なので付け加える。
「子供を一人作って、大学卒業までで丸二十三年。二十四年目からは、余禄みたいなもんだ。」
そう言うと幸恵は、「それもそうだね!」と言って笑った。
だから俺も笑う。
ちゃんとした“夫婦”になれるかどうかは分からないが、友達夫婦にならなれそうだ。
ここで成太郎の哀し気な表情を思い出したが、俺はその感情に蓋をして、鍵を掛けた。
幸恵をシングルマザーになど出来ない、そんな思いが芽生え始めていたのだ。
ここでナックル。
「二人共、ラブラブだね〜。泰治のお友達の成太郎も、丸二十三年は結婚生活を続けるみたい。二人も、頑張って!そうそう、僕普通のシマリスよりもだいぶ長生きだから、老後のお供にも役に立つょ!よろしく!」
そこまで言い終えると、あとは恒例の歌と踊り。
ナックルの事は、以前初めて部屋に上げた際に、幸恵には話してあった。
その日も、そして今日もケタケタと笑う幸恵。
やはりこんなものを見せられた時の反応というのは、誰もが同じなんだな、と改めて感じるのだった。
「先、お風呂入って来るね!ヤスはナックルと仲良くしてて。」
笑顔で風呂場に向かう幸恵。
と、ここで言いたい事がある。
もちろん、ナックルにだ。
「おいナックル、三年の予定が二十三年になってるぞ。嘘も程々だ。どういう訳でだ。説明しろ。」
「だってそうでも言って結婚してもらわないと、ヤスと成太郎が危なかったんだもん。もしあの時成太郎の
告白にOKして付き合い出していたら、怒り狂った成太郎のお母さんが乗り込んで来て、みんなが悲しい事になっていたんだょ。仕方ないでしょ。」
固まった。
だが、腑に落ちた。
ここから俺達の戦いが始まるのかーー。
俺はいい。
いいのだ。
忘れたい事だがどうやら少々バイの気配もあるようだから、少なくとも幸恵とは友達夫婦では居られる。
だが、成太郎はどうかーー。
それを考えると、辛い。
「ほら、もうすぐ幸恵ちゃんがお風呂から戻って来るょ。そんな辛気臭い顔してると良くないょ。笑って笑って〜!」
♪タカ、ズンタカタッター、ズンタカズンタカ……♪
例の踊りに励まされて、俺の顔に笑顔が戻った。
そこへ幸恵が到着。
「さ、あなたもお風呂入って来て。せっかくだから、赤ちゃん作ろ!」
「おう、任せとけ!」
何が任せとけだょ、という突っ込みはこの際無視。
ちょうど三時間近く前にシアリスを飲んでおいた。
さて、入浴だ。
ここで男の裸を想像しながら勃たせると、薬のお陰で萎えにくいという訳だ。
正直言って慣れないが、自分で決めた事だ。
仕方ない。
自由なのだ、だからこれは俺だけの問題だ。
周りに迷惑を掛けていい話ではないのだーー。

結婚式も無事に終わり、翌年には子供も生まれた。
子供は女の子だったが、可愛かった。
すくすくと成長してゆく我が子を見ていると、こういう選択肢もあるのだという事を、ひしひしと実感させられた。
出産に伴い、幸恵は仕事を一時的に辞めていた。
娘が中学校に入学するまでは専業主婦としてやってゆくようにと、俺が勧めた。
家計が苦しくなるから、子供は一人だけだ。
これは、二人で決めた事。
その代わりに、子供は大学までちゃんと行かせる。
最初から考えていた事で、これは予定通りだ。

春夏秋冬が幾つも過ぎゆき、家族の想い出もたくさん出来た。
遂に恋をしているという実感は湧かず終いだったが、これはこれでいいと思えた。
多分やっぱり自分、ゲイ寄りのバイなのだ。
でも、改めてその事には蓋をしよう、再びそう思った。

娘が中学校に進学した。
今更だが娘の名は、千穂。
「チホちゃん、中学進学おめでとう〜!」
♪ズンタカズンタカ、ズンズンズンズン、タカタッ♪
例によってナックルが歌い踊る。
手に持った木の実を放り投げて足でキャッチしたりと、なかなかアクロバティックだ。
進化している。
家族でのお祝いの席で幸恵は、意外な事を口にした。
「私、スナックやりたい。自分のお店が持ちたいの。」
ここで考えた。
幸恵がお店で稼げるようになれば、将来の離婚もスムーズだ。
そんな事を前提にものを考える自分には嫌気が刺すが、成太郎が待っていてくれるかもしれないーー。
そう思うと、やはり将来の離婚は譲れない線なのだ。
まぁ、二十四年目で離婚するとして、俺と成太郎の年齢は五十代一歩手前。
まだ行けるか。
成太郎に振られたら、男漁りの自堕落な日々が始まるだけだ。
まぁ、それもいい。
それもいいさーー。

程なくして、幸恵のスナックは開店した。
俺と違って幸恵には男女を問わず友人が多く、店はなかなか順調なスタートを切った。
開店資金は夫婦の貯金。
これは言わば、とんだ茶番に付き合わせてしまった俺からの幸恵への、なけなしのプレゼントだ。
千穂は地元の公立中に通っていたが、高校受験の為に進学塾に通わせる事にした。
やがて合格した高校は、公立の進学校だった。
急かせる事はしない主義の俺達夫婦だったが、千穂は勉強に自ら意欲を燃やしていた。
誰に似たんだろうか。
少なくとも、俺ではない事は確かだ。
俺はあいにく、ぐうたらなので。

そして、遂に時はやって来た。
千穂は東京の大学に進学、いよいよ卒業を迎えるーー。
結婚、丸二十三年。
俺は決死の覚悟で、幸恵に告げた。
開店準備前のスナックで、その場には二人きり。
「別れたい。」
俺が告げた言葉は、ただそれだけだった。
「あなた、バイなのよね。ナックルから聞いたわ。これまでありがとう、お疲れさま。楽しかったわ。お互い、第二の人生を歩みましょう。」
これはナックルに感謝だ。
もちろん、幸恵にも、千穂にも。

大学の卒業式を終えた後。
俺達家族はお別れ会を開いた。
もちろん、離れ離れになっても家族である事に変わりはない。
俺には、後悔はない。
成太郎はどうだろうか。
それだけが、気掛かりだった。
それにしても、揃って離れ離れになるというのに、三人共に笑顔が絶えない。
ケーキを囲みながら、談笑している。
側から見れば不思議な光景だろうが、俺達にとってはこれでいい。
これで、いいのだ。

三月三十一日をもって、離婚。
正式に家族解散である。
俺は、淡々としていた。
成太郎の出した答えを見届けてからでも、遅くはないのだ。
「成太郎は、きっと来るょ!だから秋までは、待たないと駄目だょ。」
相変わらずナックルは踊っている。
陽気な事だ。
ちなみに、ナックルは俺が引き取る事になった。
家族の一員だっただけに、俺が独り占めするようで、少し気が引けたのは事実だ。
だが、是非にと言われて断る程には、俺は良い人ではなかった。

晩秋。
「あの日」が迫っていた。
俺は行きつけの美容院に行って髪を切った後、プレゼントを購入して、当日に備えた。

そしてーー。
楓並木の下で、成太郎は一人、佇んでいた。
お互いに、相手の事はすぐに分かった。
雰囲気が、残っていたのだ。
「遅いよ。」
そう言いながら笑う成太郎を、たまらずに俺は抱き締めていた。
「待たせてすまない。俺は所詮、どっち付かずのどうしようもない奴だ。それでも、お前の事は愛している、本当だ。老いぼれになるまで寄り添うから、俺と一緒に居てくれ。頼むーー。」
次の瞬間、成太郎との初めてのキス。
フレンチ・キスかと思いきや、そうではなかった。
大人の味。
往来があるので少し恥ずかしいが、これもまた良し。
そのままハグをする。
「しんどかったーー。」
成太郎による、心底からの言葉。
「俺は、楽しかった。でもお前となら、もっと楽しくやれる。一緒に居よう、な!」

それからすぐに、俺達は共に住む事にした。
場所はもちろん、俺の家だ。
成太郎は離婚の条件として、持ち家を相手に渡していたのだ。
慰謝料を免じてくれただけでも良かったのだろう。
成太郎の両親は既に他界しており、とやかく言う人間は誰も居なかった。
それにしても成太郎の両親、随分と若くに逝ったものだ。
バチでも当たったかーー。
俺達の今後として養子縁組も考えたが、姓が変わるのを避けて、敢えて止めたのだった。

俺達はこれから先、何があっても一緒だ。
互いに丸くなっていて、何をしていても楽しい。
テーマパークにも行った。
今度は、勝った。
ナックルも含めて、新たな「家族」が出来た、そんな感じもある。
俺達は二人でよく、幸恵のスナックに遊びに行くようになった。
嫌な顔一つせずに、楽しい話で盛り上げてくれる。
幸恵とは友達になった。
同性と話す感覚で、楽しく話せる。
「再婚はしないの?」と聞くと、「あなたと丸二十三年間、とても楽しかった。だからもういいの。」と言って笑っていた。
どうやら幸せに出来たようだ。
良かった。

ある日俺と成太郎は、公園でキャッチボールをしていた。
ナックルボールなんてとても投げられないけれど、久々のボールの感触は、心地良かった。
二人揃って元高校球児。
血が騒ぐのだ。
これは言わば、二十四年目のプレイボールだ。
傍らには、幸恵と千穂の姿が。
「二人共、そろそろお弁当にしましょうー!」
幸恵お手製の弁当は、それはもう美味だった。
相変わらず彼女、料理が上手い。
スナックでも、凝ったお通しでお客さんから喜ばれているのだ。
俺達の関係は、新たなフェーズに突入していた。
約束の地なんてものがあるのなら、ここがそうなのだろう。
この幸せを噛み締めて、俺達はここで生きてゆく。
そう思うと何だかこそばゆくなって、思わず俺は照れ笑いをするのだった。
季節は、冬を迎えようとしていた。
それはとても嬉しい、新たな季節の到来だった。

-完-

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