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Sanctuary : 君が居る場所へ [Bluebird 外伝 - 千灯谷の詩]

日本から遠く離れた、遥か彼方の地。
全世界の神々が集う、聖域があった。
その地は人々から Thousandlights Valley と呼ばれ、崇拝と畏怖の対象となっていた。
日本では、千灯谷(せんとうごく)と呼ばれる。
この地に入れるのは、心清らかな人間や魂だけ。
たとえ矢折れ力尽きていたとしても、魂の清らかさが証明されれば、神にだってなれる。
そのような場所。
支配するのは、青い鳥たち。
地球の神々をも超越する力を持つ、異世界からの使者だ。
地球に棲む青い鳥たちは、人々の願いを叶える代わりにその命を喰らって生きているのだ。
そして、想像の通り、その力は巨大だ。
世界を変える力を持つ、一羽一羽がいわば巨人であるのだ。
それが無数にいる。
その事で、地球の秩序は守られていた。

ある夜、青年・雪弥は自室のベッドでうなされていた。
この頃、良く悪夢を観るのだ。
目覚めると、気分転換にシャワーを浴びる事にする。
「明日はお休みだから良かったけど。でも、悪夢もこう度々だと疲れるな。困ったな。」
悪夢では、度々雪弥の最愛の人が空の星となるのだ。
正直雪弥は、この頃は毎夜見る悪夢で疲れ切っていて、もういい加減にして欲しいと思っていた。
雪弥はこの時まだ、自分たちに降りかかる運命の行く末を、知らなかった。

翌日。
雪弥の住むマンションの一室に、最愛の相方・秋之が訪れる。
「こんちはー。秋之だよ。」
いつもの声がするので、雪弥はエントランスのオートロックを解除した。

雪弥の住むマンションは、築十八年の賃貸物件。
東京・下町のごく平凡な物件で、雪弥の部屋は5階の2DKだ。
外観は白いタイル張りで、清潔感がある。
家賃は十万円程。
少し高いとは雪弥も思ってはいたが、趣味のコミックスやBlu-ray、DVDなどの置き場が欲しかったため、ワンルームという訳にもいかなかったのだ。
雪弥は今年で二十六。
まぁ月に三十万円は稼いでいたから、住めない事もなかったという訳だ。
しかしそろそろ会社での立場も安定してきて、分譲マンションが欲しい所。
新築は高いから、中古かなぁ、とか。
通勤の都合上、せめて東京近郊でなければ、とか。
色々と頭を巡らせている内に、再びインターホンが鳴るので、雪弥は玄関へと向かう。

扉を開けると、お土産のケーキを手に提げた秋之が、ニコニコしながら立っていた。
「ほら、これ。記念日じゃないけど、ケーキ、一緒に食べようと思って。」
秋之はこの時、褒められるのを待っていた。
これは、いつもの事。
雪弥は、二つ年上の秋之の頭を、よしよしと撫でる。
秋之はというと、はち切れんばかりの笑顔。
これが可愛いのだ。
仲睦まじい二人なのである。

この時、雪弥の脳裏には、昔おじいから聞いた青い鳥にまつわる伝説の話が過っていた。
雪弥と秋之は確かに幸せには違いないのだが、それは現時点での話。
明日もそうとは限らない。
そんな事は、東京の大学を出た後、実家に戻る事を断固拒否し続けて大変な不興を買った雪弥にだって、少しは分かる事だった。
だが、この時は結局、目の前のニコニコ笑顔に押される形で、忘れる事にした。

こうして、直径三十センチの生クリームとイチゴのホールケーキを、二等分して美味しそうに一気に頬張る二人だったが、悩みがない訳ではなかった。

雪弥にはかつて、二つ下の弟が居た。
弟は、自分は次男坊だから、嫌がっていた漆器作りの家業を継がずに済むと、度々嬉しそうに話していた。
だが、長男であるにもかかわらず雪弥が頑なに跡継ぎを断り続けた結果、跡目を継いだのは次男の方だった。
最後に交わした言葉ーーそして今生の別れともなった、あの時に交わした言葉ーー。
脳裏を過っては、頭の中を掻き乱す。
この時、雪弥は興奮していた。
無論、これは悪い時の興奮の仕方である。
雪弥はあの時のやり取りを、全て覚えていた。
忘れられないのだーー。

「ごめんね、弟の君に全部押し付けて。後悔はしているんだ、本当に。」
「後悔してるんなら、俺と代わってくれよ!そんな気さらさらない癖に、後悔してるなんて軽々しく言うなよ!ホモなんだろ!別にそんなのどうだっていい。ただな、兄貴がそんなんじゃ、迷惑なんだよ!跡を継ぎつつ上手い事やる方法だってあったろうに。無理筋でも何でもいいから、結婚して子供産み育てながら男ともアバンチュールするとか、方法は幾らでもあった筈じゃんか!」
これには普段は穏やかな雪弥も、激昂した。
「弟、お前は恋愛結婚が出来る。でもな、ぼくは家の跡を継いだら、顔も見たくない女とずうっと、生活をしていかなきゃならないんだ!ぼくはゲイであってバイじゃない!偽装結婚なんて真っ平御免だ。みんな傷付くだけなんだよ、馬鹿!」

弟は、号泣していた。
いつまでも、いつまでも。
長い時間が経ってようやく顔を上げると、いつになく不器用な笑顔で、こう言った。
「俺、手先の器用な兄貴の事、ずっと尊敬してたんだ。漆器作りなんて、俺には無理かもしれない。でも、頑張る!幸せになってね、もう会う事もないと思うけど、忘れないでね。」
痛恨の、まさに迂闊だった。

『あの時、本当にぼくは、愚かだった。』

ただ、雪弥は本当は悪くない筈だった。
まさかその時の雪弥には、弟がそこまで思い詰めていたなどとは、想像も出来なかったのだからーー。
これは、雪弥でなくても、きっとそうであるに違いない。

「弟は、弟は、ぼくのせいでーー。」
気が付くと、雪弥は座ったままで、秋之に背後から抱かれて咽び泣いていた。
苺のケーキ、雪弥の弟の大好物だったのだ。
雪弥は、全てを投げ出して結局兄である自分にそれら重荷を押し付けようとしていた弟の事を、それでも悪くは思えなかったーー。

ケーキを食べ終え、SEXも済ませると雪弥と秋之の二人は、少し窮屈なダブルベッドの上で並んで、天井をぼんやりと見上げる。
ここでふと秋之が、さらっととんでもない事を言い出した。
「また昔の事考えてたんでしょ。無理もないけど、全部一人で背負い込む必要もないと思うんだ。ーーねぇ。ぼくと“結婚”してみない?二人でなら背負える傷や痛みだって、きっとあると思うんだ。」
いけなかった。
本当はいけない事だった。
でも雪弥はこの時、隣の大きな背中、そしてその温もりに縋ってしまった。

さて。
二人は養子縁組をしようとするのだが。
それに当たって、両親にカミングアウトをする。
流れとしては、当然なのだ。
しかしそれが、雪弥の父を爆発させる導火線のようなものだったとは、この時の秋之には知る由もなかった。
雪弥の弟の話は、雪弥から話で聞いていただけで、雪弥の両親の人となりを、秋之は全く知らない。
少しのんびりした所のある秋之だから、何とかなるだろう、位に明るく考えていた。

ある日、何日かして。
電車とバスを乗り継ぐ事、実に四時間。
東北の山村へと、雪弥と秋之は降り立った。
カミングアウトするならば、やはり直接がいい。
用件は電話で伝えてあった。
特に頑固な父、どう出るか。
ましてや、ここは封建的な土地柄だ。
見渡す限り一面の田んぼが、ここがどれほどの田舎なのかを、二人に思い知らせる。

バス停から歩いて十五分。
雪弥の実家に到着した二人。
まずは雪弥がインターホンを押そうとする。
が、指が震えて上手く押せない。
『どうしよう!?』
焦る雪弥。
緊張で、頭の中が空っぽになる。
結局、秋之がそっと手を差し伸べて、二人で押した。

扉がガラガラと音を立てて開く。
その瞬間、もう駄目かもしれない、何とはなしにその場にいる全員が、そう思った。
「次男・夏福の仇!覚悟せよ!」
雪弥の父、日本刀を抜き、振り下ろす。
その刃は、雪弥に振り下ろされる、少なくとも雪弥自身はそう思っていた。
それで良かった、そう雪弥も思っていたーー。
だが次の瞬間。
「うぉりゃーっ!」
威勢の良い掛け声で雪弥を斬り捨てようとする、雪弥の父。

しかし、である。
この一瞬の間に何と、秋之が雪弥を突き飛ばしたのだ。
直後に肩から胸、脇腹にかけてざっくりと斬り捨てる父。
とどめに胸をひと突き。
断末魔の叫び。
そして、事切れた。
「畜生、畜生、畜生!」
ほんの一瞬の出来事、雪弥はただ叫ぶしかなかった。
誤って秋之を斬ってしまった雪弥の父は、その場に崩れ落ちるのだった。

秋之にも苦労はあった。
幼い頃に両親を、貸切ヘリで遊覧中の事故で亡くした秋之。
その日は結婚記念日。
決して裕福ではなかったが、二人は愛で結ばれていた。
という訳で、奮発しての夫婦水入らずのデートだったという事もあり、その場に居なかった秋之は助かったのだが。
施設に預けられた秋之は、その事で学校でのいじめを受けるようになる。
まだ秋之が小一の頃の事だった。

それでも、秋之は強かった。
何が何でも泣くまいと心に誓った母の命日。
墓前での母との約束は、死んでも守るつもりだった。
消しゴムのカスを食べさせられようとも、動物の死骸を鞄の中に入れられようとも、下半身をひん剥かれて露わにさせられようとも、決して、泣かなかった。

中学校を卒業したら、働き始めた。
当然、施設からは出たのだ。
当時の勤務先では、嫌な事の連続だった。
中卒で働く秋之に、世間の目は冷たかった。
仕事があるだけでも有難い、そう言い聞かせて歯を食い縛って陰湿な虐めにも耐えた。

毎日、忙しかった。
仕事を定時で終えると、着替えてその足で定時制高校へ行く。
実は秋之は頭が良かったので、定時制高校での授業は正直、簡単だった。
だからか、みんなが頼りにしてくれる。
やっと見つけた、小さな居場所。
手放す訳には、いかなかった。

帰ったら部屋の掃除に洗濯、夕食の支度。
正直、寝る間もない程だった。
でも、この時の秋之には夢があった。
それは、出来るだけ有名な大学の二部に入って、地方でも良いから公務員になる事だった。
この夢は、叶った。
血の滲むような、まさに努力の賜物だった。

無残な姿に変わり果てた秋之を、泣き喚きながら揺さぶり続ける雪弥。
秋之の目には、うっすらと涙が浮かんでいた。
母との約束を、最後の最後で、守れなかったーー。

その背後で、がっくりと肩を落とした雪弥の父は、舞い降りた青い鳥に何やら願い事をしていた。
すると。
雪弥の父は透明になりながら、雪弥に最期の言葉を告げる。
「すまんかったな。やり過ぎた。頭に血が上ってな。私が消える代わりにお前の弟が蘇る。仲良く、するんだぞ。」
次の瞬間には、何処までも身勝手な雪弥の父は、跡形もなく消え去っていた。
本来ならばまだ他人である、秋之を戻すべきであるのにーー。
そう。
雪弥の父は、雪弥の弟と、内面が良く似ていたのだ。
一方で手先の器用さは、面倒な事に雪弥が受け継いでいた。

この時、雪弥はある覚悟を決めていた。
飛んで来た青い鳥に囁く。
誰にも聞かれないように。
それはーー。
「秋之の所に行きたい。ずっと一緒に居たいーー。」
それだけだった。

『君の居る場所へ、飛んでゆきたい。それがたとえ地獄であっても、秋之となら、それでいいーー。』

やがて秋之の亡骸と雪弥の肉体は、透き通ってゆく。
「待ってよ、俺一人と父さんの駆け出しのお弟子さんだけじゃ、工房なんて成り立たないよ!兄貴、俺はどうなっちゃうのさ!」
いつまでも弱々しい弟に、雪弥が初めて喝を入れた。
「出来る!やるんだ!みんな、お前があんな事をしなければ死なずに済んだんだ!弱音を吐くな!やれ!!」
「分かったよ!俺、頑張るから!兄貴の分まで、今度はちゃんと頑張るから!」
後ろの方では、雪弥の母がへなへなと地べたに力なく座り込みながら、ただ呆然としていたーー。

死後、喜びの再会を果たした雪弥と秋之は、二羽の青い鳥のいざないで、Thousandlights Valley へと赴く事となった。
近付くにつれて、良く分かる。
谷が、光っていた。
何千、何万もの青白い光が、魂の煌めきが、肉体を失ってもなお命の炎を燃やしながら、谷中を照らしているのだ。
光は谷底に降りてゆくにつれて、より強まってゆく。
そして二人の魂はやがて、玉座へと辿り着く。
「卿らは、清らかな心を、魂を持っている。二人で力を合わせて、Spruce Forestの新たな神となるのだ。彼の地は長年に亘って森の神が不在で、問題が多い。森の神には良い補佐官が必要だ。話し合って、どちらが補佐官となるか、決めると良い。」
Thousandlights Valley を治める、地球上の全ての青い鳥の王が口を開いた。
結論は出ていた。
二人は話し合う事なく、見つめ合うだけで、互いの意思を確認出来た。
二人共、笑顔だったーー。

「はい!ぼく秋之が、森の神を務めさせて頂きます。」
「ぼく雪弥は、秋之のサポートに回ります。」
そこは長い付き合いなのだ。
役割分担はちゃんと出来ている。
「よろしい。では今から二年間、簡単な修行の旅に出てもらう。いつでも二人一緒になるが、卿らにはその方が都合が良かろう?」
青い鳥の王の発言で、頰を赤く染める二人。
森の神は己の肉体をいつでも実体化出来るし、敵の攻撃さえ受けなければ不老不死だ。
或いは、二人には実はこれは、お誂え向きだったのかもしれない。

修行の旅とはいうが、肉体的にはさしてきついものではなかった。
森の神の候補となった時点で特殊な能力を授かっているから、その力を自在にコントロールするための意識の集中などについてを学ぶのである。
後はひたすら座学。
世界中何処へ行っても、必ずつきまとう。
二人とも頭が良かったお陰で何とか付いてゆけた、というのが本当の所。
やはりそこは彼ら、ちゃんと見ている。
適材適所、大事なのだ。

さて、Spruce Forestの神殿は、空の向こう側にある。
そこで森を逐一監視しながら、時にそこから人々に影響を与え、時に自ら出陣して敵と戦うのである。

一連の修行を終えてしばらく経った、ある日の夜。
神殿の個室で二人きりの、秋之と雪弥。
森の神は、眠らない。
少なくとも、それ程には。
疲労という概念が希薄であるため、余程の事がない限りは、眠る必要がそもそもない。
だが、それでもプライベートも必要なので、時々は休憩を取るのだ。
で、実体化して抱き合う。
「ぼくたち、神様とそのお付きの補佐官なのに、煩悩の塊だよねぇ。」
「そうだね。でも良かったょ。何とか幸せになれそうだし、結果オーライだね!」

この森の神・秋之が後に、キリルやプリム、テット・クラウスやティル・クラウスらと物語を繰り広げてゆく事になるのだ。
神聖ヘリテイジ・ストーンも、森の神が司る国家の人々の記憶とDNAをデータベース化したらどうかという森の神・秋之の提案を青い鳥の王が受け入れて、実現したものだ。
そんな森の神自身が、実はゲイだったという訳である。
困った事も、ない訳ではない。
この情報は、民に知れて信仰心が薄くなってしまうと問題があるため、Thousandlights Valley 以外では基本的に公開はNGとなっている、というのがそれだ。
そもそも補佐官は裏方で、森の神と並び立つ事は、神殿など限られた場所以外では有り得ない。
だから、秋之と雪弥の関係が知られる事はなかった訳だが、何か問題が起こってからでは遅いので、念には念を入れてガードしていた。
まだまだ閉鎖的で封建的な考えが、この地球上には跋扈している。
変えられるか。
ちなみに、森の神の座に日本人が就くのは歴史上初めての事である。
こうして世界の秩序は、これから劇的に変わろうとしているのだった。
秋之と雪弥?
もちろん、いつまでも仲良しですょ!

お・し・ま・い

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Bluebird : ぷくぷくの詩 [Spiritual Fantasy]

そこは日本の片隅の、小さな農村。
段々畑が広がる、長閑な田舎。
その一角に、両親に先立たれた兄弟がおばあと暮らす、古ぼけた小屋があった。
両親は自動車事故に遭って、兄弟の目の前で、見るも無残な姿に変わり果てた。
それ以来兄弟は、おばあの家で暮らしている。
本当は辛かったし寂しかったが、二人は弱音を吐かなかった。
一人じゃない。
そう思えたから、寂しさなんて吹き飛ばせた。
兄弟は日が経つにつれて、丸っこく縦にも横にも成長していった。
二人は、食いしん坊だった。
そんな二人におばあはいつでも優しくて、芋の煮っころがしや野菜炒め、豚汁などを毎日たくさん作ってくれた。
「さ、何にもないけど、たんとおあがり。」
「そんな事ないよ、おばあ!頂きまーす!」
「美味しそう!いつもありがとう!頂きまーす!」
兄弟の元気な声が小屋に響いた。

兄弟は二人とも明るく人懐っこい性格で、通っている中学校ではどちらも人気者だった。
二人とも勉強の方はイマイチだったが、要領は良く、いつも赤点は免れていた。
弟はよく、怒ると頰をぷくぷくとさせていた。
触りたいのだが触るとますます怒るので、見ているだけ。
兄にとっては、それが可愛くて仕方ないのだった。

兄弟は、兄が新太、弟が涼太と言った。
新太のテストの答案が返ってくる日。
中三の夏。
授業で。
「おー、新太。今回もギリギリ赤点は免れたな!次はもうちょっと頑張れ。」
先生の言葉に新太、ペロンと舌を出す。
「新太ー!たまには満点取れよー!」
「新太の頭じゃ無理だって!」
「そりゃそうだな!」
クラス中が大笑いだ。
先生はみんなに「新太にだって可能性はある!やれば出来る!」と言うのだが、誰も聞いてはいなかった。

その頃涼太は、熱を出して寝込んでいた。
この頃、体調を崩していたのだ。
おばあが懸命に面倒をみるが、その甲斐もなく熱は上がる一方。
仕方なく村の小さな診療所の先生に診てもらう事に。
診察を終えた涼太が待合室の椅子にどうにか腰掛けている間、おばあは先生から病気の事を聞いていた。
「涼太は、涼太はどうなんですか?」
「詳しい検査は町の病院で行うのですが、症状から見て急性骨髄性白血病の疑いがあります。残念ですが、手遅れかも知れません。」
「うわぁー!」
おばあはその場で泣き崩れた。
微かに聞こえる、診察室でのおばあの泣き声で、涼太は自分の運命を悟った。

それから涼太は、あっという間に空の星になった。
最期の夜、朦朧とする意識の中で、涼太は頰をぷくぷくと膨らませた。
新太もおばあも、涙をどっと溢れさせた。
「なぁ涼太、どうしてそんなに早く逝っちゃうんだよぉ!」
新太は毎日夜になると、星空を見る度に涙が止まらなかった。
それは、新太が中三の秋を迎える頃の事だった。

新太は高校進学を断念する事にした。
弱り切ったおばあに、これ以上の負担をかけることは出来ないーー。
そう思ったから、だから東京へ出て稼いで、少しでも仕送りしようと思ったのだ。
おばあは涼太が亡くなってから、みるみる衰弱していった。
正直、見ていられなかった。
新太も気分が塞ぎ込んでしまい、学校でこれまでのように振る舞う事が出来なくなった。
自然と、新太は学校で、空気のように透明な存在へと変化していった。
そんな時だった。
この頃、昼休みは屋上で一人で過ごす事が多かった。
そんな新太の隣に、弟の涼太みたいにまん丸なクラスメイトがやって来て、ドカンと座った。
呆気に取られる新太。
埒があかないと思ったのだろう、彼の方から話しかけて来た。
「なぁ新太、卒業したら就職するんだって?」
「うん。康太は?」
「俺も就職。先公、同じクラスから二人も就職する生徒が出たってんで、慌ててたぜ。」
「うち、弟が亡くなってから親代わりのおばあの具合が悪いんだ。日に日に悪化してる。早く就職先見つけて、仕送りしなきゃ。」
「そっか、お前も大変だな。なぁ新太、お前、俺の友達になれ。なんか、可愛いんだよな、お前。」
頭が沸騰した。
そういえば、今まで意識などしていなかったが、康太、ぶっきらぼうながらもなかなか可愛かったりするのだ。
「う、うん。よろしくね。」
片手を差し出すと、ガッチリとハグされた。
苦しいが、ここは我慢だ。
こうして新太と康太は、友達という関係からスタートするのだった。

それからは、霧がかかったようだった心に、光が射した。
新太と康太は、学校の中でも外でも、いつでも一緒だった。
「ねぇ、あの二人、付き合ってるんじゃない?」
「嫌ねぇ。男同士で。不潔!」
何が不潔なのかはよく分からないが、こうした囁きを耳にする機会は日増しに増えていった。
それでも激しい虐めに発展しなかったのは、康太の腕っぷしが強かったからだろう。
「あらやだ、あの二人ラブラブねー。」
「ホントねー!穢らわしいわ!」
またいつもの陰口。
堪らなくなって新太は尋ねた。
「ねぇ康太、あんな事言われて悔しくないの?」
だが、康太は余裕だった。
「弱い奴らに何を言われようが、どうって事ねぇな。言いたい奴らにゃ言わせとけばいいんだよ。」
そう言ってほくそ笑む康太は、いつもよりも更に大きく見えた。

その日、学校からの帰り際。
康太はさりげなく、こう言った。
「お前、ゲイの事って、どう思う?」
これはもしや。
新太は即答した。
「ぼく、康太がゲイでも驚かないし、嫌いにならないょ!」
すると。
いつになく真剣な表情で、康太はこう言った。
「なぁ新太、俺と付き合わねぇか?」
新太は黙って頷いた。
この時の康太の顔は、可愛かった弟の涼太の顔を彷彿とさせたが、一方でより男前でもあり、それがまた大きな魅力でもあった。
顔が火照る。
次の瞬間だった。
校門近くだったので人目もあるというのに、康太は新太にキスをした。
フレンチ・キス。
ハグをして見上げると、そこには優しい笑顔があった。
気が付くと人だかりが出来ていて、みんなが僕らを囃し立てている。
「さ、行くぞ。」
康太に手を引かれて、慌てて駆け出す新太。
「いつでも俺の傍に居れば安心だから、心配すんな。」
遠巻きに眺めては囃し立てる連中など何処吹く風、ケロッとした顔で康太はズンズンと進む。
そう。
どうせ彼らは、康太には手出し出来ないのだ。
喧嘩で康太の右に出る者は居ない。
以来卒業まで新太は、片時も離れず康太の傍に居る事にした。
その点は康太も満更ではなかったようで、二人の絆は一層、深まった。

年明け。
正月が終わったばかりの頃に、新太は康太を家に招待した。
喜んでくれるかと思っていたおばあの顔色が冴えない。
確かに恋愛はしているが、この日まで肉体関係はなく、この日もそんなつもりはなかったのだが。
ゲイである事がもう既に、駄目らしい。
そんな雰囲気がムンムンだ。
や、流石はおばあ。
カミングアウトもしていない上、初見なのに鋭いな。
新太は、そう思っていた。
で、開口一番。
「二人とも女の子みたいだけど。早く良いお嫁さんが見つかると良いわね。」
この調子である。
新太と康太は顔を見合わせると、溜め息を吐いた。
その夜。
康太は新太の家に泊まっていく事になったのだ。
が。
部屋に二枚、布団を敷こうとすると、おばあが怒った。
「新太、あんたは囲炉裏の前で寝なさい!部屋はお客さんに使ってもらうの!当然でしょ。」
これには新太も康太も、何も言えなかった。
結局新太は寒い囲炉裏の前で、震えながら一晩を過ごした。
その日以来、おばあは新太に一言も口を利かなくなった。
ただ同時に、肩の荷が少し下りた気もした。
あ、仕送りしなくてもいいんだーー。
勝手なものだが、これもおばあなりの気の遣い方なのではないかと、そう思ったりもした。

その後も、康太とはとても仲が良かった。
それが唯一の心の救いであり、楽しみでもあった。
特に何をするという訳でもなかったが、一緒に話しているだけで気が晴れた。
季節は冬。
放課後、新太は康太の家にお邪魔する事が多かった。
康太のお母さんは、新太にも優しかった。
自然と新太は、寝る時以外は家に寄り付かなくなった。

春。卒業の季節。
新太と康太は揃って、上京して就職する事になっていた。
卒業式の日。
おばあは酷く体調を崩していて、出席出来なかった。
元々体調が悪かったのだから仕方ないーー。
新太は、その位に考えていた。
それが、甘かった。
式を終え、一旦康太とは別れて帰宅すると。
そこには、天井からぶら下がるおばあの、見るも無残な姿があった。
へなへなと、その場で崩れ落ちる新太。
ふと、ちゃぶ台に目を遣ると、メモ紙が置いてあった。
遺書である。
間違いなくおばあの字だ。
そこには短く、こう書かれていた。
「ホモ、ちゃんと治すんだよ。早くお嫁さんを貰って、天国のおばあに孫の顔を見せておくれ。」
どうしよう、新太はそう思った。
涙が止まらないのだ。
早く警察に通報しなければならないのに。
新太は咄嗟に、康太の家へと駆け出していた。
門の前で。
チャイムを鳴らす。
鼓動がやけにうるさい。
永遠に近い一瞬。
やがて康太のお母さんが玄関扉から姿を現した。
「あら、新太君。待ってて、今康太を呼ぶから。」
程なくして、大きな体がのっそりとこちらに近付く。
「どうした、新太。何か用か?顔色悪いぞ。」
この時の新太にとっては、口で説明するのがもどかしかった。
新太は康太の手を掴むと、家まで引っ張るのだった。
「おいおい、どうした?」
声で、心配してくれているのが分かる。
でも今は、それどころではないーー。

家に着いた新太は、ちゃぶ台の所まで康太を案内する。
「な!?なんだ、これは!」
無理もない。
康太もこんな光景は、初めてだったのだ。
当然だ。
メモを手に取って、見せる新太。
康太の衝撃は、より深いものとなったようだ。
だが、新太が「別れよう」と言い終えるその前に、康太は新太をきつく抱き締めていた。
康太は、泣いていた。
「別れたくねぇ!俺、お前とずっと一緒に居る!」
その時だった。
幻だったのかもしれない。
ただ、青い鳥が確かに舞っているように、新太には見えていた。
やがておばあの姿が目の前に現れる。
おばあは、透き通っていた。
「天国でお前の父さんと母さんに怒られちまってさ。自殺なんかするんじゃない、二人の幸せを願えなくてどうする、ってね。」
続いて、父さんと母さんの姿も目の前に現れた。
やはり透き通っている。
「私たちもついさっき青い鳥に纏わる伝説を知った所でね。
願い事を願う人が自らの命や魂を差し出せば、何でも願いが叶うのだそうだ。
おばあと母さん、それに私がこの世界から完全に消え去る事と引き換えに、弟は蘇る事が出来る。新太、康太君、弟の事、よろしく頼む。」
それだけ言い終えると三人は、その姿を消してゆく。
「父さん、母さん、おばあー!」
新太はぐったりとしてその場に崩れ落ちる。
何やら気配がするので振り返ると、そこには一糸纏わぬ姿で横たわる、弟の涼太の姿があった。
「兄ちゃん、兄ちゃん!」
涼太は新太の胸の中で、いつまでもずっと泣きじゃくっていた。
おばあの亡骸はいつの間にか、跡形もなく消えてなくなっていたーー。

それから一カ月後ーー。
新太と康太と涼太は、東京のアパートにてちょっと変わった共同生活をスタートさせていた。
涼太は中三になった。
あいにく進学させる余裕はないので、卒業したら働いてもらう。
三人ともまだ子供といえば子供だから、共同生活はしばらく続くだろう。

ある日の事。
冷蔵庫の中を物色する康太。
プリンを見つけて、食べてしまう。
新太も油断していた。
実はそのプリン、涼太がなけなしの小遣いで買ったものなのだ。
「プリン♪プリン♪」
涼太が鼻唄混じりで冷蔵庫に近付く。
と、そこで。
避けられない運命、見てはいけないものを見てしまった。
涼太は目に涙を一杯に溜めて、頰をぷくぷくと膨らませる。
康太は笑いながら涼太の頰を潰すのだがーー。
これで涼太、余計に怒ってしまった。
涼太、無言で涙を流し続ける。
頰をぷくぷくと目一杯に膨らましながら。
仕方ないので、新太が康太に。
「プリン買って来てー!ぼく今、食事の支度で手が離せないのー!」
「あいょ。坊主、一緒に来るか?」
「うん!」
涼太、すっかり機嫌を直した様子。
現金なものである。

その日の夕食は、カツカレーとロールキャベツ、唐揚げとシーザーサラダだ。
食べ盛りのデブが雁首を並べるという事で、ご飯はいつもの通り、一升半炊いた。
保温出来るのだから別に残してもいいのだが、そこは食いしん坊揃い。
まず残らない。
「ねぇ兄ちゃん、テレビゲーム欲しい。」
「毎回食べる量を半分にしてくれたら、考えてもいいよ。」
「嫌だ!テレビゲームなんて要らない!」
よしよし。
ただでさえエンゲル係数の高過ぎで困っているのだ。
これ以上の浪費は、是が非でも避けておきたい。

食事の後はお風呂だ。
狭いのだが、いつも三人で一緒に入る。
「楽しいけど、暑苦しいよ、兄ちゃん。」
「そうだね。みんなで痩せよっか?」
「やめとけ(笑)」
それはもう、楽しい時間だ。

今日は金曜日。
明日はみんな揃って休みだ。
遅くまでテレビを観る。
涼太、眠そうだ。
「おい坊主、そろそろ寝たらどうだ?」
「嫌だ!どうせまたSEXするんでしょ!ぼくも混ぜて!」
二人の情事、涼太に見られていたのだ。
新太は耳まで真っ赤になるのを、肌で感じていた。
次からはどうしようか。
まさか本当に混ぜる訳にも行くまい。
だいたい、兄弟揃ってゲイだというのも、どうなのか。
頭痛の種が、また一つ。

翌日。
近所の広い公園で寛ぐ三人。
空には、青い鳥が無数に舞っている。
空の青と鳥の青とが混ざり合って、それは綺麗だった。
幻かもしれない。
ただ一つ言えるのは、確かに事切れた筈の涼太が蘇ったという事、それだけだ。
三人はベンチに座って、並んで喋っていた。
その一瞬一瞬が本当に幸せで、手放したくない、心からそう思った。
三人で歩む道が、広く長い道でありますようにーー。
三人はそれぞれの心の中で、そう祈らずにはいられないのだった。

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Bluebird : Meets Fallen Angel THE FINAL

もう一度、もう一度だけ。
立ち上がろう、這い上がろう、また笑おう……そう思えた。
特に何があったという訳でもない。
俺はいつの頃からか、いつでもどん底にいた。
冷たく凍り付きそうな孤独の中を這い蹲って掻き分けて、いつでも肩で息をするように必死になって。
何時の間にか幸せの感覚なんて忘れてしまっていた。
幸せなんて、そんな遥か遠い昔の記憶を手繰り寄せて無駄な憧れを抱く程、俺はもう無邪気な少年ではなかった。
いつでも悲鳴を上げていた。
SOSは発していた。
それでも、誰も助けてはくれなかった。
友達なんていなかった。
学校の先生も会社の上司も、俺にとっては所詮は敵でしかなかった。
親兄弟からは見捨てられていた。
何時の間にか心が正常に働かなくなっていた。
毎日、身体が鉛のように重かった。
満足に動く事さえもままならなくなっていた。
死にたかった。
ただ、死にたかった。
だから何度も死のうとした。
自分もみんなも、喜ぶと思った。
けれど、死ねなかった。
生き残ってしまった。
程なくして、仕事を首になった。
拠り所のなかった俺はたちまち、追い詰められた。
俺は無残な容姿でしかもゲイだったから、女たちのヒモになる事さえも叶わなかった。
この歳では、生活保護さえももらえるかどうか分からない。
しかも自分には、絶縁状態にある親兄弟に扶養確認の連絡が行く事など、到底看過出来そうになかった。
路頭に迷うか、もう一度死ぬか。
選択の時が近付いていたのだ。
刻一刻と、容赦なく。

そんなある日の事だった。
俺は本当に久々に、外の空気を吸う事にした。
買い置きのインスタントラーメンがなくなったので、買い出しに行くのだ。
もう格好などどうでもいい。
平日の昼間、今年で二十五にもなる働き盛りの男が、ジャージ姿で無精髭を生やして、フラつく足取りでスーパーへと向かうのだ。
端から見ればまさに、廃人だった。
店内に入る前に、残金を確認する。
1,291円。失業保険も切れ、もう銀行の口座の残高も僅かでしかない。
“俺はもうすぐ餓死するのだろうか?せめてその前にもう一度、首でも吊ってみようか”そんな事が頭をよぎる。
余計な物を買わないようにするために、カゴを手に取るとインスタントラーメンの売り場に直行する。
売り場で最も安い5食198円のパッケージを次々とカゴに放り込む。
会計を済ませ、僅かばかりの小銭を空に程近い財布の中に押し込めると、俺は振り返りもせずにスーパーを後にした。
家までの帰り道。
身体が重くて、正直しんどかった。
途中、バス停の古ぼけて色褪せたベンチに腰掛けると、一息吐く。
体力がだいぶ落ちたらしい。
「力仕事なんてもう、夢のまた夢だな。大した経歴も学歴もスキルもない癖に、困ったな。」
かつて力仕事をどうにかこなしていた事もあった俺は、ボサボサの頭を抱えて深く深く溜め息を吐く。
その時だった。

「ヤスくーん!久しぶり、どうしたのその格好!?」
振り向くと、そこには若い男が立っていた。
すぐに誰だか分かった。
俺は、恥ずかしかった。
「ヤスくん、そんな冴えない顔してちゃ駄目だって!仮にもぼくの元彼氏なんだから、しっかりしてもらわないと!ほら、立って!」
男の名はユウタ。そう、ユウタ自身がそう言う通り、彼は俺の元彼氏だ。
俺が人生の中で心を許した相手は二人居るが、その内の一人だ。
ユウタはいつでも眩しかった。
眩し過ぎて、見ているこっちの心がいつでも痛かった。
付き合っていた当時、俺はユウタへの嫉妬心を持て余して、困っていた。
片時も離れず側に居たかったが、互いに仕事を持ち一人暮らしをしていたため、それは叶わぬ夢だった。
そんな俺でさえも、ユウタは笑って受け入れてくれていた。
「ぼく、ヤスくんにだったら幾ら縛られたって構わないよ!」
そう言って笑うユウタの顔が、思い出すと今でも眩しい。
それでも。
そんな健気なユウタを目の当たりにして、俺が苦しかった。
俺の心が痛んだ。
だから俺から、別れを告げた。
あの日、ユウタは泣いていた。
けれど、ユウタはわがままを言わなかった。
代わりに最後まで、いつでも情けなかった俺の事を気遣っていた。
あれから、そういえば二年が経っていたのだ。
俺と同い年のユウタは、別れた時よりも更に色気を増して魅力的になっていた。
「ねぇ、家どこ?どうせ散らかってるんでしょ?今日会社休みでさ、暇なんだ。夕方まで時間あるから、片付け手伝ってあげる。」
流石に顔を見るのは恥ずかしくて、もみあげの辺りをぼんやりと眺めていると、ユウタは声を上げて俺の手を引っ張った。
「いいよ、悪いよ……。」
恥ずかしさと申し訳なさから、俺はユウタの申し出を一度は断る。
だが、ユウタは退かなかった。
「いいから、案内して!」
俺は気が乗らなかった。
もう片付けさえもまともに出来なくなっていたから、部屋の惨状は見るに堪えないものがあった。
それでも、目の前のユウタの気迫に押されて、俺は無言で奴を部屋まで案内する事にした。
途中、一言も会話はなかった。
前を歩くのが苦手な俺としては、ユウタがちゃんと付いてきてくれているかどうかが心配で、途中何度も後ろを振り返りそうになった。
けれど、その度に首を振って自分に言い聞かせた。
“もうユウタは俺の彼氏じゃない”ってね。
そう、俺なんかに奴を縛り付けておく資格など最初からないのだ。
行きたければ、何処へでも好きな所に行けばいい。
今だってそうだ、そうすればいいんだ……。

アパートの扉の前。
まだユウタは、俺のすぐ後ろに居るようだった。
もちろん、どうせ部屋の中を覗いたら嫌気が差して帰るに違いない、そう思っていた。
しかしどうにも、落ち着かない。
この後の展開を考えると、どうしても憂鬱になる。
背中を、冷たい嫌な汗が流れ落ちる。
「どうしたの?早く開けてよ。」
まごついていると、後ろからユウタの声が飛んできた。
その声に特に怒気は感じなかったが、それでも今の俺には少し効いた。
意を決して扉を開ける。
「汚いぞ。」
そう言って、俺は歯を食い縛る。
次の瞬間だった。
「ねぇ、何この部屋!?ヤスくんもしかして、良くTVでやってる“片付けられない女”になっちゃった?」
見るとユウタは笑っていた。
その笑顔に邪気がないのを確かめた俺は、その場に泣き崩れた。
俺はやはり、取り返しの付かない事をしていた。
俺は、自分が悔しかった。
「さ、一緒に部屋片付けよ?泣かないで、立って。手、貸すからさ。」
ユウタはそんな無残な俺に手を差し伸べてくれた。
“しっかりしなきゃ!”
どうにかそう言い聞かせた俺は、目の前の柔らかくて温かな手を取ると、ゆっくりとその場を立ち上がって中に入り、扉を閉めた。

それから五時間。
部屋があらかた片付いて、俺は一息吐いていた。
ユウタはまだ細かなゴミを集めている。
本当は手伝いたかったが、体力の落ちた俺にはこれ以上はもう無理だった。
下を向き、居場所をなくした居た堪れない心を持て余して俺は、ただこの時が過ぎ去るのを必死に待っている。
情けない。
「はい、コーヒー。この部屋食べ物とか何にもないけど、食事はちゃんと食べないと駄目だよ。少し痩せたみたいだし、インスタントラーメンばっかりじゃ身体壊しちゃうよ。連絡先、メモに書いておいたから、また連絡して。ぼくこの後用事があるから帰るね、じゃ!」
慌てて顔を上げると、目の前には、温かなコーヒー。
そうして、ユウタは笑顔で去って行った。
送ろうとする俺を片手で制して、何処か淋しげな眼差しを俺なんかに向けて。

ユウタの居なくなった部屋は、すっかり片付いてしまっていて、ガランとしていた。
何だか居心地が悪かったが、せっかくユウタが片付けてくれたのだから、もう散らかしてはいけないような。
そんな気がしていた。
板張りの天井を眺める。
それは次第に歪み出し、やがて視界から完全に消え去る。
気が付くと俺は、少し痩せたとはいえまだ緩み切った自分の身体を抱きかかえて、震えながら嗚咽を漏らしていた。
それはきっと、情けない、恥ずかしい姿だった。
だが、それでも今の俺には関係なかった。
俺は一心不乱に泣き続けた。
そうして、日が落ち夜が更けていく。
俺は何時の間にか寝てしまっていた。

明くる日の、朝。
誰もいない独りぼっちの、いつも通りの朝。
いつもよりもだいぶ早くに目を覚ますと、普段死ぬ程寝起きの悪い筈の俺は、何処か清々しい気持ちを抱えて、煎餅布団の上に座り込んでいた。
もう一度、もう一度だけ。
立ち上がろう、這い上がろう、また笑おう……そう思えた。
特に何があったという訳でもない。
ユウタが戻ってくる訳ではない。
そんな夢みたいな事は、もちろん有り得ない。
けれど、それでもほんの数時間奴と同じ空気を吸っただけで、“またやり直せる、きっと何度でもやり直せる”、そんな気持ちになれた。
俺はどうやら、再び奴の魔法に掛かったみたいだ。
出会った日に最初に奴が俺に向かって掛けたそれよりは流石に、多少は穏やかな効き目だったかもしれない。
けれど、それでも……。
もう死ぬかもしれない、そんな予感を日々切迫したものとして感じていた俺にとっては、これから先死なずに生きていく上で必要にして十分な効き目の魔法だった。

くたびれたカーテンの隙間から差し込む朝日が眩しかった。
時計を確認すると、まだ6時だった。
本当に久々に、生きた心地のする朝だった。

7時になり、重い腰をようやく持ち上げると、俺は朝食の支度を始めた。
昨日、ユウタには食事について心配されたが、今は金がない。
だから今朝もいつも通りのインスタントラーメン。
卵さえも切らしていて、本当に何もない。
蛇口を捻り、昨日ユウタが洗ってくれた片手鍋に水を適当に注ぐ。
次にそれをコンロに載せ、火にかける。
沸騰したら麺を入れ、丼を用意する。
気が付くと、いつもよりも心なしか身体が軽かった。
動き出しはいつも最悪だが、いざ動き出してしまえば、意外とどうにかなるものだ。
改めてそれを実感する。
丼に粉末スープを入れ、麺が煮えるのを待つ。
「よし、煮えたな。」
片手鍋の中の麺をお湯ごと丼に注ぐと、俺は煎餅布団の側にそれを置き、その場にゆっくりと腰を下ろした。
この部屋にはテーブルはないから、食事はいつも床に直置きである。
二年前、ユウタと別れた後。
逃げるようにここへ引っ越してきた時には、以前の部屋で使っていたテーブルが置いてあった。
けれど、狭いから邪魔になるので、程なくして処分してしまったのだ。
以来、この部屋にあるのは型落ちのノートパソコンと小さなTV、それに冷蔵庫と電子レンジ位のものだった。
洗濯機でさえも置き場がなくて引っ越しの際に処分してしまったから、ここには本当に何もない。
ましてや昨日までゴミの山で足の踏み場もなく散らかっていたこの部屋は、今は紙切れ一つ落ちておらず、まさにがらんどうだ。
「さ、伸びない内に食べるか……。」
俺は買い溜めしておいた100膳100円の割り箸を袋から取り出して片手で割ると、もう片方の手で丼を持ち上げ、麺を啜った。
ひたすら麺を啜る。
無言の食事。
別に旨くもない。
けれど、もう慣れている。
だからどうって事はない。

「ご馳走様」
誰も居ない小さな部屋に、俺の沈んだ声が響く。
何時の間にか、気分は憂鬱だった。
けれど、こんな鬱屈とした気分を吹き飛ばしたくて、珍しく俺は用事もないのに外に出てみようと思った。
「公園にでも行ってみるか……。」
俺は重い腰をのっそりと持ち上げると、半月振り位に風呂場を覗く。
恐る恐るだったが、特に代わり映えのする所はなくて、ホッとする。
次の瞬間、意を決してその場で服を脱ぎ捨てると、俺はひんやりとするモザイクタイルの床にゆっくりと足を踏み入れた。
旧式の風呂釜のレバーをガチガチと回して、覗き窓でちゃんと火が点くのを確かめながら点火作業を行う。
久々なのでぎこちない。
そして……。
「うぁぁー!」
迸るお湯が、すっかり汚れ切った身体中に降り注いだ。
そのまましばらくの間、温かなお湯の心地良さに身を委ねる。
そうしている内に何だか眠くなってきたので、俺は慌てて身体を洗う事にする。
まず最初に、たまたま目に付いたので、縮み切ったあそこの皮をゆっくりと剥いていくと、恥垢がたっぷりと溜まっていて俺に溜め息を吐かせた。
俺のあそこは勃っても剥けないし、男の人にHをしてもらう際にも必ず「触られると痛いから剥かないで」と頼んでいた。
これでも一応、真性ではなく、仮性の包茎ではあったのだが……。
先っぽがどうにも敏感過ぎて、見た目からして未だに子供のそれのような自分のあそこを、俺は正直いつでも持て余していた。
だから俺のあそこの先っぽが皮の中から顔を出すのは、シャワーを浴びる時だけだ。
俺は軽く息を吸い込むと、表面にしっかりとこびり付いた大量の恥垢を、長い時間を掛けてそうっと洗い落としていく……。
……そうしてしばらく経って、俺のあそこはようやく綺麗になった。
その後も特に意味はなくても、次にシャワーを浴びようと思えるのがいつになるかも分からなかったから、俺は隅々まで丹念に身体を洗っていった。

やがて身体中を綺麗にし終えた俺は、バスタオルで水気を拭き取って風呂場を出ると、適当に服を探す。
どうにか綺麗そうな下着とジャージを見付けると、俺はその場で早速着替えた。
鍵を持ち、戸締まりをしてのそのそと公園に向かう。
空を見上げると、本当に雲一つない。
風は若干追い風で、気持ちが少し軽くなる。
「ふぅ……。相変わらずここは誰も居ないな。」
俺は所々塗装の剥げ落ちた木製のベンチにゆっくりと腰を下ろした。
ここは、猫の額程の広さの、小さな公園。
住宅街の中にひっそりと、まるで息を潜めているかのように目立たなく存在している。
噴水も砂場も滑り台もなく、水飲み場もない。
ただ木が何本か植わり、その根元にベンチが二つ、設置してあるだけ。
それだけの公園だ。
だから、人はあまり寄り付かない。
俺はここが好きだ。
引っ越してきてから、時々利用している。
「そろそろ、通勤・通学の時間なんだな……。」
公園の外を、ランドセル姿の小学生や背広姿のサラリーマンが通り過ぎていく。
まだ社会に打ち棄てられていない、希望の残された人々が、それぞれに悩みを抱えながら闘いの場へと赴く様を、俺はその外側から他人事のように眺めている。
趣味の悪い事ではあるが、もう慣れっこだ。
俺は溜め息を一つ吐くと、ぼんやりと空を見上げながら昔の事を思い出す。
……俺、暇なんだな。

俺は幼い頃から、両親との折り合いが悪かった。
そもそも物心付く前に実の母親は俺を見捨てて家を飛び出していたので、俺が知っている“母親”との間には血は繋がっておらず、彼女とは単なる義理の親子の関係であるに過ぎない。
その義理の母親には連れ子が居て、両親はそちらばかりを可愛がっていた。
当然俺には居場所というものがなく、所詮両親にとってのストレス解消の捌け口でしかなかった俺は、家の中ではいつも歯を食い縛って、無言で下を向いていた。
幼い頃から両親の手によって度々暴行を受けていた俺は、その苦痛もあってか、自然に笑う事が出来なくなっていたのだ。
いつの頃からか俺の素肌には、痣や小さな生傷が絶えなかった。
そうして誰にも愛されないままに成長していった俺は、心の片隅に常に悲しみを、悔しさを、痛みを抱えていた。

やがて学校に行くようになると、気の弱かった俺は格好の苛めのターゲットとなった。
放課後になると同級の連中に着ている服を力任せに破られて、よく困っていたっけ。
帰ると決まって母親が何度も何度も平手打ちをするから、俺はその度に泣きながら土下座をした。
「あんたみたいなろくでなしが居ると、ウチみたいにお金のない家は苦労すんだわ!反省しろ!」
涙も鼻水も垂れ流して全身を震わせながら玄関のタタキに頭を擦り付けていると、大抵は罵声と共に足元に転がっているハイヒールの類が頭を痛打するのだった。
どうにか家に上げてもらえても、そのせいで俺は服を身に付ける事さえも許されず、両親や連れ子の妹の前で全裸になる事を日々常に強要されていた。
最初の内は抵抗していたが、それでは肝心の食事が一切食べさせてもらえない事に気付き、空腹に耐え兼ねて自ら進んで服を脱いだ。
後に分かったのだが、俺はクラインフェルター症候群という奴で、そのせいで年頃を過ぎても陰毛や腋毛が一向に生えてこなかった。
クラインフェルター症候群の症状は人によって様々なのだが、俺の場合これは今でも変わらない。
また、この病気の患者には背が高くほっそりした者が多いとの事だが、俺は幼い頃から肥満体だったし、背も至って普通だ。
筋肉質ではない為か、むしろ子供のような丸っこい身体つきである。
あそこの大きさも元々とても小さかったのだが、いつまで経っても大きくならなくて、俺は他人に指摘されるまでもなく自分の身体が大嫌いだった。
それなのに……。
俺は、中学一年の冬にとある事情で家を飛び出すまでの間、家ではずっと全裸で過ごさざるを得ないでいた。
両親はもちろん、物心のついた妹までもが俺を嘲笑っていたが、養ってもらっている立場ゆえに仕方のない事なのだと、俺は自分に何度も何度も繰り返し言い聞かせ続けていた。
妹はよく割り箸で俺の小さなあそこを摘んでは、携帯で写真を撮って遊んでいた。
友達にメールで送り付けたりネット上に晒したりして、遊んでいたようだ。
俺は恥ずかしくて悔しかったが、それでも無抵抗でいるしかなかった。
妹の機嫌を損ねれば、その日俺には食事はない。
俺は食卓においては残飯整理の役割を担っていたが、その点には特に不満はなかった。
俺はただ、何であっても物を食べさせてもらえる事が、とにかく嬉しかった。
夜になると俺は台所に追いやられる。
俺は自分の部屋さえも与えられていなかったから、狭い台所に煎餅布団を敷いて、毎日そこで眠っていた。
時々ゴキブリが出るのだが、見付けてももちろん声をあげる訳にも音を立てる訳にもいかない。
結局そういう時には諦めて、恐怖の中ただ眠れぬ時をやり過ごすしかなかった。
そうでなくても夏は暑くて眠れないし、冬は底冷えが酷い。
どうにか我慢に我慢を重ねて朝になっても、学校に行けばまたいつものように苛めが待っている。
誰かに助けてもらいたいと願ってはいたが、俺は頭も要領も運動神経もとても悪かったから、どの授業にも全く付いていけなくて、本来救いの手を差し伸べてくれる筈の先生にさえ疎まれ見放されていた。
だから俺に対する苛めは、ことごとくなかった事にされてしまっていた。
結局何処にも居場所がなくて、いつでも息が苦しかった。
俺はそうした日々の中で、生きる気力をどんどん奪われていった。
俺は辛かった。
別に実の母親が恋しいなどと思っていた訳ではない。
何処に行っても同じ事だと、心の片隅でちゃんと分かっていた。
そう。俺は、ただ辛かったのだ。
けれど、何かあっても声を上げて泣けば怒鳴られるから、俺はただ静かに毎晩、己の身体を抱きかかえて丸まって、啜り泣いているしかなかった。
そんな、重苦しい小学校時代が静かに過ぎていった。

やがて中学校に入ると、俺は苛烈さを増していく苛めに耐え兼ねて、不登校になってしまう。
だからといってもちろん、家に居場所がある訳ではない。
小遣いさえもろくに貰っていなかった俺は、下校時刻の頃になるまでの間ずっと、暑い日も寒い日も、くる日もくる日も独りぼっちで街を彷徨い歩いていた。
そんなある日。
それは寒い冬の、クリスマスを直前に控えて街が一際賑わいを見せていた頃の事だった。
幸い自宅は日本一の繁華街である新宿にもどうにか徒歩で行ける位の距離にあったので、俺はよくそこで延々と時間を潰していた。
その日も、東口周辺をとぼとぼと歩いていた。
ふと目の前を、若い男の人が通り過ぎる。
素敵だった。
目が離せなかった。
見る間に身体中が内側から熱くなっていった。
デパートから出てきたその人は、東口とは反対の方向へと歩いていく。
俺は夢中で後を追った。
そうして気が付くと何時の間にか、俺はいわゆる“二丁目”へと足を踏み入れていた。
まだ太陽は頭の天辺にあって、人通りは疎らだ。
それでもそこには、今までに見た事のない雰囲気を持った男の人たちがちらほら。
「あ、ここが二丁目なんだ。」
その事実に気付いた俺は、根拠の乏しい恐怖に圧倒され、眩暈を覚えていた。
それでも息を切らしながら必死になって、先ほどの若い男の人の後を追ってはみるのだが……。
その人が細い道沿いの小さなビルの階段を上っていくのを目の当たりにして、俺は結局諦めざるを得ないのだった。

「ふぅ……。」
言い知れぬ疲れを身体の奥底から感じ取っていた俺は、深く溜め息を吐く。
小さなビルのファサードにもたれかかって、一休み。
そのまま途方に暮れて、邪魔にならないように静かに佇んでいると。
見るからに仕立ての良さそうなロングコートに身を包んだ、白髪で恰幅の良い男性に声を掛けられた。
「坊や、良かったら近くの喫茶店でお茶でも飲まない?」
正直、好みではなかった。
この頃はまだ自覚してはいなかったのだが、俺は細身の年下の子が好みなのだ。
この時の白髪の男性は、そんな俺の好みからはおよそかけ離れていた。
だから素直に断っても良かった。
この時の俺は確かに緊張してはいたが、男性の物腰はとても柔らかく、無理矢理に連れて行かれそうな雰囲気など皆無だったから、断る事も出来た筈だ。
それでも俺はその男性に向かって、黙って頷く。
それも一度ではなく、何度も。
それは多分、目の前の男性がとても優しそうだったから、すぐにでも縋り付きたかったのだと思う。
「坊や、辛そうな目をしているね。悩みがあったら、話してごらん。時間は、たっぷりあるよ。」
男性は、その皺の多い温かな掌を、俺の目の前にそうっと差し出した。
俺はまたもや黙って頷くと、その掌を両手でしっかりと握り締める。
「坊や、そんなに力を込めなくても、私は何処にも行かないよ。私の名はショウジ。よろしくね。」
ショウジさんは、気が付くと俺なんかの目をずっと見つめていて、そしてニコニコと笑ってくれていた。
俺はそれが余りにも嬉しくて、その場でポロポロと涙を零してしまった。
「さぁさぁ、泣かないで。こんな所ではなんだから、少し落ち着いて話が出来る場所に移動しようか。さ、付いてきなさい。」
ショウジさんは俺の手をそっと引くと、ゆっくりと歩き出した。
「坊や、名前は?何て呼べばいいかな?」
喫茶店への道すがら、ショウジさんは引いていた手を離して俺の頭に手を置くと、顔を覗き込みながら名前を尋ねてきた。
「ヤスユキです……。」
俺は消え入りそうな声で大嫌いな己の名前をどうにか告げる。
「そうか、それじゃあ私は今日から坊やの事をヤスくんと呼ぶ事にしよう。ヤスくん、改めてよろしくね。」
ショウジさんはまたも笑っていた。
その笑顔に何故だか申し訳なさを感じた俺は、“こちらこそよろしくお願いします!”と慌てて何度も頭を下げた。
「大丈夫だよ、そんなに緊張しなくて。ところでヤスくん、胸元に小さな痣があるけど、それはどうしたのかな?」
気付かなかった。
言われて初めて気が付いた。
俺はこの時まで、自分の身体に無頓着だった。
その痣は恐らく、昨晩酔った父親に殴られた時のものだろう。
ショウジさんの顔が見る間に曇る。
俺は慌てた。
「あ、これは友達と喧嘩した時に出来た痣で……どうか心配しないでください!」
俺は思い付く言い訳を咄嗟に口にしていた。
けれど、ショウジさんの目は誤魔化せなかった。
「ヤスくん、実は私の自宅が近くにあるんだ。良かったらおいで。大丈夫、君を傷付けるような事はしないから。」
その目は、悲しみに溢れていた。
それはまるで、俺の軋む心の微かな鳴き声を、聞き漏らさずにいてくれたかのようだった。
結局俺は、ショウジさんの捕まえたタクシーに乗って、彼の自宅まで行く事になった。
車内で、俺たちは無言だった。
ショウジさんを怒らせてしまったのではないかと不安になった俺は、堪らずにその丸い顔を覗き込む。
「おぉ、大丈夫だよ。不安にさせてしまったようですまないね。ヤスくん、ごめんね。」
先ほどまで厳しい顔をしていたショウジさんは、またも優しい笑顔を俺なんかに見せてくれた。
俺は心底ホッとしたし、嬉しかった。

やがてタクシーはショウジさんの家の近所まで到着する。
俺は一足先にタクシーを降りると、ショウジさんが支払いを終えるのを待っていた。
「さ、そこの角を曲がってすぐのマンションが私の家だよ。おいで。」
ショウジさんが俺なんかの手を引いてくれる。
俺は慌てて歩幅を合わせる。
僅かな距離を、二人並んで歩く。
それだけで、たったそれだけで、胸が苦しい位にドキドキするようになっていた。
タイプではなかった。
けれどこの時にはもう、俺はショウジさんの事を好きになっていた……。

そこはまだ真新しいマンションの、11階の突き当たり。
内廊下のお洒落な雰囲気に気後れして、俺は緊張から身体を震わせていた。
「さ、上がって。靴は適当に脱ぎ散らかしておいていいよ、どうせ誰も居ないのだから。エアコンを付けっ放しで出てきたから暖かいよ、上着を預かるね。」
一足先に室内に上がったショウジさんが、俺に手を差し伸べる。
「……お邪魔します。」
俺は足で靴を片方ずつ脱ぐと、着ていた上着を脱いで手渡し、そのまま廊下へと足を踏み入れる。
暖かな空気がふわっと頬をくすぐり、次いで冷え切った身体を包み込む。
途端に緊張を解された俺は、時折辺りを見回しながら、そのままショウジさんの後を付いていく。
前方には硝子の嵌め込まれた木の扉が半分程開いていて、中の暖かな空気をこちらまで送り込んでくれている。
ショウジさんの手でその扉が完全に開け放たれると、そこにはリビングとダイニング、そしてキッチンとが一続きになったこぢんまりとした空間が広がっていた。
「先にソファに座っていていいよ。私は飲み物とお菓子を持ってくるね。飲み物はジュースでいいかな。」
ショウジさんはそう言い残すと、パタパタとスリッパの音を立てて、キッチンへと向かった。
俺はその後ろ姿を横目で確認すると、目の前の革張りのソファに恐る恐る腰を下ろした。
深く腰が沈み込む感覚は、生まれて初めて経験するもの。
余りにも座り心地が良くて、暖かなエアコンの風に当たっている内に、疲れていた俺は次第に眠くなってきてしまう。
そうして数分が経過し。
瞼が重たいのを自覚しながら必死に目を開けていると、大きな手作り風のクッキーが何枚も乗った皿と、外国製の瓶入りのジュース、それに背の高いグラスなどが銀色のトレイから次々とテーブルの上に移されていった。
「隣、いいかな。」
ショウジさんは俺のすぐ隣にゆっくりと腰を下ろすと、徐に手を握ってきた。
「ねぇヤスくん、もし嫌じゃなかったら、私に君の裸を見せてくれないかな?少し、気になる事があるんだ。」
ショウジさんは、震える俺の身体をそっと抱き寄せると、手を握ったまま動かない。
「ショウジさんなら、いいよ……。」
少し間を空けて、返事をする俺。
咄嗟に、タメ口を利いてしまっていた。
湧き上がる不安のせいか、この時の俺はショウジさんに甘えてしまっていたのかもしれない。
少し後悔したが、考え込んでいても仕方なかった。
俺は意を決して立ち上がると、その場に次々と服を脱ぎ捨てていった。
「あぁ、可哀想に、可哀想に……。」
あと少しで一糸纏わぬ姿になろうとしていたその時、ショウジさんが俺の身体をそっと抱き締めてくれた。
この時俺は中学一年だったのだが、第二次性徴らしきものがやって来ない為にまだ見た目は小学生の頃のままだった。
体毛も一切生えていない。
そもそもまだ声変わりもしていない。
更に、この頃胸が若干膨らみ出してしまい、元来の太った体型と相俟って女の子のそれのように見えるかもしれなかった。
そんな俺を馬鹿にする妹の落書きが、油性マジックで身体中の至る所に書き散らかしてあって。
洗っても洗ってもなかなか落ちない上に次から次へと書き加えられていくそれらの存在と、両親の手によって全身の至る所に刻み込まれてなかなか消えてくれない痣や小さな傷痕とが、ショウジさんの涙腺をどうやら刺激してしまったみたいで。
ショウジさんは俺なんかの身体を力一杯に抱き締めると、全身を震わせながら声を上げて泣いてくれた。
俺のために、泣いてくれた。
これまでそんな人に出会った事が一度もなかった俺は、それが本当に心から嬉しくて、ただひたすらにショウジさんの大きくて温かな身体を、縋るように撫でさすっていた。
それから、どれ位の時が経っただろうか。
ショウジさんはゆっくりと立ち上がると、下着一枚を身に付けているだけだった俺の身体を抱き上げて、ゆっくりと歩き始める。
「何処へ行くんですか?」
不安になった俺が顔を覗き込みながら尋ねると、ショウジさんは真っ直ぐな眼差しで俺を見つめた。
俺はドキっとした。
目が離せなくて、どんどん胸が高鳴っていく。
そうして俺が高揚する意識を持て余してぼんやりとしている間に、ショウジさんは無言で廊下の木の扉の前まで辿り着く。
片手で器用に木の扉を開けるショウジさん。
そこはショウジさんの寝室だった。
大きな木製のベッドとサイドテーブル、それに机と椅子が、それぞれ一つずつ置かれた小さな部屋。
ショウジさんはその室内にゆっくりと進むと、足元のベッドの上に俺の身体をそうっと下ろして、自分もその横に腰を下ろした。
「正直、まだ早いと思う。でもヤスくんには自分の身体の価値をちゃんと知っておいて欲しいんだ。嫌ならいつでも言うんだよ、大丈夫。無理強いはしないからね。」
ショウジさんは俺の身体をそっと撫でながらそう言うと、そのまま俺のすぐ横に横たわる。
「胸、柔らかくて触り心地がとってもいいね……私は大好きだ。」
ショウジさんの手が優しく俺の胸に伸びる。
それから、俺は夢中だった。
肌と肌が触れ合う心地良さ、そして男として出来損ないだと思っていた自分の身体がもたらしてくれた思いがけない性感に、何時の間にか酔いしれていた。
「可愛いよ、可愛いよ、ヤスくんは本当に可愛いよ。」
そんな風に言われながら全身を、特に胸を執拗に愛撫されていると、ふと家での出来事が頭をよぎって、遂には涙が止め処なく溢れてくる始末で。
結局俺は、嗚咽を漏らしながら正味一時間位は、ショウジさんの愛撫に夢中になっていたと思う。
「さ、そろそろ出してみるかい?」
勃っても皮も剥けない上に恥ずかしい位に小振りな、別の病気を併発しているのではないかと思える位にどうにも発育不全気味な俺のあそこを指先で軽く摘まむと、ショウジさんはそれを上下に動かし始めた。
「あ、あ、あ、あ……。」
なおも空いた手や舌先で胸を優しく愛撫されていると、俺の頭は真っ白になる。
そうして。
「うぅぅーん、うぅーん、うぅぅぅーー。」
俺は全身に力を込めて、生まれて初めての射精の瞬間を迎えた。
今となっては恥ずかしい事だけれど、俺はこの時生まれて初めて、生まれてきて良かったと心から思えた。

……気が付くと、肩で息をしていた。
お腹の上には、透明に程近いさらりとした液体が、ごく少量撒き散らされていた。
「あぁ、やっぱり量は少ないんだね。いいよ、そのままでいいよ。大丈夫だよ。可愛かったよ、ありがとう。」
ショウジさんがキスをしてくれた。
気のせいだったのかもしれないけれど、この時確かに、甘い、甘い味がした。
それから、仰向けに横たわったショウジさんのすぐ隣で。
俺は、自分の身に降りかかったこれまでの出来事について、少しずつ話をしていった。
ショウジさんは、時折黙って頷いたり俺の手を握ったりしながら、とても真剣に話を聞いてくれた。
一通り話を終えると、ショウジさんは立ち上がって俺の手を引いた。
「一緒にシャワー浴びようか?それから、ヤスくんのご両親に会いに行こうと思う。案内してくれるかい?」
俺は、ショウジさんの事は信じてみたいと思ったから、黙って大きく頷いて見せた。
ショウジさんは、俺の顔を覗き込んで笑ってくれた。
優しいけれど強い意志のこもったあの時の笑顔は、今でも忘れられない。
その後、シャワーを浴びている間も、俺はショウジさんに優しく全身を愛撫されて、本当に幸せだった。

シャワーを浴び終えて下着を身に付けた俺は、リビングへと向かうショウジさんの大きな背中を、ぼんやりとただ何となく追い掛けていた。
「そういえば着ていた服って、リビングに脱ぎ散らかしたままだっけ!?」
途中でその事に気付いた俺は、少し肌寒さを感じ始めていたせいもあって、歩く速度を次第に早める。
「はい、ヤスくんの服はこれで全部かな。着替えはゆっくりでいいよ。」
リビングに入ると、一足先に中に入っていたショウジさんが、散らばっていた俺の服を集めてくれていた。
俺は黙って頭を下げると、ソファに腰を下ろしてそれらを身に付ける。
ショウジさんは早くも下着を身に付けている。
いつかショウジさんの裸をもっとじっくり見てみたいと、まだ少しぼんやりとする頭で考えていると。
ショウジさんは何処かへ電話を掛け始めた。
どうやらタクシーを呼んでいるらしい。
まだ飲んでいなかったテーブルの上の瓶入りのジュースが目に付いたので俺はそれをグラスに注ぐと、一気に飲み干した。
続いて皿の上のクッキーを頬張る。
何だか図々しくなってきたものだとまだ子供だった自分が感じられる位には、この時の俺は大胆になっていた。
今から思うと、この時の俺は妙に興奮していた。
もしかしたらショウジさんとここで一緒に暮らせるようになるかもしれないなどと夢想していたのは事実で、それは俺の心を否が応でも持ち上げていた。

タクシーが到着する。
ショウジさんに手を引かれて、俺は温かな部屋を後にする。
刺すような冷気が頬を刺激するけれども、浮かれていたせいか、それも何だか心地良く思えてしまう程だった。
マンションの前には、既に迎えのタクシーが停まっていた。
ショウジさんは、ワニ皮の黒いボストンバッグを持ってタクシーに乗り込んだ。
何が入っているのか気にはなったが、他人でしかない俺がそれを尋ねるのもどうかと思い、結局何も言えなかった。
車内で俺たちは終始無言だったが、ショウジさんは、次第に不安に飲み込まれていく俺の震える拳を、その温かな掌で優しく包み込んでくれていた。
途中、銀行の前でタクシーが停まる。
「ちょっと待っててね。すぐ済むから。」
そう言うとショウジさんは、銀行の入っている建物の中に駆け込んでいった。
俺は、窓の外をジッと眺めながら、ショウジさんの帰りを待っていた。
それからしばらくして、ショウジさんがゆっくりとした足取りで戻ってくるのを確認すると、俺は嬉しくて笑顔を零した。
それは、このままタクシーの車内に置き去りにされたらどうしよう、などといった不安が何度も繰り返し頭をよぎっていたからで、俺はショウジさんの笑顔を見ると涙を零しそうになる。
そんな俺の様子の変化を察してか、ショウジさんはコートのポケットから外国製のチョコレートの小箱を取り出すと、俺に手渡してくれた。
「ありがとう……これ、今ここで食べていいんですか?」
俺は小箱を両手で受け取ると、念のためにショウジさんの顔をそっと覗き込む。
「あぁ、もちろんいいよ。私も一枚貰おうかな。溶けていないといいけど。」
ショウジさんは俺の頭を優しく撫でながら、そう言って笑ってくれた。
片側三車線の大通り。
渋滞気味のその路上をノロノロと走るタクシーの車内で、俺たちはチョコレートの滑らかな食感と鼻に抜ける甘い味に舌鼓を打っていた。
「ショウジさん、このチョコ美味しいです!」
チョコレートを舌の上でゆっくりと転がしながら、俺は思わず顔を綻ばせてしまう。
「落ち込んだりイライラしたり。そんな時は、チョコレートがあったら食べるといいよ。チョコレートを食べると脳内のセロトニンという物質が増えるんだ。セロトニンには気分を調節してくれる働きがあるから、落ち込みやイライラには効く筈だよ。」
ショウジさんは俺の知らなかった豆知識をさらっと披露してみせると、チョコレートを一つ、とても美味しそうに頬張った。
そんな様子が何だか可愛くて、俺は堪らずにショウジさんの掌を握る。
「ねぇ、ショウジさん。それだけ美味しそうにチョコを食べてるって事は、ショウジさんも実はちょっとイライラしてたんでしょ?俺はしてたよ。何時の間にか不安だったもん。」
何時の間にかタメ口で話し掛けていた俺は、思わず声を上げて笑った。
見ると、隣でショウジさんも笑っていた。
そのせいか、これまで感じた事のない穏やかで温かな気持ちが、俺の心を支配していく。
ショウジさんの側にならこのまま居てもいいと、俺は心の底から思っていた。
振り返ってみると、俺はこの時既に生き直し始めていたのだった。

それから少し経って。
タクシーが俺の家の前にゆっくりと滑り込んだ。
いつもよりも少し早く、ショウジさんに連れられて、今俺はここに居る。
それが、何故だか不思議に感じられた。
俺の未来が今からの僅かな時間にかかっているかもしれない、そんな予感のせいか、落ち着いてはいられない気分だった。
拳を握り締めて、大きく息を吸い込む。
そうして俺が緊張しながらタクシーを降りようとすると、ショウジさんはそれをそっと静止した。
「……え?」
俺が戸惑いを隠せないでいると、ショウジさんはその太い指先で俺の頬を笑いながら突っついた。
「疲れたろう?のんびり寝てていいよ。話は私がちゃんとしてくるから。必要な時には呼びにくるから、それまでここで待っているんだよ。約束だよ。」
ショウジさんの優しい笑顔が早くも大好物になっていた俺は、その大好物をまさに目の前にして、すっかり弛緩した気分にさせられてしまったのだった。
ショウジさんがタクシーを降りて俺の家へと向かう後ろ姿を、俺はいつまでも目で追っていた。

静かな車内。
鳥の囀りが聞こえた。
雀だろうか。
ふとガラス越しに上を見上げたら、まだ太陽は空高くに居座り、その空はというと、ツンと澄ましたかのように、青一色だった。
俺は、電線に留まる雀からその向こう側の空へとフォーカスを合わせ直しながら、フワフワと、身体が浮くような気分を存分に味わっていた。
たぶん、別れ際のショウジさんの魔法が効いていたんだと思う。

それから、およそ三十分。
ゆっくりとした足音が近付いてきた。
俺は、急に胃が痛くなるのを感じながらも、笑顔で足音の主、ショウジさんを迎え入れた。
期待と不安が入り混じる中俺は、早速声を上げる。
「話、どうだったの?」
上目遣いで尋ねる俺の声には、微かに震えが混じっていた。
けれども次の瞬間に、その不安は杞憂であった事を俺は悟る。
「大丈夫、大丈夫。」
そう言って、ショウジさんは満面の笑みを浮かべたからだ。
「良かった!俺、これからどうなるの?」
気になっていた事だ。
俺は、虫の良い妄想の類を頭の中で巡らしながら、ショウジさんの次の言葉を待っていた。
「これから、一緒に暮らすんだよ。ご両親から普通養子縁組の許しが出たから、義理の親子になるんだ。もちろん、君が良ければだけどね。」
何と、俺の妄想はその殆どが当たっていたのだ。
ついでに、その妄想によるとボストンバッグの中身は現金だったりするのだけれど、バッグの中身についてはショウジさんの口からは遂に教えて貰える事はなかった。

それから、俺は嬉しい事に、養子縁組成立後に転校する事になった。
実家と、これから俺が暮らす事になるショウジさんの家とでは、学区が異なるためだ。
俺はタクシーの車内でショウジさんからその話を聞かされて、思わず飛び上がりそうな程に喜んだ。
もしかしたらこれで苛められる事なく、中学校を卒業出来るかもしれない。
そう思うと、自然と涙が止まらなくなった。
そうして車内で嗚咽を漏らす俺にショウジさんは何処までも優しくて、俺はこの人にずっと付いていきたいと、この時ハッキリと思い始めた。
俺はシンデレラかもしれないと、この時は本気でそう思っていた。

タクシーが次に滑り込んだのは、デパートの前。
「さ、今日はお祝いだよ。ご馳走たくさん作るからね、遠慮せずに食べるんだよ。」
そんな嬉しい言葉と共にショウジさんが先にタクシーを降りる。
ぼんやりしていたせいで反応が遅れた俺は、慌ててその後を追った。
俺は混み合ったデパートの中を、ショウジさんの背中を追い掛けながら、すり抜けるようにして歩いていく。
地下食料品売り場で。
ショウジさんは高そうな食材やスパイスを次々と手に取っていく。
今までに見た事のないものも多く、俺は期待に胸を膨らませた。

結局、今夜のお祝いの為の食材を山程買い込んで、帰りのタクシーに乗り込む俺たち。
車内では、ショウジさんの手でこれから作られるご馳走についての話題に、花が咲いた。
パエリアにブイヤベース、ヒラメの香草焼き……。
俺にとっては、名前を聞いただけでも涎が溢れ出てくる程のご馳走だ。
横を見れば、ショウジさんの温かで眩しい笑顔。
俺は、生まれて初めて訪れた大きな幸せに戸惑いながらも、喜びのあまり身体中を火照らせていた。
暑いのは決して、暖房の効き過ぎのせいでは無かったという訳だ。

帰宅後、俺はリビングでTVアニメを観ながら寛いでいた。
ショウジさんの家ではCS放送を受信しており、アニメ専門チャンネルも複数観られるのだった。
お陰で退屈する事もなく夕食時まで時間を潰す事が出来た。
「楽しそうだね、そろそろ食事の用意が出来るよ。」
ショウジさんはそう告げると、大きなトレーに載せたオーバル皿を
ダイニングテーブルの真ん中に置く。
今晩のメインディッシュ、パエリアの登場だ。
「ブイヤベースと香草焼きも、今持って来るから待っててね。」
そして程無くして、テーブルの上にはご馳走がズラリと並んだ。
「本当はまだ早いけど、シャンパンも用意したよ。今晩だけ、特別だからね。」
そう言われて、俺のテンションは爆発!
「早く食べようよ、どれも美味しそう!」
「さ、ヤスくん、ようこそ我が家へ。いただきます。」
「いただきまーす!」
その後、食いしん坊二人が精力的に食べたお陰で、ご馳走はあっという間に無くなった。
食事中、俺たちの間には大した会話は無かったが、常に笑顔は絶えなかった。
こうして俺はこの日、ショウジさんの家の一員、家族として迎え入れられたのだった。

それから俺とショウジさんは、毎日一緒だった。
普通養子縁組の許可が下りるのに時間は思いの外掛からず、新しい学校へも通うようになった。
今度の学校では、影は薄かったものの苛められる事はなく、ただの劣等生としての日々を毎日だらだらと過ごしていた。
結局新しい学校でも友達は出来なかったが、それはこの時の俺にとっては大した問題ではなかった。

家では、忙しい仕事の後にもかかわらず、ショウジさんが毎日勉強を教えてくれていた。
「ね、ここ分かんない。」
「どれどれ、ここはこうして、こんな風にして解いてやればいいんだよ!」
「その説明がもう分かんない!全部分かんないから、もう寝る!」
そんな俺の我儘はしょっちゅうだったが、それでもショウジさんは、いつでも根気強く俺に勉強を教えてくれようとしていた。
結局勉強はこれっぽっちも出来るようにはならなかったが、俺にとってはショウジさんの気持ちが温かくて、それもまた幸せな時間だった。

中学時代の前半は、二人でよく温泉旅行に行った。
東伊豆、堂ヶ島、箱根、和倉、秋保……。
俺は旅行の度に舞い上がってしまい、調子に乗ってしまっていた。
お土産をねだり、夜は抱いて欲しいとねだり、行く先々でご馳走に舌鼓を打った。
ショウジさんが見たてる旅館はいつも高級なところばかりで、俺は連れて行ってもらう度に目が眩む思いだった。
中でも、夏休みの秋保での想い出は格別だった。
地元でも随一の高級旅館の露天風呂付きのお部屋に、一週間も滞在したのだ。
一日中、観光もせずにショウジさんの側で庭園の景色を眺める時間は、長閑で至福だった。
その時の想い出は、今も俺の胸の中で輝いている。
それだけ、分不相応で贅沢で、夢のような体験だったのだ。

その後、中学時代も後半になると、俺の受験勉強の事もあって、旅行に行く機会はすっかりなくなってしまった。
それでも、俺にはショウジさんが居た。
だから何も変わらない。
それだけで、心の底から幸せだった。

しかし……。
中学三年の十二月。
出会ってから、ちょうど丸二年。
事態は一変する。
俺はショウジさんの仕事の事は詳しくは聞かされていなかったが、不動産会社を経営しているとだけは聞いていた。
その会社が不渡りを出したのだ。
投資が焦げ付いた、それ位の事しか俺は知らない。
結局、ショウジさんは失踪し、俺は住む家を追われた。
その日、十二月十日。
遡る事ちょうど二年前が、ショウジさんと出逢った記念日だった。
俺は帰る当てもなく、手荷物さえもない状態で、泣きながら路上を彷徨っていた。
別れ際、何も知らなかった俺が最後にショウジさんから聞いた言葉、「諦めるな、お前は、最後の最後まで、生きろ!」あの時理解不能だったそれだけが何度も何度も胸の中でリフレインしては、俺の心を掻き毟った。
気が付くと、俺は交番の程近くで蹲って泣いていた。
「どうしたんだ、君。」
当然の職務質問。
俺は実家の住所を告げた。
この状況だ。
どうせ中学を卒業したら身体でも売って働くのだ。
だったらそれまでの間、住まわせて貰えればそれでいい……。
半ばやけっぱちでそう思っていた。

俺は再び実家に転がり込んだ。
警官に連れられて、何時の間にか建て替えられて新しくなっている実家の前に立つ。
インターホンが押され、母親が姿を現した。
どれだけ嫌悪感剥き出しの表情で現れるのかと思いきや、笑顔だった。
それも、良心からの笑顔ではない。
ざまあみろ、そう顔に書いてあった。
俺を見下す母親の目。
俺は一生、忘れない。
その日から再び、全裸での生活が始まった。
俺は再び不登校になった。
言うまでもなく、一刻も早く実家を飛び出したかった。

そして、春。
皆が高校に進学する春。
成績、出席日数共に最悪だった俺が、母親に売られる春。

俺は母親に言われるがままに、遠い親戚の経営する工場でお世話になる事になった。
三月末、何も知らない俺はナイロン製の安いボストンバッグ一つ片手に、実家を後にした。
実家の鍵は取り上げられたから、その時の雰囲気で、もう戻る事もないと分かっていた。
片道切符を手に親戚の元へと向かう列車に揺られながら、青い空を眺めてはただひたすら、涙が止まらなかった。

それから、実に七年間。
俺は工場で働きながら、社長の性処理奴隷として、日々掃き溜めのように扱われていた。
母方の遠い親戚である社長には、奥さんが居たのだけれど、実はゲイであり、行き場の無い俺は掃き溜めとしてはうってつけだったのだ。
それが証拠に、痛いのが大の苦手だったにもかかわらず、徐々にではあるが、プレイの内容はエスカレートしていくばかりだったのだ。
とはいえ、住まいからして社長の家の納戸であり、生活全てを管理されていたから、覚悟を決めて逃げ出さない限りは、プレイを断る事もままならない状況だった。
工場での仕事も病気の俺にはキツく、コネで入社した事へのやっかみもあって、毎日昼も夜も罵声を浴びていた。
俺は毎日が、苦痛だった。
まるで振り出しに戻ったかのような、苦闘の日々。
俺は、死にたかった。
けれども、臆病で。
ただそれだけの理由で、死ねなかった。
だから悔しかった。
日々、苦闘していた。
逃げ出せば必ず路頭に迷うと洗脳されていたせいで逃げるに逃げられなかった七年間、俺が覚えているのは、空だけは何時でも、誰に対しても青かったという事だけだ。

そんな俺が、再び生き直す事になるのは二十二歳の夏の事。
ちょうど今から三年前の事だ。
プレイでの扱いが暴行の域に達しつつあり、耐えかねて遂に深夜、ボストンバッグ一つ片手に二丁目へと逃げ出したのだ。
給与は僅かばかりの小遣いを除いては全て没収されていたため、所持金は僅か。
学歴も大したスキルもなく、正に路頭に迷ったその時。
俺は一人の男と出逢った。
それが、ユウタだ。
ユウタは、俺と同い年。
十二歳の頃に交通事故に遭い、自らは助かったものの、両親を失った。
以来、親戚の家で暮らしながら勉学に励み、奨学金を貰って有名私立大学に進学、卒業後にベンチャー企業を立ち上げて、現在に至るまで苦闘の日々を送っていた。

出逢った日、俺は今日と同じように一文無しだった。
二丁目の路上で当てもなく時間を潰していたら、ユウタの方から声を掛けられた。
「ねぇ、時間ある?」
そう聞かれたから、俺は黙って頷いた。
「歳、幾つ?」と聞かれて、淡々と答えて、同い年だと分かって、俺の前で何故だかはしゃいで。
そんなユウタは、俺の胸のど真ん中を射抜いた。
けれど、俺の身体はもう傷だらけだ。
度重なる暴行と調教による傷跡が生々しく残っていて、とても見せられないと思った。
俺には、ユウタと付き合う資格などない。
そればかりか、一夜限りの情事だったとしても、どん引きされて終わるだろう。
これ以上話してもお互いに時間の無駄だと悟り、俺は口を開く。
「俺、親戚の性処理道具、掃き溜めだったんだ。もう全身傷だらけでさ。今、無一文で逃げ出して来たところ。だから、俺に声を掛けたって無駄だよ。」
その時、ユウタは、笑った。
邪気のない、天真爛漫な笑顔で、俺を受け入れようとしていた。
そして、「そんなの平気だよ、可愛いじゃん!」そう言って声を上げて笑った。
その姿はまるで、俺に好意を抱いているように見えたから。
俺は、告白した。
たぶん俺はこの時、焦っていたんだと思う。
「俺、お前に一目惚れしたみたいでさ。良かったら、俺と付き合わないか?」
ユウタは、黙って頷いた。
その時に、目の前の笑顔が弾けたのを見て、俺はユウタを力一杯、抱き締めた。
俺たちは仲通りの片隅で、互いの身体の感触を愛おしく貪った。

そうして。
いよいよ金がなくなり昨日住む家からも逃げ出したばかりで行く当てのなかった俺は、その夜から、六畳一間のユウタの部屋に転がり込んだ。
初めての夜。
「ヤスくんはきっとぼくに出会う為に生まれて来たんだと思うよ!だってぼくも今、おんなじ事考えてるんだ!」
奴に抱き締められながらそう言われて、俺の目からは滝のように涙が溢れ出て、止まらなかった。
その時に俺は、ユウタの邪魔にならないようにしよう、そう思った。

それからの俺は、毎日懸命に仕事を探した。
早く仕事を見つけて一人暮らしをしないと、狭い部屋に太った男二人では、ユウタが余りにも可哀想なのだ。
結局七社目の面接で、奇跡的に俺は採用された。
その会社は、鉄道の通信ケーブルの敷設を請け負う会社だった。
仕事は、軟弱な俺にはあまりにも過酷だった。
夏は炎天下、冬は寒風吹き荒ぶ中足場の悪い場所での単調な作業が続く。
誰にでも出来る仕事には違いなかった。
ただ、危険で、しかも異様な程に体力を消耗した。
夕方、太い通信ケーブルを収める為に、線路脇のコンクリート製のトラフの蓋を延々と外していると、次第に身体から力が抜けていった。
もう何も持てなくて、何度も足手纏いになって、何度も逃げ出しそうになって、その度にユウタの笑顔がちらついて、結局逃げ出す事など出来なくて。
しばらくの間はずっと、そんな調子だった。
それでも、入社から二ヶ月後には俺は一人暮らしをするまでになっていた。
その間、ユウタは俺を温かく支えてくれていた。
自分も毎日忙しいにもかかわらず、家事全般は全てユウタがこなしてくれていた。
俺はユウタの優しさに、何時でも甘えてばかりだった。

そうして、一人暮らしを始める為に俺がユウタの部屋を出て行く、まさにその夜。
俺はユウタから時計を貰った。
「ペアウォッチ、これで住処が離れ離れになっても、一緒だよ。」
その時計をはめた時、俺は秘かに心の中で、ユウタと結婚したような気にさえなった。

それからの一年。
俺は、幸せだった。
仕事は変わらず過酷だったが、工具の名前も覚えていったし、線路脇にある平均台のようなコンクリート製トラフの上を、フラフラとバランスを取りながら太いケーブルを担いで歩き続けるのも、身体が慣れて来て楽にはなった。
しかし同時に、俺は自分自身がユウタの優しさに溺れて甘え切っている事に、腹を立ててもいた。
俺は何時の間にか嫉妬深い性格になっており、何時でもユウタを縛り付けるようになっていった。
逢う度に携帯をくまなくチェックしたし、毎日の電話は欠かさなかった。
それでもユウタは、嫌な顔一つせずに俺の側に居た。
それは俺にとってはかえって、辛い事だったかもしれない。
こんな事ではいけない、ユウタの
夢の邪魔になってはいけない、そう思い始めたのだ。

結局一年後の夏に、俺から別れを切り出して、今日で丸二年。
一年前には、心の支えを失って力尽きたせいで遂に仕事も首になり、現在に至るという訳だ。

目下、絶体絶命。

俺は空を見上げた。
ふと思い出す。
そろそろ、しばらく前になけなしの金をはたいて買ったジャンボ宝くじの、当選番号の発表日なのだ。
俺は、財布に宝くじがバラで三枚入っている事を確認すると、近所の宝くじ売り場にふらりと歩いていった。
売り場のおばちゃんに、宝くじを渡す。
買った時に入れてもらった袋ごと。
その後、おばちゃんの顔色がみるみる内に変わっていくのを目の当たりにして、俺は事の重大さを自覚し始めた。

一等二億円、当選。
俺は売り場の前でへなへなと崩れ落ちた。
その時だった。
青い光が目の前に降り注ぎ、ユウタがうっすらとその姿を現したのだ。
「そのお金は、ぼくからのプレゼント。事業に失敗しちゃったから今のぼくに出来る事はこれだけ。幸せになってね、きっとだよ!」
それだけを告げると、風と一体となって消え去っていくユウタ。
俺は、叫んだ。
「待ってくれ、俺はこんな金より、お前が、お前が……。」
俺は、その場に泣き崩れる。
それから俺は、銀行に行くのも後回しにして、一晩、がらんどうの部屋で泣き腫らした。

翌日……。
もう太陽が空のてっぺんにある事が、カーテン越しの陽射しで明らかな時間。
俺は、気怠い身体をのっそりと起こすと、その場で固まった。
「おはよ、また会えたね、ヤスくん。」
二日続けて起こった奇跡。
一晩ずっと泣きながら、そんな事がいつか起こらないだろうかと、都合良く願っていた内容と寸分違わぬ、まさに奇跡。
二度目のそれの衝撃の大きさは、短い人生の中では最大かもしれなかった。
だから俺は、抱き締めた。
力一杯、心を込めて。
でも、俺の為に青い鳥に願ったユウタが、どうして元に戻れたのか。
そんな時に、ふと頭を過った。
あの人の存在が……。
「そうだ、ショウジさん……。」
すると青い光が部屋に降り注ぎ、ショウジさんが姿を現す。
ショウジさんは無言だった。
ただ、笑っていた。
そして、消えていく。
この想いを、願いを、無駄にしてはならない。
もう一度、俺は告白するんだ。
その時は、今しかない。

チェックメイト。
覚悟を決めなきゃ。

「ユウタ、俺はお前が、ずっとずっと、好きだった。
別れてからも、お前を一目この目で見たかった。
この二年間、俺は結局、何にも変われなかった。
けれど、お前への想いだけは、他の誰よりも強いって、誓って言える。
だからもう一度、俺の側に来てくれ。
きっと幸せにするから、約束するから、そうやって俺ももう一度生き直すから、だからお前も俺と、もう一度生き直すんだ!
俺もお前の側にずっといるから、お前も俺の側で、ずっと一緒に、な?」
肩で息をしていた。
何時の間にか流れ出していた涙と鼻水を、服の袖で拭った。
俺は相変わらず弱虫だった。
甘ったれで意気地なしで意志薄弱で、男らしさの欠片もない、どうしようもない奴だ。
それでも、ユウタの前でなら、きっともっと強くなれる。
優しくなれる。
そんな事ももう、分かり切っていた。

俺はユウタの顔を見据える。
その顔は、笑っていた。
邪気のない、温かくて優しい、天真爛漫な、そしてかつてのそれ以上の、とっておきの笑顔。
だから俺は、抱き付いた。
返事も待たずに、キスをした。
もちろん、待つ必要などなかった。
俺は奴の笑顔に、俺の未来を残らず託した。
奴だって、きっとそうだ。
だから今日は、俺たちの結婚記念日だ。
俺たちの未来への扉は今、開かれたのだ。

結局、当選した宝くじは、ユウタが起こした事業の債務の返済であらかた消えてしまった。
それでもユウタには新しい仕事がすぐに見つかり、俺たちは小さなアパートで共に暮らす事となった。
学歴も体力もスキルも無い俺は、宝くじを差し出した代わりに主夫としてユウタの日常を支える役回りを担う。
俺と違って社交的なユウタのお陰で、共通の友人も出来た。
ノゾムと、ユタカだ。
どちらも相方持ちで、太っていてヤキモチ妬きなところが俺とそっくりだった。
それだけに話も合う。
そのせいか会う度に賑やかで、生まれて初めての友人は、とても清々しい気持ちを俺の心の中へと運んでくれた。
そんな俺はとても幸せで、だからこそ何があってもこの暮らしを守るんだと、そう何度も青い空に誓った。
ふと部屋からベランダの方を見ると、空には青い鳥が飛んでいる。
「ショウジさん……。」
忘れ難き想いを遺して去って行ったショウジさんの最期の笑顔を無駄にしないためにも、俺は何処までもユウタに連れ添うと、そう何故だか何度も心の中で叫ばずにはいられなかった。
涙が止まらなかった。
そんな俺を、ユウタは抱き締めた。
俺達の幸福な日常は、まだ始まったばかりだ。

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シズクノココロ[Bluebird 外伝 - ハルに捧ぐ詩]

諦めていた。
全てを投げてもいいと、本気で思っていた。
絶望と孤独の底にあった。
それでもいいと、言い聞かせていた。
何度も、何度も、消えてしまおうと思った。
この世界への未練など少しも、これっぽっちも無かった。

けれども、心の痛みはいつまでも取れなかった。
ただひたすら、心が痛かった。
悲鳴が聞こえるような気さえした。
空模様のせいにした。
道行く人のせいにした。
それでも耐えられなくて、結局その場に蹲った。

自分の存在が誰からも見えなくなるような、そんな気がして、怖かった。
誰からも、忘れ去られていた。
必要無かった。
そう、あの日、あの子と出会うまでは、俺は負け犬だった。
本当に何にも無かった。
だからあの子の笑顔を見て俺は、この笑顔のためになら死んでもいいと、心から思った。
陳腐でも、本当にそう思った。

出会ったあの日、あの子の前で俺は、何も言えなかった。
喉元まで出かかった勇気の塊を、既の所で飲み込んでしまった。
追い詰められていた。
後が無かった。
だから俺は言葉の代わりに、目の前のあの子を抱き締める事で、溢れ出す想いを精一杯伝えた。
それだけがあの時の俺に残された唯一の、希望へと通じる道に舞い戻るための方法だった。
やがて、沈黙が訪れた。
それでも俺は、退かなかった。
ここで諦めたら何もかもが終わりだと知っていたから、退かなかった。

俺は怖かった。
長い長い、永遠の一瞬。
だけどそれで良かった。
だってあの子は次の瞬間、はち切れんばかりの笑顔で、俺の気持ちに、精一杯の勇気に、応えてくれたから。

振り返ってみるとあの日こそが、俺の人生の、本当の意味でのスタートラインだったんだ。

向かい風は南へと吹き付ける。
それでもあの日からの俺は、生まれ変わったように幸せだった。
雨が降っても、雪が舞っても、あの子が居たから頑張ってこれた。
この小説は、そんな俺のこれまでの日々の、ごく短い記録である……。

シズクノココロ[Bluebird 外伝 - ハルに捧ぐ詩]

午前三時。
身体の痛みで目が覚めた。
ズキズキとあちこちが痛い。
いつもの事だ。
俺は着ていた上着を捲ると、身体中の痣になった箇所を、そっと撫で摩る。
もちろん、そんな事をしたって痛みは引かない訳だが。
「喉、渇いたな……。」
俺は、身体中の痣を作った張本人たちが起きてしまわないように差し足で台所へと向かうと、コップに水を注いで、一気に飲み干した。
冷蔵庫のコンプレッサーの音がやけにうるさく感じられる真夜中。
ちょっと耳を澄ませば、掛け時計の音もカチカチとうるさく、静かなように思えても実は結構、賑やかなのだった。
だが、俺がコップを洗うために再び蛇口を捻ると、この時期特有の生ぬるい水の塊がシンクにぶつかる音によって、それらの儚い音たちはかき消されてしまう。
水を止め、コップを水切り棚に載せると、俺は深く溜め息を吐いた。
何時になったら、こんな暗闇のトンネルを走り続けるような日々から抜け出せるのだろうか。
正直、当ては無かった。
俺はもう一度深く溜め息を吐くと、ゆっくりと部屋に戻り、痛む身体を煎餅布団に横たえた。

午前五時ちょっと前。
いつもと同じ時刻に、計ったように目を覚ます。
まだ目覚ましも鳴っていないのにだ。
習慣とは恐ろしい。
再び差し足で台所に向かった俺は、フライパンを手に取ると、弱火に掛ける。
換気扇を回すと、台所中が一気に賑やかになるので、父さんや母さんが起き出してしまわないか、心配だ。
程なくして、冷蔵庫から取り出したベーコンを三枚、温まったフライパンに放り込むと、次第に食欲をそそる香りが鼻腔を刺激して、嫌でも空腹である事を自覚させられる。
それにしても蒸し暑い。
ベーコンがカリカリに焼けた所で卵を割り入れ、蓋を落とす。
皿を二枚用意して、後は出来上がりを待つだけだ。
三人分作ったが、用意した皿は二枚だけ。
俺の分は、洗い物を増やしたくないので、よそったご飯の上に直接載せる。
父さんと母さんの分のベーコンエッグを皿に載せて、ラップをした俺は、それを冷蔵庫に入れると、早速自分の分の朝食にありついた。
無言の食卓。
今は、その方が落ち着くから、それでいい。
今朝は食欲が無いが、夏バテだろう。
用意した朝食をどうにか平らげた俺は、洗い物をすると、少しふらつく足取りで玄関へと向かった。

家に居れば必ず暴行を受けるから、夜になるまでの間の時間を独りで外で潰すのは、ここ何年かの日課になっていた。
夜になって家に戻れば結局暴行を受ける事になるのだが、それでも一日中その恐怖に怯えるよりは、ずっとマシだった。
ちなみに、俺は学校には行っていない。
苛められていたのも行かない理由の一つではあった。
だが、一番の理由はむしろ、父さんと母さんの都合によるものだ。
学校で行われる身体測定の際に虐待の事実が明るみになるのを、二人は恐れていたのだ。
同じ理由で、俺は物心付いた頃からずっと、医者に連れて行ってもらった記憶が無い。
それだけ身体が丈夫だったという事でもあるが、俺にとってそれは決して幸福な事では無かった。

俺は、溜め息を一つ吐くと、愛着の欠片も無い自宅を後にする。
図書館が空くまでの間、俺はいつも当ても無く街を彷徨っていた。
この日も俺は、何も考えずにゆっくりと歩き出す。
だが、おかしい。
何かがおかしい。
痣による痛みで苦しいのだとばかり思っていたが、それにしてはやけに苦しかった。
右下腹部が鋭く痛む。
俺は痛みには鈍感な方だと自分では思っているが、これには流石に耐えられなくて、俺はその場に蹲った。
その時だった。
初老の会社員風の男性が、俺の事を心配して、声を掛けてくれたのだ。
「君、大丈夫か?立てるか?」
男性は俺に手を差し伸べてくれる。
好意は有難いが、もう立ち上がれそうにもなかったから、俺は黙って首を横に振った。
結局俺は、男性が呼んでくれた救急車によって、病院へと搬送された。
痛みの原因は虫垂炎、俗に言う盲腸だった。
症状が進んでおり、炎症が腹膜にまで達していたため、手術を行う事になったのだが、俺への暴行の事実はその診断の際に明らかになった。
結局、父さんと母さんは程なくして逮捕された。
俺は、優しそうな医者に「もう大丈夫だよ、辛かったね」と言われて、たったそれだけの事で、それまで長い間ずっと我慢していた涙を止める事が出来なくなってしまった。
今となっては、恥ずかしい思い出だ。

退院した俺は、親戚に引き取られる事になった。
ずっと不登校児だった俺は、その親戚の勧めでその時から、とあるフリースクールに通う事になる。

それは、暑い夏の盛りだった。
俺は叔母に連れられて、フリースクールの門を叩いた。
叔母を交えての短いカウンセリングの後、俺は施設の見学をする事になった。
果たして自分が馴染めるかどうか、そこの雰囲気を知る上でも重要な見学なのだが、俺はその場で運命の出会いを果たす。
笑顔が、可愛かった。
素肌が、綺麗だった。
とにかく、眩しかった。
見ているだけで息が苦しくて、胸が締め付けられた。
鼓動が、いつもよりもずっと、激しかった。
この子のためになら死ねる、本気でそう思った。
その子は俺と違って、丸顔で太っていた。
「あ、俺、こういう子が好みだったんだ。」
自分の少し特殊な好みを初めて自覚した、そんな瞬間でもあった。

その日、俺はその子に何度も話し掛けようとした。
だが、俺のちっぽけな勇気は、その子の顔を目の当たりにする度に、呆気なく消え去ってしまった。
俺は焦っていた。
急がないと、帰る時間になってしまう。
そんな時、椅子に座っていたその子は、立ち上がると部屋を後にした。
二人きりになるチャンスだった。
通路に出ると、人は誰も居なかった。
俺は大きく息を一つ吸うと、先を急ごうとするその子の服の袖を掴んだ。
その子は俺の方を振り向くと、怪訝そうな顔をする。
チクリと胸が痛んだ。
だが、もう後が無い。
この時を逃せば、俺はもうこの子と友達にすらなれないような気がした。
だから抱き付いた。
俺の中に残っていた最後の勇気を、この時に使い果たした。
俺は怖かった。
拒絶されたら、死ぬつもりだった。
本気だった。
すると次の瞬間、信じられない事が起こった。
その子は、俺の目の前で確かに、笑ったのだ。
この上無い、飛びっ切りの笑顔だった。
その瞬間に、俺はその子と友達になった。
「ぼく、ハルって言うんだ。よろしくね!」
その子が、ハルが俺に手を差し伸べる。
柔らかい、温かい手だった。
俺は嬉しかった。
俺は、自分の右手を差し出すと、心の中で秘かに、何があってもハルを守るんだと誓っていた。

その日からの俺は、幸せだった。
俺はそのフリースクールに、毎日休まずに通った。
もちろん、ハルに会うためだ。
俺たちはすぐに仲良くなり、何処に行くにも一緒だった。
そんなある日の事。
その日、俺は深刻な表情のハルを前にして、戸惑っていた。
何しろ、初めて見る表情だった。
何か悩みがあるに違いない。
誰も居ない、深夜の公園。
呼び出されてそこに居た俺は、ベンチに腰掛けると、その前で立ち尽くすハルが口を開くのを、ひたすら待っていた。
すると……。
ようやく意を決したハルは、俺の隣りに腰掛けると、ぼそりぼそりと、抱え続けていた悩みを打ち明け始めた。
それは、俺にとっては衝撃的な告白だった。
「あのね、シズク……。ぼくね、好きな人が出来たんだ……。」
その瞬間、俺のちっぽけな心の中に、嵐が巻き起こった。
その相手が俺であって欲しいという願いと、ささやかな期待、そして大きすぎる不安。
出来る事なら、時間を止めてしまいたかった。
覚悟を決める時間が欲しかった。
だが無情にも、運命の時はやって来る。
「驚かないでね……。ぼくが好きになった子は……シンヤって言うんだ……。」
その瞬間に、俺の人生で三度目の、そして最大の恋は、静かに幕を閉じた。
そのままハルが黙り込むので、俺はなるべく平静を装いながらも、出来る範囲で励まそうとする。
……本来なら、もっと喜ぶべきだったのかもしれない。
何故なら、その軽くない事実を告白する相手に、俺を選んでくれたのだから。
もっとも、この時の俺はそこまで冷静では無かったのだけれど。
それでも俺は、少しでもハルの力になりたくて、口を開く。
「男を好きになったのか。大変だな。でも、そこまで落ち込む事でもないぞ。俺だって何度も、そういう経験をしてるしな。」
そこまで言い終えると、俺は深く溜め息を吐いた。
何しろ、これまでの恋はいずれも、失恋という形で幕を閉じているのだ。
だが、俺もそこまで落ち込む必要も無かったのかもしれない。
気が付くと目の前のハルが、すっかり安心した様子で、こちらを見つめていたからだ。
その顔を見て少しだけ気分を持ち直した俺は、気になった事をハルに尋ねる。
「ところでさ……お前が好きになった子って、どんな奴なんだ?」
今から思えば、これは聞くべきではなかったのかもしれない。
何故なら俺はこの後、酷く打ちのめされる事になるからだ。
だが、俺の勝手な都合など無視するかのように、ハルはとても嬉しそうに口を開く。
「あのね、シンヤ君はぼくと同じで、丸顔で太っててね……。」
その後、ハルが何を話していたのか、まるで記憶が無い。
俺はこの時、込み上げる涙を堪えるのに必死だった。
俺は体質的に太れないのだ。
自分にはまるで望みが無い事を思い知らされた俺は、結局「告白、頑張れよ!お前ならきっと大丈夫だから」とだけ言い残して、その場を去った。

俺はその後、朝までの時間をずっと、独りで泣いて過ごした。
だが、翌日にハルからもたらされた知らせは、俺を更に狂わせた。
告白は失敗だった。
それだけならまだしも、シンヤという男は事もあろうに、ハルに対して面と向かって、気持ちの悪い変態だと、そう言い放ったのだそうだ。
俺は許せなかった。
すぐにでも殴りに行きたかったが、シンヤの居場所を聞いてもハルは口を噤んだまま。
結局何も出来なかった俺は、ただ黙ってハルを抱き締めた。
歯を食い縛って、震える手で泣きじゃくるハルの背中を撫でる。
知らぬ間に、俺の心までもが満たされていく、癒されていく。
それからしばらく経って、ようやく落ち着いたハルは何かを口にした。
よく聞こえなかったので聞き返すと、ハルは悲しそうな顔をして一言、こう叫んだ。
「お願い!ぼくを抱いて!」
愚かで卑しい俺の心の中に、またも嵐が巻き起こる。
考えてみると、絶好のチャンスなのだ。
腕の中に居るハルを本当に抱く事が出来るのならば、俺は死んでも良かった。
そんな事、そんな馬鹿な事、許されるはずも無いのに……。
俺にはそんな権利はこれっぽっちも無いのに……。
そんな事をしたら、もう友達ですら居られなくなるのに……。
なのに、どうして俺は、そんな事……。
しばらくして、どうにか正気を取り戻した俺は、一歩下がってハルの両肩を掴むと、こう言った。
「それは出来ない相談だ。俺には、大切なお前を犯すような真似は出来ない。お前なら、きっといつかいい奴と出逢える。だからそれまで、自分を守れ。そのための協力なら俺、何でもするから……。」
渾身の想いだった。
俺の言葉を時間を掛けて飲み込んだハルは、俺の腕の中でただ、泣きじゃくっていた。
まだ暑い、夏の終わりの夜だった。

その後、一つとても嬉しい事があった。
それからの俺は、大好きなハルと、より一層絆を深める事が出来たのだ。
ハルは俺によく懐き、甘える。
俺はというと、それはもう、嬉しくて仕方ない。
俺はハルの事を、きっと誰よりも愛している。
だからこそ出来る事がある。
そんな想いが、プライドが、俺の全てを支えて、俺を前へと進ませる。
俺は、最近その存在を知った、あの噂の青い鳥なんかに頼らなくても、それでも十分に幸せなのだと痛感しながら、今日もハルに会いに行くのだった。

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Bluebird : キミとボクの詩 2

星が瞬いていた。
ここに越してきてから、天体観測が趣味になった。
相方のスーちゃんが隣で眠るベッドからそっと抜け出して、目の前のルーフバルコニーにそっと出てみる。
今夜は晴天だ。
ここからは、星が良く見える。
一旦キッチンに向かいお気に入りの地ビールとおつまみのウォッシュチーズを持ち出すと、程よい大きさのルーフバルコニーに鎮座するアウトドア用のソファに腰掛けた。
傍には天体望遠鏡。
まずはソファにもたれ掛かり、ゆっくりと地ビール、そしてチーズの味を堪能する。
今夜は、満天の星空に乾杯だ。
そして、いよいよ望遠鏡を覗き込む。
今は、春の星座が良く見える。
ぼくの名前はハル、乙女座のA型。
スーちゃんは獅子座のB型。
という訳なので、まずは獅子座を探してみようか。
「おめぇ、俺様抜きでビールか?俺は寂しいぞ。」
振り返ると、僕の相方スーちゃんがブスッとした表情で立っている。
「今、スーちゃんの分も持ってくるから、隣座ってて!」
僕は寝起きのスーちゃんの機嫌をこれ以上損ねないように、慌ててキッチンに舞い戻る。
地ビールとさっきのウォッシュチーズの他に、ブリーとブルーチーズも冷蔵庫から取り出して、トレーでバルコニーまで運ぶ。
見ると、先に置いてあったチーズの残りが全部無くなっている。
さすがの食いしん坊だ。
「天体観測はしないの?」
時々こんな事がある度に、一応聞いてはみるのだけれど。
その度に「お前さんを観察してた方が楽しいからな」なんて笑いながら言われてしまうので、こっちとしては何だか照れ臭い。
結局、天体観測はそこそこに、バルコニーで酒盛りとなってしまった。
でもま、それも一興。
「ところでよ、昨日珍しい事に、白い野良猫を見かけてな。ペルシャだぞ、可愛かったぞ。」
僕はびっくりした。
ペルシャの野良猫を見かけるなど、路上に落ちた一万円札を見つけるよりも難しいに決まっているからだ。
「でよ、ここはマンションだけどもペット飼育も可だろ。飼ってみたいんだがよ、どうかよ。」
スーちゃん、目がウルウルしている。
よっぽど飼いたくて仕方ないらしい。
だから僕は即答した。
「いいよ!今度見かけたら連れて来ようよ。」
「よし!そう来なくっちゃな!」
こうして我が家は一匹の新しい家族を迎え入れる事になった。

翌朝……。
「ねぇ、スーちゃん起きて!野良猫探しに行くんでしょ!」
スーちゃんは寝起きが悪い。
一度で起きない位では、めげてはいけないのだ。
僕は懸命に、スーちゃんの大きな身体を揺り起こす。
「んぁ……しょうがねぇ、起きっとすっか。」
「さ、早く支度して!」
こうして僕たちは、朝食前に散歩に出かける事にした。

「朝の空気は気持ちいいねぇ。」
この近所には大使館が多い。
散歩にはうってつけの道が多く、毎日でも飽きない。
僕がこんな場所に住めるのも、スーちゃんのお陰だ。
「おぉ、早速お出ましだぞ。見たとこペルシャだってのに、首輪も付けてねぇ。」
白い野良猫がペルシャだと改めて確認出来て、僕は目を剥いた。
「おかしいね、でも毛並みが良くないしお腹空いてるかもしれないから、とりあえず連れて行こうか。」
動揺を抑えつつ、提案。
ま、元々そのつもりだった訳だし。
「おぅ、もちろんだぞ!今日からこいつの名前はフランで決まりだな。」
フラン、悪くない響きだ。
「それでいいと思うよ。帰ったらグルーミングしてあげないと。」
「それよりこいつの飯だぞ、ヒルズに猫専門のペットショップがあるだろ、そこで一式調達だな。」
「あいあいさー!」

その後、フランを抱きかかえたスーちゃんと一緒に僕は、そのまま歩いて六本木ヒルズまで向かった。
「さ、帰るぞハル、フラン。」
「荷物重たーい!」
買い物は三十分程で済んだものの、僕の両手は荷物でいっぱい。
「近いんだし、我慢すれ。後で美味い飯たんまり食わせてやるからよ。」
「あーい。」

そして、帰宅。
「ただいまー。」
「うぃーす。」
「お邪魔しますわ。」
!!!
猫が、喋った!
「おぉ、フランはメスだったかー。」
いや、そこじゃなくて、もっと根本的な所に驚かなきゃ!
「猫が喋った!!」
思わず目が点になる僕。
平然とフランを撫でるスーちゃんが眩しい……。
「あら、驚かせてしまってごめんなさい。私、喋れるの。フラン、いいお名前ね。ありがとう。」
流暢に日本語を使いこなす野良ペルシャ猫。
考えれば考える程に、話が荒唐無稽過ぎて頭がクラクラする。
でも、スーちゃんは相変わらず平然としているから不思議だ。
「スーちゃん、驚かないの?!」
「野良のペルシャだなんて初耳だからな。喋ったっておかしくねぇってもんだぞ。」
うーん、そんなもんなのかなぁ。
「あの、お取り込み中悪いんだけど、お食事を頂けるかしら。お腹が空いてしょうがないの。悪いわね。」
「おし、ちっと待ってろ!ハル、買ってきた器洗ってきてくんねぇか?」
「りょーかいっ!」

五分後……。
「黙々と食うのな。」
「それだけお腹空いてたんだよ、可哀想に。」
「あら、恥ずかしいわ。ご覧にならないでくださる?」
フランが恥ずかしがるので、僕とスーちゃんはダイニングから、ガラスパーティーションで仕切られたリビングへと移動し、視線を外す。
「フランはどうやら、淑女らしいぞ。」
「洗ってやったら、可愛くなるね。」
僕とスーちゃんは、まだ謎だらけのフランの話題で盛り上がる。
「ねぇスーちゃん、フランってきっと異世界からの使者なんだよ。でなきゃあんなに喋れる訳ないもん。どっから来たのかな?」
「後で聞いてみねぇとな。飯はキャットフードで良かったみてぇだな。やっぱりそこは猫なんだな。」
「コツ、コツ、コツ。」
振り向くと、フランが手招きしている。
「お、フランどうした?」
「ごちそうさま。美味しかったわ。身体が汚れていて気持ちが悪いから、お風呂に入りたいんだけど、いいかしら。」
「おぅ、俺が入れてやっから大丈夫だぞ。」
「使い方と場所だけ教えてくださる?私、ちょっと特殊な能力があるから、一人で入れます。」
一人でお風呂に入れる猫……うーん、凄いのがやって来たなぁ。
「お、そかそか、悪りぃな。んじゃあ案内すっからよ、のんびりやってくれな。」
「ありがとう。覗いちゃ嫌よ。」
この展開、何処かで聞いた事があるような、はて……。
「……そっか!鶴の恩返し!そんな感じでしょ!」
「あらごめんなさい、恥ずかしいだけよ。私、レディに見えない?きっと汚れてるからね、しっかり洗ってくるわ。」
あらま、勘違い。
「来てそうそういきなり恩返しを求めるだなんて、おめぇも抜け目ない奴だなー。」
スーちゃんに大笑いされてしまった。
こっちが恥ずかしいや。
「さ、風呂は上の階だぞ。そこの階段から上がればすぐだかんな。」
「メゾネットだなんて、素敵なマンション。あなた方良い方達みたいだし、麻布十番に来て正解だったわ。」
「お、飼い主を探してたのか?」
「詳しいお話は後でさせて頂くわ。さ、案内してくれるかしら。」
「おし、着いて来い!ハル、グルーミング用のブラシとか一式、洗面に持って来てくれるか?」
「あーい。」
「風呂に入れるんなら、毛の手入れも一人で大丈夫だな。」
「もちろんよ。」

こうしてフランがお風呂に入っている間に、今度は僕達の食事と相成った。
キッチンで、スーちゃんが手際良く支度する。
「やっぱり熱源はガスに限るな。使い易くていいぞ。」
「何作ってんの?」
「エビチリだぞ、味見すっか?」
「うん!……美味しいっ!流石、スーちゃん!」
「今朝はお昼も兼ねてブランチ、中華三昧だぞ!」
「やったね!」
それから小一時間が経過し、食事のメニューがあらかたテーブルに並んだ頃。
フランが、静々と階段を下ってくるのが視界に入った。
「ねぇ、フラン見違えたよ!綺麗!」
「おぉ、血統書があればコンクールにだって出られそうだぞ!」
「あら、ありがとう。これからお食事?お邪魔しちゃ悪いかしら。」
「全然構わねぇぞ、むしろ話を聞きたくてウズウズしてんだ!こっちこっち!」
スーちゃん、目が輝いてる。
こういう時のスーちゃんの目が、少年みたいで僕の大好物なんだ。
良いもの見ちゃった、っと。

「あら、ご馳走がこんなに沢山。これ、お二人で全部お食べになるの?」
「もちろんだぞ!それとも、フランも少し食うか?」
「あら、私はいいわ。太るし、
人間の食事は身体に良くないものも多いの。」
「そっか。それなら、と。」
「スーちゃん、フラン、いただきまーすっ!」
「俺もですよ、っと。」
そして僕達は、暫し黙々とご飯を食べる。
お腹が空いていたのは、僕達も一緒。
しかも僕達は、筋金入りの食いしん坊だ。
まずはフランよりも目の前のご飯、かな。
「しかし我ながら美味いな。」
「うん、スーちゃんの腕は確かだね。」
「ところでよ、おめぇ色々と変わってっけど、何処から来た何者なんだ?」
食事を始めてから十分程経過して、ようやくスーちゃんが事の核心に切り込んだ。
「私、この天の川銀河の隣の銀河の惑星メムから宇宙船で漂流して来た、遭難猫なの。メムは、進化した猫が支配する小さな惑星。宇宙旅行ブームの折、私もツアーに参加したんだけど、途中でエンジントラブルに見舞われて帰れなくなったの。宇宙船は恐らく、日本海近海の海底で、もう使い物にならないわね。ツアー参加者は日本や韓国などあちこちへ散って行ったわ。私は一人で、東京の港区を目指したの。」
「なるほど。港区を目指したっていうのは、金持ちが多いからだな?」
見るとスーちゃん、ニンマリと笑っている。
僕も、猫の癖に計算高いのが妙に可笑しくて、思わず烏龍茶を吹き出してしまった。
「あら私ったら、恥ずかしいわ。ただ、猫の私が未知の惑星で波風立てずに生きて行く為には、それ位のあざとさは必要だと思ったの。それは、分かってくださる?」
見ると、フランは身体を少し震わせていた。
だから僕は、間髪入れずに頷いた。
「もちろんだよ!」
そしてスーちゃんも……。
「おぅ!ここに来たからにはもう安心だぞ!俺様は親の遺産を受け継いで不動産経営なんぞをやっている、いわゆるボンボンだからな。フラン一匹、いや一人の面倒見る余裕位は幾らでもあっから、大船に乗ったつもりで居とけ。」
フラン、スーちゃんに抱き締められて、嬉しそうだ。
ちょっと妬いちゃうな。

「ところでよ、お前さんの特殊能力って奴を知りたいんだけどよ、ダメか?」
「あら、大した事は無いのよ。目の前にある軽い物なら触らなくても自在に扱える事と、念じると人や動物の心が少しだけ読める事ね。出会った時からあなた方が良い方達だっていうのは分かっていたけれど、それもその能力のお陰。でも、心を読むとどっと疲れが出るから、あんまり度々は出来ないの。私だと、二日に一度がせいぜいね。」
これは驚いた!
どうやら僕達は本当に、とんでもない異世界からの“使者”と巡り合ったらしい!
「ねぇフラン、心を読めるって、具体的にはどれ位まで行けるの?」
「おぅハルよ、わざわざ身を乗り出さなくても、フランは逃げねぇぞ。」
またスーちゃんに笑われてしまったけど、それでも構わないんだ。
もしかしたら僕達、人生もっと楽しく変わるかも!
「期待させちゃって悪いけど、気合いを入れて念じたところで、読めるのはボンヤリと。良い人か悪い人か、良く思ってくれているか嫌われているか、恋愛感情はあるのか無いのか、分かるのはそれ位。それ以上の事は分からないし、私はここで静かに暮らしたいから、自分の能力を商売に利用されるのはお断り。それにもう一つ、私地球の猫よりもだいぶ寿命が長いの。でもあなた方なら、大丈夫よね?」
なるほど、徘徊する街に麻布十番を選ぶ訳だ。
こんな五億ションにローンも抱えずに住んでいる若者ならば、自分を可愛がってくれると思ったのだろう。
つくづく計算高い、けれども憎めない猫だ。
「おし、フランの事は俺達が看取ってやっから、心配すんな!葬式や墓もちゃんとしてやっからな。」
「あら、まだまだ先は長いわよ。」
僕達は笑った。
新しい家族を迎えて、人生にちょっぴりハリが生まれそうだ。

そもそも僕がスーちゃんの家に転がり込んだのは、今から七年も前の事。
当時、スーちゃんが二十三歳で、僕が十五。
スーちゃんは二十歳の頃に飛行機事故で両親を亡くしており、以来受け継いだ遺産で暮らす身だ。
スーちゃんの両親は旅行先のアメリカで、友人が所有するプライベートジェットに乗り合わせた際に、墜落事故に巻き込まれて悲劇に遭ってしまった。
相続税は莫大だったようだけど、当時住んでいた神宮前の一戸建て他何件かの不動産と、預金や株の一部は手放さずに済んでいた。
今住んでいるここは、古くなった神宮前の家を売って買い替えたもの。
“マンションは住むには手軽でいい”とはスーちゃんの言葉だけど、僕も同感だ。
一戸建ては建てる時から大変らしいし、ここに越して来てからスーちゃんの手間が随分と省けるようになったのを、見ていて感じる。
どんな家も定期的にメンテナンスが必要だけど、一戸建てだと逐一自分で業者を呼ばなくちゃいけない。
神宮前の家は古い家だったから、その手間と費用は馬鹿にならなかったのだ。
しかも、固定資産税もべらぼうに高い上に、床面積が広いために光熱費も目玉が飛び出る金額だというおまけ付き。
その上、二人暮らしの男にとっては間取りも無駄が多くて使いづらく、自分達だけでは掃除も出来やしない。
その点マンションは楽チンでいいと、スーちゃんはここに越して来てからいつもご機嫌だ。
ゴミ出し一つ取っても、通いのメイドさんを取らなくても、もう気を遣わない。
それに、神宮前の家は土地の評価額が高かったので、今住んでいる部屋の購入代金を差し引いても多額のキャッシュが残るなど、売却はまさにいい事づくめだったのだ。
ちなみに楽チンさと快適さでは高級賃貸マンションが一番らしいけど、そこは親譲りで持ち家志向の強いスーちゃんだけに、譲れなかったようだ。
話が逸れたけど、スーちゃんは出会った時にはまだ大学を卒業してから一年程度しか経っておらず、不動産経営のイロハも知らなかったらしい。
今ではすっかり資産家の顔だけど。
一方僕はというと、幼い頃から虐待を受けていて、十五の頃に中学卒業を待って家出。
以来、今は亡き友人シズクの部屋に転がり込んで世話になりつつ、身体を売って食い繋いでいた。
早い話が、初めはスーちゃんと僕はお客さんとボーイの関係だった、という事。
当時、モテそうなスーちゃんが何故僕なんかを買ってくれたのか不思議で聞いてみたら、「めちゃめちゃタイプ」だったとの事。
嬉しくて、変な笑いが止まらなかったのを今でも覚えている。
それから程無くして付き合い出して、今日に至る、という訳。

「何考え事してんだ?お粗末様、っと。」
「あ、ご馳走様っ!美味しかったよ!」
いけない、いけない。
まだ食事の途中だったんだ。

「ねぇ、スーちゃん。これからどうする。」
「ドライブでも行くか。」
「賛成っ!フランは?」
「あら、楽しそう。ご一緒させて頂けるのね。嬉しいわ。」
「かしこまった言い方は無しだぞ。俺達三人、家族だかんな!さ、支度支度、っと!」
「そういえばフラン、首輪まだ付けてなかったね。」
「お、そうだな。少し窮屈だけど我慢してくれ。ハル、キャリーバッグと首輪、あと念の為にリードも持って来てくれ。」
「はいな!」

こうして僕達はドライブに出掛ける事になった。
ちなみに、スーちゃんの愛車はベントレー。
スーちゃんのお父さんはカーマニアで、神宮前の家には大型乗用車三台分ものインナーガレージが備わっていたけど、車に興味の無いスーちゃんは正直少し持て余していたようだった。
結局、両親の死後少し経ってから、雰囲気の気に入ったオープンのベントレーを除いた二台を売却、今に至る。

「さ、ハルさん、行きますよっと。」
「はーい!」
フランは、スーちゃんの胸の中。
車の中ではフランは後部座席だろうから少しの間ではあるけど、何とも気持ち良さそうだ。
あーあ。
見ていて少しイライラした僕は、負けずにスーちゃんの手を握る事にした。
「あら、妬かなくてもよろしくてよ。私、恋愛だと猫しか好かないの。」
何だ、心配して損しちゃった。
「可愛い奴だな。」
スーちゃんからキスを貰って、テンションはいよいよMAX!
「何処行こうか?」
「海でも見るべよ、お台場なんかどうかよ。」
「賛成!着いたらお昼だねー。」
「おぉ、まだ食うのか?流石の我が相方、食いしん坊ぶりは俺に負けてねぇぞ。」
「冗談だってば。」
「海なんて、見るのは久し振りね。お台場の海は綺麗かしら?」
「ごめん、そうでもないかも。」
「あら、いいのよ。」
こうして地下駐車場からベントレーに乗り込んだ僕達は、ゆったりと都内をクルーズし始めた。
「どんどん、景色変わってくね。東京って、やっぱり凄いや。」
「あら、お二人はどちらのご出身?」
「僕は青森。」
「俺ん家は代々東京だな、港区、渋谷区、千代田区辺りをウロウロと。」
「ねぇスーちゃん、一緒に暮らし始めた時にスーちゃんが言った言葉、今でも覚えてるよ。スーちゃんは?」
「んぁ、忘れたな。」
「あら、どんなお言葉?」
忘れもしない、あの一言。
「ようこそ、極上の東京生活へ!」
あの時もスーちゃん、今と変わらない顔で笑ってたっけ。
「あら、素敵じゃない。」
「あぁ、何処かの不動産会社の賃貸マンションの宣伝文句の受け売りだったっけな。」
「そう!あれ、すっごく嬉しかったんだから!」
「お前さんは、さしずめ男版シンデレラってとこだな。」
話に花が咲く。
気が付くと車はお台場へと差し掛かっていた。
レインボーブリッジのゲートが、もう目の前だ。

リン、リン、リン……。
そこへ突然の、電話の着信。
鳴っているのはスーちゃんの電話だ。
スーちゃんは、ハンズフリーで会話を始める。
「おぅ、どうしたマサヤ。俺は今、相方とドライブ中だぞ。ん、ん、ウチに来いだと!?あー……。」
「いいよ、オッケー。」
僕はすかさずゴーサインを出す。
「どんな方かしら?」
「スーちゃんの付属中時代からの友達。僕とも友達になったんだ、良い人だし、お金には困ってない人だから大丈夫。」
「ならいいけど……。」
「みんなすまねぇな。これからマサヤに会いに代官山だぞ。借りは今度返すから、堪忍な。」
「問題無いよ、安全運転でGO!」
こうして、何時の間にかレインボーブリッジを渡り終えていた僕達の車は、一路代官山へとひた走る事になった。

「ねぇ、マサヤさん何の用かな。」
「結婚を約束していた彼女にフられたらしいぞ。土曜の昼間からヤケ酒だと。付き合えって事らしいな、全くしょうがねぇ。」
「そか、カレンさんだね。仲良かったのに、どうしてだろ。」
「んぁ、俺はゲイだし、女心と秋の何とかってのは、分かんねぇなぁ。」
それにしても、違和感を感じる。
カレンさんは大人しい人で、そんなに自己主張の強いタイプだとも思えない。
お陰で、出逢ってからというもの、喧嘩一つした事がなかったという二人。
告白もプロポーズもマサヤさんの方から行なったらしいが、カレンさんはちゃんとOKしている。
大体、お金持ちのマサヤさんと違ってカレンさんは普通の人。
マサヤさんは二枚目ではないけど優しいし、遊び人でもないと来ている。
こんなに良い話をご破算にするなんて、一体何があったのか。
気になる。
「何かあるな、俺の勘だと。」
「僕もそう思う。」
車内が重い沈黙に包まれる。
その時だった。
「私をカレンさんに会わせてくれないかしら。心の中を読んでみたいの。もしかしたら、お役に立てるかもしれないわ。」
何と、フランから力を貸したいとの申し出が。
「いいのか?疲れんだろ?」
スーちゃん、心配そうだ。
無理もない。
出会った時フランは、毛並みだって酷くなっていて、疲れ果てているように見えたからだ。
「あら、一度位なら平気よ。マサヤさんの家に行く前に、カレンさんの家に向かえば良いんじゃないかしら。」
「それなら月島だがな。詳しい場所を知らないし、マサヤの了解も取りたいから、やっぱり向かうのは代官山だな。」
「あら、出過ぎた事を言ってごめんなさい。」
「気にしちゃいねぇぞ。さて、後十分もすれば到着だな。それにしてもマサヤん家に行くんなら、ジャケット位着込んで来れば良かったな。堅苦しい雰囲気のマンションだからな、あそこも。」
「ホントだよねー、革靴履いてくれば良かったね。」
「あら、私入れるのかしら?」
「大丈夫だぞ、部屋に着くまではキャリーバッグの中で大人しく、な。」
「了解したわ。」
車はマンションのゲートをくぐり抜け、地下の車寄せへと滑り込んで行く。
そこでマサヤさんと出会い、彼を車に乗せて地下駐車場の並びへ。
「ここは駐車場が全部平置きだから凄いよね!」
「ま、こいつは会社のハイヤーがあるから、関係ねぇけどな。お陰でこいつんとこの駐車場には、何時でも車を停められるから助かるぞ。来客用の駐車場はどのマンションも少ねぇからな。俺らみてぇなゲストの為にわざわざ駐車場を空けてあるって訳だ。だろ?」
スーちゃんが話を振るけど、マサヤさんの返事は無い。
車を地下駐車場に停めると、僕達は無言のままのマサヤさんの案内で、部屋へと向かう。
その表情で、気落ちしているのが一目で分かった。
「ここは部屋までが長えんだよな。アプローチからして大袈裟だっつのよ。」
いつもならここで「高級賃貸は最高だぞ」と胸を張るマサヤさんだけど、今日は流石に無言だ。
列柱が並ぶエントランスを抜け、各棟を縦断する全長百メートルはあろうかという通路を途中まで歩くとようやく、マサヤさんが住む部屋のある棟のエレベーターへと辿り着いた。
「なぁ。」
不意に、このマンションには似合わぬ顔で、マサヤさんがボソリと漏らす。
「どうしたよ、お前らしくもねぇ。」
「カレン、どうしちゃったのかな、俺とカレンの五年って、一体何だったんだろうな……。」
言い終えるのと同時に、深い深い溜め息の音が聞こえた。
正直痛々しくて、その表情までを伺う事は、僕には出来なかった。

それから二十分後。
僕達はマサヤさんの部屋のルーフバルコニーのソファに、三人並んで腰掛けていた。
横で話を聞いていても僕には、カレンさんがシンデレラになり損ねたようにしか思えなかった。
「よし、行くぞ!」
スーちゃんが立ち上がる。
マサヤさんには、フランの事はもう話してあった。
月島の実家の詳しい住所を教えて貰った僕達は、マサヤさんと一旦別れてカレンさんに会いに行く事になった。

スーちゃんは、月島に向けて車を走らせる。
実家は商店街の並びの、老舗の小さな商店だ。
目的地が近くなると、スーちゃんはカーナビで駐車場を探して、車を停めた。
そこからカレンさんの実家まではしばらく歩かねばならないようで、気が急いている僕にはその道程が鬱陶しく感じられた。

「ごめんください、俺らカレンさんの友達の者です。スーが来たと言ってもらえれば、分かります。」
「あら、いらっしゃい。お二人共初めまして。今呼びますから、奥で掛けて待っててくださいな。」
愛想の良いおばさん、恐らくはカレンさんのお母さんに案内されて、僕達は店の奥の座敷へと上がった。
「カレン、どんな顔してっかな。」
「心配だね。」
「あ……。」
程無くして現れたカレンさんは、見るからに憔悴し切っていて、僕達の胸を痛ませた。
「スーさん、ハルさん、いらっしゃい。どうぞ、二階の私の部屋に上がってください。」
沈黙が支配する中、急な階段を昇る際のミシミシという音がやけに五月蝿く聞こえた。
二階には扉が二つあり、カレンさんに続いて左側の扉を潜ると、そこにはパステルカラーの世界が広がっていて、ここが女の子の部屋であるという事を改めて僕に意識させる。
「それで、ご用って何ですか?」
すると、スーちゃんはおもむろにキャリーバッグの蓋を開けて、フランを膝の上に乗せた。
「あら、可愛い。お名前は何て言うの?」
ここでスーちゃんがフランにアイコンタクトをしたのを、僕は見逃さなかった。
「私の名前は、フラン。貴方の心の内、少しだけ読ませて頂戴ね。」
「猫が、喋った!」
カレンさん、腰を抜かしそうな勢いで驚いている。
その隙にフランはカレンさんの心の中を読み取っているようだ。
「……貴方、マサヤさんの事がまだ大好きなのね。間違いないわ。でも悲しくて前に進めない。どうしてそんなに悲しいのか、良かったら私達に教えて下さらない?このままでは、積み重なった不幸に貴方は押し潰されてしまうわ。逃げてはダメよ!」
その瞬間、カレンさんは声を上げて泣き崩れた。
一瞬遅れて、扉の向こうからミシリと微かな音が聞こえたが、恐らくはカレンさんのお母さんがお茶でも持って来たのだろう。
結局、その扉が開く事はなかった。

「泣いてばかりじゃ始まんねぇだろ。胸につかえてる事があったら、ここで話してスッキリしろ、な。」
スーちゃんは嗚咽を漏らすカレンさんの背中を摩っていた。
スーちゃんのこういう優しい所を見る度に、その相方で良かったと心から思う。
「私、ストーカーに何度も犯されて、汚れてるの!マサヤさんには似合わない女なの!中絶もしてるから、もう赤ちゃんも生まれないかもしれないの。わぁー!」
事態が判明した今、僕達のすべき事は一つ。
それは、恋のキューピットになる事だ。
「そんなの、マサヤにとっちゃ大した事じゃねぇよ。俺が保証する、あいつはそんな小さな奴じゃねぇ。良かったら俺が代わりに話してやるから、お前さんはのんびり待ってろ。くれぐれも思い詰めるなよ。」
スーちゃんはカレンさんの横で、ずっと背中を摩っていた。

気が付くと、日が傾いていた。
僕達はカレンさんから承諾をようやっと得て、再び代官山へと戻ろうとしていた。
「ま、人間生きてりゃ色々あるな。昔悲しかった事なんて、幸せになれればいつか忘れるもんさ。お前さんもそうだったもんな、ハル。」
「そうだね!昔の事なんてもうとっくに忘れたよ。」
「それがいいのかもしれないわね。」
やがて僕達は代官山のマサヤさんの部屋へと到着し、事のあらましを告げる。
次第にマサヤさんの表情が晴れやかになっていくのを見て、僕はマサヤさんに申し訳ないと思った。
何故なら僕は、マサヤさんの愛情と優しさを疑っていたから。
その点、付き合いの長いスーちゃんとの絆には勝てなかったという訳だ。
「俺、今からカレンに改めてプロポーズするよ!」
「薔薇の花束でも持って行くといいぞ。」
スーちゃんとマサヤさんは、楽しそうに笑っていた。
僕はその様子を見ながら、これからもこんな風にフランが活躍してくれたらと、そんな虫の良い事を願っていた。
フランは、スーちゃんの膝の上でスヤスヤと眠っている。
そこはどうやら、フランの特等席になりそうだ。

その夜、マサヤさんはカード会社のコンシェルジュに連絡、真っ赤な薔薇の大きな花束を手配してカレンさんの部屋を訪ね、プロポーズ。
無事に成功したらしい。
「今日は何だか疲れたね。」
「そうだな、さっきからずっと、フランもスースー寝てやがる。明日予定が無くて助かったな。」
僕は、これまでの緩やかだった日常が一気に騒がしくなる予感を心の片隅で抱きながら、スーちゃん、そしてフランと共に眠りに就いた。

翌日……。
昼頃まで眠っていた僕達は、先にフランに食事を与えた後、寝室のチェストを見に、青山まで行く事にした。
「留守番頼むな、フラン。」
「任せて頂戴。」
フランは律儀に、玄関までお見送りしてくれる。
いい家族が出来て良かった。

「青山の家具屋にペット同伴はまずいからな。」
「お店の駐車場、空いてるといいね。」
「そうだな。でも先に食事もしてぇし、どっか適当な場所に停めて、散歩するべよ。」
「いいね!賛成!」

車を停めて、青山をそぞろ歩く。
美味しそうな香りにつられて、今日のお昼はパスタになった。
「お洒落度MAX、居心地悪りぃな。でも、パスタはんまいぞ。」
「確かに美味しいね。また来ようよ。」
「んぁ、あぁ。」
気の無い返事。
スーちゃんは元々、気取ったお店は苦手なのだ。
今日は、腹の虫に負けたというところだろう。
でも美味しかったから、また一緒に来たいな。
「ねぇ、いいでしょ?」
「おぅ、別にいいぞ。」
やったね!

すっかりお腹一杯になって店を出ると、スーちゃんがバッタリ昔の知り合いと出くわした。
「おぉ、スーじゃないか。久し振りだな〜!」
「カズヤじゃねぇか。随分と貫禄が出て、もうすっかりオヤジだな。」
「お前はホント変わらないな〜。毎日いいもん食ってんだろ、肌がツヤツヤしてるぞ。」
スーちゃんはカズヤと名乗る男性とその場で盛り上がって、みんなで彼の家に押し掛けようと言い出した。
カズヤさんも乗り気で、互いの連絡先もしっかり交換。
寝室のチェスト購入は、後日と相成りそうだ。
「カズヤ、お前電車か?俺達は車で来たから、乗ってけ。」
「言われなくてもそうするよ。」
こうして僕とスーちゃんは、カズヤさんとしばらく行動を共にする事になった。

「住所はどの辺だ?カーナビで検索掛けるからよ。」
「西新宿八丁目。最近出来たタワーに越したんだ。狭い部屋だけどな。」
「あー、何となく分かったぞ。あの再開発された所だな。了解っと。」
相変わらず会話は、僕を抜きで進められていた。
「お前、まだ神宮前のあの家に住んでんのか。」
「うんにゃ。もう引っ越したぞ。麻布十番に程近い、こじんまりとした低層のメゾネットにな。」
「お前の事だから、分譲だろうな。」
「おう、もちろんよ。」
「管理費高いだろ。」
「かなり取られるな、高いぞ。マンション暮らしは便利だし、まぁ仕方ねぇ。」
「そういえば、実家の古屋敷に余程うんざりしてたのか、昔から高級賃貸に住みたがってたよな、マサヤ。今どんな所に住んでるんだろうな。」
「経営する会社が軌道に乗ってな、今代官山の超高級賃貸にお住まいだぞ。」
「オヤジさんから譲り受けた時は、経営傾いてたんだろ?あいつもスゲぇな。」
「諦めろ、あいつはノンケで、もうすぐ結婚するんだからよ。」
お、カズヤさんってこっちの人だったのか。
なら聞かなくても僕の立ち位置は分かってるんだろうな、納得。
「マサヤが結婚……そうか、大学以来だもんな、みんな色々あるよな。」
声のトーンが変わったので後部座席を振り向いて見ると、明らかに気落ちした様子のカズヤさん。
深い溜め息なんか吐いているところを見ると、恐らくはずっと好きだったのだろう。
僕には何も言えなくて、ただ黙っているしかなかった。
その後、車は沈黙を宿したまま西新宿へと滑り込んだ。
駐車場に車を停め、暫し歩くとマンションに到着。
「……何だか、オフィスビルみたいな外観ですね。」
そういえば自分、カズヤさんと出会ってから初めて口を利いた気がする。
「綺麗な外観でしょ。スーの連れの子だよね、名前は何て言うの?」
「こいつはハルと言ってな、俺の相方なんだぞ。」
「そう。」
カズヤさん、素っ気ない返事。
僕、どうやらこの人とは合わないみたい。

十分後。
部屋で談笑する二人。
僕はその様子を、遠巻きに見ているだけ。
高さ百九十メートルオーバーの制振タワーマンションの上層階だけあって、眺望は圧巻。
だからまぁ、退屈はしない。

時刻はまだ昼過ぎ。
だというのにカズヤさん、頻りに酒を勧め始めた。
で、結局部屋に来て三十分も経たない内に酒盛りに。
しかも出て来たのは度の強い日本酒。
おつまみも山のよう。
「さぁさぁ、飲んで食べてくれ。ほらハルくん、飲まないと。」
カズヤさん、これまで僕には全く関心が無さそうだったのに、頻りに酒を勧めて来る。
困ったな、どうしよう……。
するとスーちゃんが、そっと耳打ち。
「程々にしとけ、頃合を見計らって帰るからよ。」
僕は黙って頷いた。
その後、二人は三十分程談笑を続けた。
僕はというと、カズヤさんに飲まされ過ぎてそろそろマズイ感じ。
「さ、帰るぞハル。」
「え、車でしょ!今日は泊まって行きなさいよ!」
突然口調が変わったカズヤさん、動揺を隠し切れない様子だ。
「残念だったな。いつも利用してる運転代行業者があるんで、問題ねぇぞ。」
「だったら三人で……!」
カズヤさん、何と酔った勢いでスーちゃんにキスをした。
その一部始終を僕は見たくなくて、でも見ないといけない気がして、歯を食い縛りながら見つめ続けた。
スーちゃんは最初抵抗せず、それが僕のショックを深めた。
だけど、カズヤさんの手がスーちゃんの下半身に掛かり、僕が部屋を出ようとしたその瞬間、後ろの方で怒声が響いた。
「やめろ!」
見るとスーちゃん、凄い力でカズヤさんの腕を握っている。
「痛い、痛い!やめて!警察呼ぶわよ!」
僕は遂に頭に来て、二人の間に割って入ろうとするのだが……。
「いいぞ、ハル。この程度なら正当防衛だから、警察も動かねぇ。嫌な思いをしたのはお互い様、これでお別れってのがいいだろカズヤさんよ。」
少しだけ、胸がスッとしていくのを感じて、僕は笑った。
カズヤさんには睨まれたが、そんなのは気にしない。

帰りの車内。
運転は馴染みの代行業者の方がやってくれている。
こんな時はもちろん、僕達二人は後部座席に座るのだが。
今日はあんな出来事があったせいか、業者の方に気を遣ってしまって、こちらからはスーちゃんに上手く話せない。
スーちゃんもそれは同じようで、結局終始無言のまま、車は自宅マンションの車寄せへと滑り込んだ。

車から降りて、開口一番。
「怒ってるか?」
スーちゃん、珍しくオドオドしている。
だから僕は笑ってみせた。
まだ心は少し痛いけど、気にせず忘れようと思う。
「油断してたんでしょ。」
僕が指先で頬をつつくと、スーちゃんは頷いて声を上げて笑った。
これでいいと思った。
一件落着、かな。

そういえばこの部屋には勝手口として使えるサブエントランスがある。
そこから部屋に入ると、ちょうど夕暮れ時だったからか、ダイニングでフランが食事をしていた。
「お、見てはいけませんよ、っと。さ、リビングへ直行直行。」
相変わらず黙々と食べるフラン。
一人で食べる食事って、結構そんなもんだよなって、改めて思った。
「あら、お帰りなさい。この時間に酔ってらっしゃるという事は、家具選びはお流れになったのね。」
少し遅れて、後ろからフランの声が飛んで来た。
「流石はフラン、俺達の事なんてお見通しだぞ。」
「そうだね、凄いよね!」
僕達は笑いながらソファに座る。
「あら、猫だからって馬鹿にしないで。それ位は当然よ。」
食事を終えたフランがこちらへやって来たので、三人での一家団欒だ。
「今日はさっきまで古い友人と飲んでたんだけどよ、危うく性的暴行を受けるところだったんだぞ、この俺様がよ!」
「あら、怖いわ。お身体の方は大丈夫でしたの?」
「おぅ、俺もそこまでヤワじゃねぇからな、問題ねぇ。」
「あの人、マサヤさんの事が好きだったみたいだけど、スーちゃんにまで手を出すなんて、節操無さ過ぎだよ。」
「言えてんな。」
「お二人とも、夕食はもうお済ませになったの?」
「別にいいべよ。つまみが山のように出て来てよ、散々食ったからな。」
「同感。こないだ買った映画のブルーレイでも観ようか。」
「そうだな。」
「あら素敵、私もご一緒させて頂くわ。」

そこへ……。
「んぁ、メールだな。カズヤからだ。詫びのメールか?」
「ねぇ、それどんなメール?」
「ちょっと待て、えーと……。ふぅ。」
スーちゃんはメールを
一通り読み終えると、一つ溜め息を吐いた。
「ねぇ、何が書いてあったのさ。」
「あー。カズヤ、ストーカーに付き纏われてるらしい。それにマサヤの結婚のショックも重なって、俺を抱こうとした、と。」
「そのストーカーって、男の人?それとも女の人?」
「女だな。それも、マサヤがカレンと出逢う前に付き合ってた女でよ。その女、マサヤと付き合っていながらカズヤにも手ぇ出して、二股掛けてたんだ。で、マサヤを振ってカズヤに乗り換えた、と。」
「あれ、カズヤさんってこっちの人じゃなかったの?」
「大学時代から俺もそう思ってたんだけどよ、どうやら本人曰く、ゲイ寄りのバイらしいぞ。世間体の問題もあって、その女に押し切られる形で交際を始めちまった、と書いてあんな。その後、相性の不一致が原因で、カズヤの方から振ったとも書いてある。」
「何故メールを送って来たのかが気になるわね。」
固唾を飲んで、スーちゃんを見守る僕。
こんな時、どうにも嫌な予感がして仕方ない。
「プライドを傷付けられた形の女が、付き合ってくれないなら青い鳥にお願いして一緒に死んでもらう、と脅して来たんだと。どう思うよ。」
「青い鳥に纏わる伝説なら、私も知ってるわ。恐らく、本気ね。」
「ぼくもそう思う。女の人からの連絡は、何時頃あったの?」
「ついさっきだと。」
「急いだ方がいいわね。でも、いざとなったら私に考えがあるの。任せて頂戴。」
「おし、カズヤん家に出発だな!」

さっき飲んだばかりで酔いが覚めていない事もあり、スーちゃんは慌ててタクシーを呼んだ。
次第に事の重大さを理解したのか、珍しくオロオロしている。
無理もない。
何故なら僕達は、青い鳥の持つ力の大きさを、嫌という程に身を以て味わっているからだ。
今、冷静なのはフランだけに見える。
この状況下での妙案って、何だろう……。

僕達は降り出した雨の中、普段は乗る事も無いタクシーで急いだ。
タクシーがマンションの車寄せに滑り込むと、僕達は一目散にフロントのコンシェルジュの元へと駆け込む。
そうして事態を説明し、カズヤさんの部屋に取り次いで貰うも、既に応答がない。
駆け付けたマンションのスタッフと僕達が、大慌てでカズヤさんの部屋へと到着。
青い鳥が関連する事件だけに対応は早く、そうした事態の為に常駐で待機しているスタッフの鍵で、ロックを解除するも……時既に遅かった。
在宅している筈の部屋には誰も居らず、取り乱したカズヤさん、もしくはストーカーの女によるものと思われる部屋の散らかり具合が、見ていて痛々しい。
頭上には、窓も開かないガラスカーテンウォールのタワー内部だというにもかかわらず、青い鳥が舞っている。

次の瞬間だった。
キャリーバッグの中に居たフランが、中から飛び出して青い鳥に凄んだ。
「カズヤさんを元に戻さないなら、その嘴をこの場所からへし折って、貴方の力の源である人の命や魂、この先ずっと吸い取れないようにしてやるわ!どうする!」
すると、どうだろう。
驚くべき事に、カズヤさんはおろかストーカーの女までもが、次第に実体化しながら僕達の前に姿を現したのだった。
そして何時の間にか、青い鳥はその姿を消していた。

「女を捕まえて、警察に引き渡しましょう!」
僕が叫ぶと、マンションのスタッフが泣き叫ぶ女を別室へと連れて行った。

「フランよ、どうして青い鳥が平気なんだ!?」
「そうそう、何で青い鳥がすごすご引き下がったのか、僕も分からないや!」
僕とスーちゃんは、口々に驚きの声を上げる。
カズヤさんはというと、茫然自失、動けないといった様子だ。
「話は、後でするわ。それよりもマンションの方に私の事、口止めしておいてもらえる?」
「了解!青い鳥を追い返した猫の事なんて、みんな怖くて黙ってるよ!」

結局その女は、殺人未遂の容疑で取り調べを受けたが証拠不十分により不起訴、別件のストーカー行為により逮捕となった。
僕達も取り調べには参加したが、遂に喋る猫の話題は誰の口からも出なかった。

帰りのタクシーの車内で。
僕達はフランから、事のあらましを確認する事が出来た。
「青い鳥の力は、私達メムの猫には効かないの。私達は突然変異によって青い鳥の力を跳ね返す事が出来るようになったメムの大猫類の末裔。それに言ったでしょ?近くのものならば自在に操れるって。そんなに力はないけれど、あんな小さな青い鳥の嘴をへし折る事位、お茶の子さいさいなのよ。」
僕達は、開いた口が塞がらなかった。
ともあれ、この事件を機に、凄い力を持った猫を味方に付ける事が出来たのだという事が分かったのだから、カズヤさんが無事に戻って来た事と合わせて、本当に良かった。

翌日……。
「おぉ、我が家の眠り姫はまた寝ちまったのか?おぃ、起きろ、晩メシだぞ。」
相方であるスーちゃんの声で目を覚ました僕は、眠い目をこすりながら記憶を手繰り寄せる。
「うぅ…さっき食べたよぅ?」
やっぱり、夕食ならもう食べた気がしたので、僕はソファから体を起こしながら、目の前の大きな体を不思議そうな表情を作って見上げてみる。
「あれは昼メシだったんだぞ。」
スーちゃんは笑いながらそう言うと、僕の額を軽く突っついた。
「でも食べたの四時過ぎだよねぇ?」
僕はソファの上であぐらをかくと、頭をかきながらスーちゃんに問い返す。
「誰かさんのせいでな。」
『あれ、そうだっけ?』
僕はまだよく回らない頭で今朝起きた時のことを思い出してみる。
そういえば……今日は僕が寝坊しすぎたせいで、朝食は抜き、昼食は四時過ぎになったんだっけ。
昨日は疲れたもんなぁ。
いつもはスーちゃんの方がずっと朝寝坊なのに、今日に限って眠い眠い……。
「今何時?」
僕はあくびをしながらスーちゃんに尋ねた。
「八時過ぎだぞ、一日十七時間も睡眠とか、有り得ねぇぞ。」
「眠ったまま起きないのかしらと思って、心配していたところよ。」
「うーん、寝過ぎだよねぇ。」
スーちゃんとフランが呆れた顔で笑うので、僕は照れ隠しに苦笑する。
「ちなみに晩メシだけどよ、量は少なめにしといたかんな。後で夜食作っからよ、映画でも見ながら、ゆっくり食うんだぞ。」
今日は朝寝坊の僕に変わって、スーちゃんが食事を作ってくれていた。
僕も料理は作れるし、特に普段の朝食作りは僕の仕事だけど、料理の腕そのものは僕はスーちゃんにはとても敵わない。
「明日も予定ないもんね、今夜は夜更かしだねー。」
「どーせ眠れねぇだろ?お勧めの映画があっから、楽しみにしとけな。」
「どーせまた怖い映画なんでしょ!?スーちゃんなんか嫌いだぁ!」
意地悪な顔で笑うスーちゃんを前にして、僕は頬を膨らます。
スーちゃんはスプラッター映画が好きなのだが、僕はというと、大の苦手なのだ。
「まぁまぁ、慣れっとけっこー楽しいぞ。」
「楽しくなんかないもん!いーもん、今日は早寝するもん!」
「おめぇ、何時間寝るつもりなんだ?ま、ぜってー寝かさねぇからだいじょーぶだぞ。」
こうして僕達は、少し遅い夕食を食べることになった。
「ビーンズサラダにひよこ豆のスープ、枝豆入りの混ぜご飯……今日は豆がいっぱいだねー。」
「おう、んまいぞ。」
「でもさ、僕達豆はしょっちゅう食べてるのに、どーしてマメにならないんだろーね?」
僕は、前々から疑問に思っていた事を、この機会にスーちゃんにぶつけてみることにする。
スーちゃんの答えは、馬鹿馬鹿しいけれども、実にわかりやすいものだった。
「豆を食うからだろ。豆もマメも食ったら残らねーぞ。」
「あら、そうね。意外と鋭いかもしれないわよ!」
「なにそれー。だめじゃんねー。」
スーちゃんが大笑いするので、僕とフランもつられて笑うのだった。

その夜……。
スーちゃんがスプラッター映画を見ている横で、僕はかつてミルくんが大好きだったケ○○軍曹の単行本を読んでいた。
それにしても、この漫画も長いよなぁ。
時々耳障りな悲鳴が聞こえるけど、気にしない、気にしない。
と……。
スーちゃんは突然立ち上がると、キッチンの方に歩いていった。
食べ物か飲み物でも持ってくるのだろうと思って待っていると、案の定、スーちゃんは大きなグラスを二個と、何か飲み物の入った瓶を抱えて戻ってきた。
「ちっとそのまま飲んでみ?」
スーちゃんは、グラスに黒っぽい液体をたっぷりと注ぐと、先に僕に渡してくれる。
「あ、アイスコーヒーだね!無糖ブラックだけど、飲みやすくておいしーよ!」
僕は驚いた。無糖ブラックのアイスコーヒーなんて、普段は絶対に口を付けないのだけど、これは本当に飲みやすかったのだ。
「だろ、山ほど作ったからよ、一杯目はそのまま飲め。」
「これぜんぶ!?ちょっと多いよね、てかグラスおっきすぎだよ。」
僕は大きなグラス片手に、笑いながら突っ込みを入れる。
「まぁまぁ。んで2杯目はミルク入り、最後は砂糖も入れんだぞ。」
「わー、どんどんおいしくなってくねー。」
調子に乗った僕がつい口を滑らせて、正直過ぎる感想を述べたところ……。
「おめぇ、ダッチ式アイスコーヒー様に失礼だろー。罰として3杯とも砂糖抜きだぞ。」
スーちゃんから、衝撃の宣告が。
「やだよぉ!スーちゃんの意地悪!」
「さ、俺様は砂糖を入れて、と。お前さんはじっくり香りを味わえ。」
怒った僕を無視して、スーちゃんは自分のアイスコーヒーにだけ砂糖を入れる。なので……。
「じゃー、飲まない(ぷぃっ)」
僕はそっぽを向いて抵抗してみた。すると……。
「おめぇ、子供みてぇだぞ。」
スーちゃんは笑いながら、砂糖の入ったスティックを二本、手に取る。
たぶん、僕のアイスコーヒーの中に入れてくれるんだろうけど、その前に言っておきたいことがある。
「自分だって甘党の癖に!」
そう、スーちゃんも元々、無糖ブラックのコーヒーは飲まない人なのだ。
自分だって好きな癖に、僕のには入れてくれないなんて、やっぱり意地悪だ!
ボクは、スーちゃんの手元をうるうるした目で見つめてみる。
「しょーがねぇな。ほれ、とりあえずミルクだぞ、大好物だろ。」
するとスーちゃんは意表を突いて、手に持っていた砂糖ではなく、小さなポットに入ったミルクを注いでくれた。
「なんか今日はいじわる度200%増しって感じだよ、そりゃー好きだけどさ、後でちゃんと飲ませてくんないとやだよ。」
「何の話だおめぇ。」
「あら、嫌だ。下品ねぇ。」
「もうみんな、ほんっとにいじわるっ!」
「まぁまぁ、ほれ砂糖だぞ、ちっと落ち着け。」
またもや怒った僕をなだめるように、スーちゃんはついに手に持っていた二本の砂糖を入れてくれるのだった。
めでたし、めでたし。
「仕方ないなぁ。うーん、やっぱりコーヒーには砂糖とミルクは欠かせないね!」
やっぱりコーヒーはこうでなくっちゃね!僕はグラスに入ったコーヒーをあっという間に飲み干した。
「さ、これで今晩は眠れねぇぞ……。」
いよいよ、お待ちかねの時間の到来だ。
「うん、朝までね。」
僕は、大好きなスーちゃんの顔を見ながら、ニッコリと微笑む。
「幾らなんでも疲れるべ。」
「寝かさないよ?」
お互いに、一応まだ若いと言える歳なだけに、そんなに早く眠るなんて、不健全だとボクは思う。
「さすがのスケベちゃんだぞ。じゃあ今の内に明日の昼メシの下ごしらえしとくか、どーせ起きらんねぇ訳だしよ。」
「たまには一緒に作ろうよ。でも、夕食になったりして。」
「あり得るけどまぁいいぞ。どうせ予定も無いしな。」
僕は、疼き出す腰に意識を取られながらも、どうにか明日の昼食のメニューを考えようとしていた。

それから三時間後の、午前四時。
「ちっちゃくなっちゃったよー、えい、えいっ!」
「もう出ねぇぞ、腰痛ぇぞ。」
Hを終えた僕達二人は、ベッドの上で楽しくじゃれ合っていた。
「ちっちゃい時のも、かわいーから好きー。」
僕はそう言いながら、スーちゃんのちんちんを掌の中で弄り回す。
すると……。
「おめぇ、“かわいー”とか失礼だろー。」
「じゃー、またおっきくすればいーんだよ!」
スーちゃんがご機嫌斜めな感じで頬を膨らませるので、僕はナイスな提案をしながらちょっとだけ扱いてみた。
「無理言うなっつの。てかおめぇ。」
笑ってはいるけれど、スーちゃんのちんちんは見る間に大きくなっていく。
「ほら、またおっきくなってきたよー。」
「どーしてくれんだ、責任取れ。」
「うん、朝になっちゃうけど許してね。」
さすがに今から始めるともう眠れないから、今夜は徹夜決定だ。
「仕方ねぇな、さ、頑張んぞ。」
スーちゃんは笑いながら立ち上がると、シャワーを浴びるためにバスルームに向かってゆっくりと歩き出す。
「スーちゃん、好きだよ……。」
後を追う僕は、スーちゃんの大きな背中に向かっていつものようにそっと声を掛けた。
「おう、オレは愛してんぞ、おめぇはどーだ?」
スーちゃんはこちらを振り向くと、実に真っ直ぐな顔で照れ臭い台詞を口にしてくれる。
「ぼくも愛してるよ、スーちゃん……。」
「よしよし。朝までたっぷり気持ちよくさせたるかんな!」
「スーちゃぁんっ!」
こうしてボクらは今夜も、温かくて幸せな時間を過ごす事が出来たのだった。

「お昼だねー。」
ぐっすり、と言うにはやや短い時間を睡眠に費やした僕達は、マンションのルーフバルコニーで、昨晩の内に用意しておいたお弁当を一緒に食べる事にする。
「おう、もう腹ペコだぞ。」
昨晩は結局、何かを企んだスーちゃんがお弁当を作ったのだけれど、何が出てくるのかな?
まぁ大体想像は付くけどねー。
「前さ、お弁当のご飯の上に“頑張れ!”って書いてあったの、あれ、すっごくうれしかったんだよー。」
スーちゃんの企みに思い当たる節があった僕は、以前の忘れられない出来事を胸に、とりあえず話を振ってみる。
「今日も書いてあんぞ。」
「えー、ほんとー?」
スーちゃんがニコニコしながらお弁当を指差すので、僕はワクワクしながら、勢い込んで張り切って蓋を開けてみる。
「……おーい。」
見ると海苔で白いご飯の上に一言、“眠い”の二文字が踊る。
「今朝の正直な気持ちだぞ。」
スーちゃんがイヤにニタニタしながら何かを訴えかけてくるので、僕は顔が火照るのを意識しながら、ちょっとだけ拗ねてみた。
「ごめんよぉー、いつも眠いとこ気ぃ遣わせちゃってよぉー。」
するとスーちゃん、腰に手を当ててオーバーリアクションな感じで一言「腰痛ぇ。おめぇ激しいぞ。」だって。
もぅ、頭に来たよ。
スーちゃんの馬鹿。
いくら人が見ていないからって、あんまりじゃんか。
あ、フランが居た。
フランったら、黙々と食事をしながら一言、「下品!」だって。
恥ずかしい……。
だから僕はワザと大声を張り上げた。
「えー!?なに言っちゃってんのぉー!はずかしいじゃんよお!」ってね。
「だってよ、いくらなんでもスケベにも程があんぞ。さすがに今日は無理だかんな。」
スーちゃんったら、さっきからニタニタ、ニタニタしてるんだ。
そんなにHかな、僕……。
何だかちょっと不安になってくるよ。
「今日は無理だなんて、そんなのわかってるよぉー、ぶぅー。」
とりあえず僕は頬を膨らませると、スーちゃんお手製のお弁当に目を落とす。
「早く食えー。」
スーちゃんが急かすので、僕は箸でお弁当の中をかき分け、早速口に入れる。
「あ、下にお肉入ってるんだねー。おいしー!」
具なしのお弁当じゃなくて良かったよ。
これなら残らず食べられそうだ。
「さ、俺様も食うぞ。」
スーちゃんがニコニコしながらお弁当の蓋に手を掛けるので、興味津々な僕はその様子をジッと見守る。
それから三秒後、蓋の開けられたお弁当を見て、僕は思わず笑ってしまった。
「なにそれー。」
僕はスーちゃんのお弁当を指差して、声を上げる。
「“はらへった”って書いてあんだろ、そのまんまだぞ。」
「遊び過ぎだってば。暇だよねぇー、眠いくせに。」
スーちゃんが何故だか胸を張るので、妙に感心した僕は好き半分呆れ半分の目線で一応突っ込んでみたのだけど……。
何とスーちゃん、事もあろうにとんでもない事を言い出した。
「真っ白のほーが誰かさんは喜ぶんだろーけどよ、昨日さんざん出したからもぅいぃだろ?」
「スーちゃあぁんっ!」
こうして僕達三人は今日も、麻布十番のこの街で平和に暮らし続ける。
また事件に巻き込まれる事もあるかもしれないけど、その時はきっと、見た目よりもずっと頼り甲斐のあるフランが僕達二人を助けてくれる事だろう。
「貴方達、良い方達だけれど、ホンっトに下品ね!」
あらま、フランに叱られてしまった。
反省。
という訳で、今回はこの辺で、お・し・ま・い。

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